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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その15)

2022-09-21 | 唯善と後深草院二条

小林一彦氏によれば「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」は散佚してしまって、「『風雅集』をはじめ、『夫木抄』や『藤谷集』『沙弥連瑜集』等々の諸集より、この折の作品と判断できる詠歌十八首を拾遺することができる」のみですが、その十八首の作者別内訳は、

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宇都宮景綱(沙弥連瑜)6首
冷泉為相 4首
京極為兼 3首
飛鳥井雅有 2首
二条為道 1首
慶融 1首
昭慶門院二条 1首

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a88648025b75f09f7a5d080c42a2b26d

となります。
この中で歌人として一番実力があるのは京極派の総帥・為兼(1254-1332)でしょうが、阿仏尼の息子で、関東で活躍した冷泉為相(1263-1328)や、軽妙な紀行文を書き、蹴鞠の名人でもあった飛鳥井雅有(1241-1301)も相当な実力者です。
また、宇都宮景綱(1235-98)は武家歌人の中では最高クラスの存在であり、為家の息子で為世の叔父にあたる歌僧・慶融(生没年未詳)も二条家一門の重鎮です。
これに対し、二条為道(1271-99)は為世の嫡男でありながら、二十九歳の若さで死去してしまったこともあり、一般的な知名度はさほど高くはないと思われます。
しかし、為道は早歌の作者でもあるため、私は以前から注目していました。
そこで、先ず為道の周辺を見て行きたいと思います。
井上宗雄『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987)から少し引用します。(p52)

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二条為道の他界
 正安元年五月五日、為世は嫡子為道を先立たせた。享年二十九(尊卑分脈)。諸家伝は二日没とするが(史料綜覧もこれに従う)、尊卑分脈は五日とし、かつ続門葉の公紹の歌にも「五月五日為道朝臣みまかりて後…」とあり、五日としておく。
 為道は為通とも書く。母は賀茂神主氏久女(官女)、為藤の同母兄。弘安八年(十五歳)三月従一位貞子九十賀に詠歌し(新拾遺六八三)、同八月内裏三十首(新後撰四〇七)あたりを歌人としての出発点とし、正応・永仁頃の歌会にしばしば参仕した事は上述した。関東に下り、公朝と歌を贈答したり、歌合をしたりした(続千載八〇二・八〇三、藤葉、新後拾遺八六一)。後宇多院の信認があったらしい(前述)。正応五年三月古今集を書写している(松田武夫氏本・立教大学研究室本奥書)。十五歳の折の「風寒き裾野のさとの夕ぐれに月待つ人やころもうつらむ」(新後撰四〇七)以下、短い生涯を通じて一貫して平明沈静な二条詠風である。従って玉葉に二首しか採られず、風雅には零である。しかし精緻な趣向を凝らしたものも多く、相当に力量のある歌人として将来を嘱された人であったのであろう。
 五月雨の雲吹きすさぶ夕風に露さえかをる軒のたちばな
為世の悲嘆はいうまでもなかった(続現葉<哀傷>)。人々の哀傷歌も多い(続後拾遺一二三〇・一二三一、続門葉<雑上>、新千載二一八三・二一八四・遺塵集)。〔為道の歌集と伝えられるものについては六一頁補注2参照〕
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いったん、ここで切ります。
「新拾遺六八三」は、

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     弘安八年三月、従一位貞子に九十賀給はせける時読侍ける 
                             為道朝臣
 かそへしるよはひを君かためしにて千世の始の春にも有かな
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というものですが、『とはずがたり』巻三の「北山准后九十賀」に関する長大な記事の最後にも、

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  まことや、今日の昼は、春宮の御方より、帯刀清景、二藍打上下、松に藤縫ひたり、「うちふるまひ、老懸のかかりもよしあり」など沙汰ありし、内へ御使参らせられしに違ひて、内裏よりは頭の大蔵卿忠世参りたりとぞ聞こえし。この度御贈り物は、内の御方へ御琵琶、春宮へ和琴と聞こえしやらむ。勧賞どもあるべしとて、一院御給、俊定四位正下、春宮、惟輔五位正下、春宮大夫の琵琶の賞は為道に譲りて、四位の従上など、あまた聞こえはべりしかども、さのみは記すに及ばず。
 行啓も還御なりぬれば、大方しめやかになごり多かるに、西園寺の方ざまへ御幸なるとて、たびたび御使あれども、「憂き身はいつも」とおぼえて、さし出でむ空なき心地してはべるも、あはれなる心の中ならむかし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0cc49ddba7972accef2be4004370e047

という具合いに、春宮大夫・西園寺実兼の琵琶の賞が二条為道に譲られ、為道が従四位上に昇進した、などという随分細かい話が出てきます。
『とはずがたり』の巻三はこれで終わってしまい、四年の空白の後、巻四は正応二年(1289)、二条が東国に旅立つ場面から再開されます。
ところで、「北山准后九十賀」での「勧賞」による昇進の話は『宗冬卿記』にも、

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今日被行勧賞
正四位下 藤俊定<院御給> 従四上源通時<新院御給> 藤実明<東二条院御給> 同為通
<春宮大夫御比巴師賞譲>
従四下 橘知有<従一位藤原朝臣給>
正五下 藤光定<大宮院御給> 平惟輔<東宮御給>
従五下 藤光能<姈子内親王御給>
従五上 狛近康 豊原政秋
関白殿 兵部卿 花山院中納言<院司> 信輔朝臣<院司> 信経<院司>
多久資<舞人>
 已上逐可被仰
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という具合いに詳しく出ていますが、中級貴族の事務官僚にとっては「勧賞」による昇進が一大事だとしても、『とはずがたり』ではこの種の記事は非常に珍しく、ここでの言及が唯一ですね。
そして、その中でも後深草院二条が僅か十五歳の為道に特別に注目しているらしいのは些か奇異な感じがします。

コメント
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