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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その19)

2022-09-24 | 唯善と後深草院二条

早歌の世界における「或女房」(白拍子三条)と、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」における「昭慶門院二条」は、多くの男性関係者の中にたった一人女性が存在しているという状況だけでもよく似ています。
そこで、「白拍子三条」が後深草院二条の「隠名」であろうと確信している私は、「昭慶門院二条」も後深草院二条の「隠名」の可能性があるのではないかと疑っています。
ただ、「白拍子三条」の場合、早大本に「白拍子三条」の朱注が記された時期は不明ではあるものの、「或女房」は『撰要目録』で「正安三年八月上旬之比録之畢 沙弥明空」と明記された部分に登場します。
これに対し、「昭慶門院二条」は正応五年(1292)の時点で、その名でもって三島社に和歌を奉納した訳ではなく(当該時点では「昭慶門院」自体が存在しない)、三十年後の元亨二年(1322)に成立した『拾遺現藻和歌集』に登場する人物です。
正安三年(1301)と元亨二年(1322)では時期は相当離れていますし、『撰要目録』が鎌倉で書かれているのに対し、『拾遺現藻和歌集』はまず間違いなく京都で書かれている点も違います。
また、仮に「昭慶門院二条」が後深草院二条の「隠名」の場合、「昭慶門院二条」と『拾遺現藻和歌集』の撰者の関係も問題となります。
最もシンプルな結論は、「隠名」を使っている「昭慶門院二条」自身が『拾遺現藻和歌集』の撰者だろうということになりますが、さすがにそこまでストレートに結論を出せる問題ではなくて、二条派の周辺を慎重に探る必要があります。
小川剛生氏は『拾遺現藻和歌集』と『新拾遺和歌集』の重複歌で詞書が類似していることから、『拾遺現藻和歌集』の撰者が二条為藤の息子・為明ではなかろうか、との仮説を提示されているので、その是非も検討する必要があります。
ということで、まだまだ先は長いのですが、暫くは「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の参加者を丁寧に追って行くことにします。
さて、二条為道については『とはずがたり』や『増鏡』での記述について補足したい点がありますが、それは他の参加者との比較の上で後述することとし、冷泉為相に移ります。
二条為道と違い、阿仏尼の息子である冷泉為相は相当に有名で関連資料も豊富に存在しますが、まずは一番信頼できる井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987)で基礎を固めたいと思います。
同書の「第一編 鎌倉末期の歌壇」「第一章 正応・永仁期の歌壇」は、

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1 正応期の宮廷歌壇
2 永仁初期の宮廷歌壇─永仁勅撰の議を中心に
3 「野守鏡」と「源承和歌口伝」
4 永仁後期の宮廷歌壇
5 正安期の宮廷歌壇
6 洛中・洛外の歌人
7 関東歌壇─為相・為顕・武家歌人など
8 歌書の書写・編著
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と構成されていますが、「7 関東歌壇─為相・為顕・武家歌人など」の冒頭から少し引用します。(p66以下)

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  7 関東歌壇─為相・為顕・武家歌人など

 鎌倉を中心とした武家歌壇の歴史は、石田吉貞氏によると、(一)源氏将軍時代、(二)藤原将軍時代、(三)宗尊親王時代、(四)惟康親王以後、の四期に分けられる(「鎌倉文学圏」国語と国文学・昭和二九10)。而して宗尊親王時代(一二五四~一二六六)というのは鎌倉歌壇が最もはりきった時代で、惟康親王以後(一二六六~一三三三)というのは、和歌が衰えて連歌が盛んになった時代であるという。確かに文永三年(一二六六)宗尊親王の失脚は、その歌道師範であった真観一派をも没落せしめ、一時鎌倉歌壇が沈滞した事は明らかである。しかしながら弘安二年(一二七九)における阿仏尼の下向と、次いで為相の下向は鎌倉に再び有力な歌道専門家が存在した事になり。更に時代の下降に伴って武家一般が文化を欲求する精神はますます熾烈となり、歌人層が量的に拡大された事は確かである。第二、三章で述べるように、嘉元から延慶にかけて次々と私撰集が鎌倉で成立している事を考えても、一概に和歌衰微の時代とはいえないのである。
 正応二年十五歳で将軍となった久明親王(伏見天皇弟)は頗る和歌を好み、正応から永仁にかけてしばしば歌会を催したことが蓮愉集にみえ、続千載一五五九にも永仁六年十三夜会の事が記されており、柳風抄によると久明親王の和歌所というものまで設けられていた。永仁初頭には親王は素寂をして紫明抄を奉らしめている。さすがに伏見天皇の弟で、文化的な親王将軍である。
 北条貞時は時宗が死んだ後を承けて、弘安七年十四歳で執権となった。正応五年三島社十首を人々に勧進したのを初めとして頻々と歌会を催す。なお三島社十首は、蓮愉集や夫木集などによると、為相・為兼・雅有・為道・慶融及び蓮愉らが作者となっている。在関東の歌人を中心としたものであろうが、なお京の歌人にも詠ぜしめたものか。
 北条一族では大仏宣時、赤橋時範などが歌会を催したことが蓮愉集にみえ、永仁六年十三夜将軍家会には北条斉時<初名時高>が詠歌している(続千載一五五九)。
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「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」が催された当時の鎌倉の状況はこんな具合で、鎌倉歌壇における阿仏尼と為相の存在は大きいですね。
為相は弘長三年(1363)生まれなので、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の時点では三十歳です。


冷泉為相(1263-1328)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E7%82%BA%E7%9B%B8
冷泉為相(水垣久氏「やまとうた」サイト内)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tamesuke.html

 

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