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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その2)

2022-09-26 | 唯善と後深草院二条

太宰治はともかくとして、続きです。(p11)

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 景綱、すなわち宇都宮氏の縁戚関係は、系図を見てもわかるように、華麗と呼ぶにふさわしいものである。御子左家との関係は周知のことであるので、それ以外の関係を少しく説明すると、景綱の叔母(父の異腹の妹)が、内大臣源通成に嫁して生した子の一人禅助(一二四七-一三二〇)は、後宇多院の尊崇を受けた、真言宗の著名な僧である。三度東寺長者に補せられた大僧正であると同時に、『続拾遺集』以下の勅撰集にニ十首入集する歌人でもある。従兄にあたる景綱との間に次の贈答歌がある。

    母の思ひにて侍りける時、藤原景綱がもとに申しつかはしける
                        前大僧正禅助
  忘るなよははその森はかれぬとも下葉に残る露のゆかりを
    返し                  藤原景綱
  枯れにけるははその杜の露までもゆかりときけば涙落ちけり
  (続後拾遺集・哀傷・一二四六、一二四七、禅助の歌は、続現葉集・哀傷・661にも)
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いったん、ここで切ります。
内大臣源(中院)通成は源通親(1149-1202)の孫で、後深草院二条の父・雅忠(1228-72)とは従兄弟の関係です。
そして、通成に嫁した景綱の叔母は禅助だけでなく、嫡子の通頼も生んでいますね。

中院通成(1222-87)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E6%88%90
中院通頼(1242-1312)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E9%A0%BC

後宇多院は密教に異常に熱心で、自ら「法流一揆」を図った人であり、それを助けた禅助と後宇多院の関係は些か微妙な問題を孕んでいます。
即ち、禅助は御室性仁法親王(後深草院の息)が適当な後継者がない状況で死に臨んだとき、法流が絶えるのを防ぐために本来御室のみに承継されるはずの最秘事を伝授され、また極秘の文書類を暫定的に預かったのですが、その立場を利用して秘事・秘書を勝手に後宇多院に流してしまった人で、まあ、仁和寺から見れば業務上横領の正犯(後宇多院が教唆犯)、獅子身中の虫のような存在ですね。

禅助と宇都宮頼綱の関係
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/084910492979aa33c3e09dd074e1cfad
横内裕人氏「仁和寺と大覚寺─御流の継承と後宇多院─」(『守覚法親王と仁和寺御流の文献学的研究・論文篇』所収、勉誠社、1998)
http://web.archive.org/web/20150821011139/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yokouchi-hiroto-ninnajitodaikakuji01.htm

後宇多院の「法流一揆」については、旧サイト時代に少し調べたことがあり、「遊義門院とその周辺」を関係文献のリンク集としていました。
ここに書いたことは今の時点では全くの間違い、単なる妄想だと思っていますが、リンク集だけは、後宇多院と真言密教についての研究が急速に進展した時期の学説の状況を反映するものとして、それなりに充実しているはずです。

「遊義門院とその周辺」
http://web.archive.org/web/20150821011144/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yugimonin-to-sonoshuhen.htm

さて、外村論文に戻って、続きです。(p11以下)

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 一方、北条氏との関わりも深く、景綱の姉が、第四代執権北条経時の室となり(『吾妻鏡』によると、寛元三年九月四日、十五歳にて没)、景綱の弟経綱は、義時の子で六波羅探題・連署などを歴任した北条重時の女(『吾妻鏡』によると、康元元年六月二十七日没)を室とし、生した二人の女の一人が、第十一代執権北条宗宣の室となっている。また、景綱の妻で、嫡男貞綱の母である安達義景の女の妹(潮音院尼)は、第八代執権北条時宗の室となり、第九代執権北条貞時を生んでいる。すなわち、景綱の晩年、五十歳から没する六十四歳までの間の執権貞時と、景綱の長子貞綱とは、従兄弟同士であったわけである。
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系図(p8・9)を見ないと訳が分からない話かもしれませんが、とにかく景綱の姻戚関係の華麗さは相当なものですね。
景綱の正室は安達義景の娘、即ち安達泰盛の姉妹だったので、景綱も弘安九年(1285)の霜月騒動により失脚してしまいますが、しかし、殺されはせず、平禅門の乱(1293)を待たずに復権しています。
これは得宗家や極楽寺流北条氏、大仏流北条氏などとの間の縁戚関係に守られたためではないかと思われます。

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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その1)

2022-09-26 | 唯善と後深草院二条

宇都宮景綱は「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」で最多の六首を詠んでいますが、これらは全て『沙弥蓮瑜集』に出ています。
私が景綱の名を知ったのは本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)で、景綱は京極為兼が見た奇妙な夢の中に登場します。

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 ある日、為兼は不思議な夢を伏見天皇に語っている。父為教とは従兄弟にあたる有力御家人宇都宮景綱が夢中に現われ、天皇の意思に従わぬ者は皆追討しよう、と告げたというのである。景綱の母は名越朝時の娘、妻は安達泰盛の姉妹、彼はどちらの縁からも北条得宗家から警戒の目を向けられていたに違いない。こうした景綱のことをわざわざ日記に書き留めていることからすると、伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか。直接には西園寺実兼の讒言があったのだろうが、その感情のなにほどかを幕府に知られたがゆえに、為兼は流罪に処せられたのではないか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4400085d2a58cf03402f6462dfc85cd

現在の私は本郷氏の解釈には賛成できないのですが、景綱は興味深い人物なので、一度きちんと整理しておきたいと思っていました。
井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』における叙述も悪くはないのですが、井上氏は景綱が霜月騒動で一時的に失脚したことすら記さないなど、ストイックなまでに歌壇史での活動に限定されて記述されておられます。
そこで、外村典子氏の「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(『沙弥蓮瑜集全釈』所収、風間書房、1999)を素材として、景綱の政治家としての側面を中心に少し検討してみたいと思います。

長崎健・外村展子・中川博夫・小林一彦著『私家集全釈叢書23 沙弥蓮瑜集全釈』
https://www.kazamashobo.co.jp/products/detail.php?product_id=229

七十頁を超えるこの論文は、

(一)書誌
(二)作者
(三)景綱と和歌

と構成されていますが、(二)から適宜抜粋しつつ紹介します。(p7以下)

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【前略】
 景綱は、宇都宮泰綱を父、北条(名越)朝時の女を母として、嘉禎元年(一二三五)に生まれている(没年より逆算)。父泰綱(一二〇三~一二六一)は、寛元元年(一二四三)四十歳の時に評定衆に加えられ、弘長元年(一二六一)に没するまでその職にあった、宇都宮家の嫡子で、『関東評定伝』一、弘長元年の項に、次のようにある。
【中略】
 十三名の評定衆のうち、北条朝直、北条(名越)時章、北条(金沢)実時、二階堂行義に次ぐ、第五位であった。同時に、『続後撰集』(1070)はじめ、勅撰集に五首入集する歌人であり、『新和歌集』の次の歌によると、定家から『古今集』を書き与えられている。

    藤原泰綱に古今かきてたびけるおくに、かきつけられける
                       京極入道中納言
  あとをだにありし昔と思ひいでよすゑの世ながきわすれがたみに(雑下・822)

母方の祖父北条(名越)朝時は、北条義時の次男で、幕府において、執権・連署に次ぐ地位にあった。五ヶ国の守護を兼ね、将軍の方違えには朝時の名越亭に渡るのが常例となっていたほどで、まだ北条氏得宗(義時の直系)の権力がそれ程強大ではなかった時代に、得宗が最も恐れた北条一族、名越氏の始祖である。また、朝時には次のような逸話がある。

  相摸次郎朝時主依女事蒙御気色。厳閤又義絶之間。下向駿河国富士郡。彼傾公。去年
  自京都下向佐渡守親康女也。為御台所官女。而朝時耽好色。雖通艶書。依不許容。去
  夜及深更。潜到彼局。誘出之故也云々。(『吾妻鏡』・建暦二年五月七日)

建暦二年(一二一二)、すなわち朝時十九歳の時、女性問題を起こして将軍実朝の勘気を蒙り、父義時に義絶され、駿河国富士郡に下向し蟄居したというのである。この事件を、太宰治は、『右大臣実朝』(昭和十八年九月)で次のように物語っている。
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いったん、ここで切ります。
名越朝時(1193-1245)は「姫の前」所生なので、景綱の母方の曾祖母は比企一族の「姫の前」です。
しつこくラブレターを送るまでは父・義時と全く同じパターンですが、その後の行動が問題となった訳ですね。
ちなみに後深草院二条の父・雅忠(1228-72)の後妻は「姫の前」が源具親との再婚後に生んだ源輔通(1204-1249)の娘なので、泰綱室・景綱母とは従姉妹の関係となります。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5425af06d5c5ada1a5f9a78627bff26e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/048db55d52b44343bbdddce655973612
「姫前との関係を足がかりに、具親と輔通・輔時父子に「光華」がもたらされた」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c37b5d63c266f8a5d8e3062a5b6a7c1d

さて、上記部分の後、外村氏は太宰治の小説を延々と引用した上で、「この情熱的な好色の血を景綱は受け継いでいるわけである」と纏めますが(p11)、論文では些か奇異な書き方のようにも思えます。

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