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津田徹英氏「親鸞の面影─中世真宗肖像彫刻研究序説─」(その4)

2022-09-05 | 唯善と後深草院二条
続きです。(p306)

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 ここで唯善の行実に着目するならば、唯善は嘉元元年(一三〇三)九月、「専修念仏停廃」発令に際して、ただちに関東に下向し横曽根門徒の木針の智信が差し出した三百貫を含む数百貫の銭貨を東国門徒から集め、鎌倉幕府に働きかけて同年中に親鸞門流安堵の「連署奉書(下知状)」を取り付けることに成功している。幕府禁令による真宗存亡の危機に瀕しての唯善による早急な行動と実務・成果は、その顛末を報告すべく翌、嘉元二年十二月二十八日付で顕智に宛てられた書状において唯善が自負する「親鸞上人之遺跡」としての手腕を東国門徒に印象づけたのも事実であり、大谷廟堂の留守職をめぐる覚如との相論に際し唯善を支持する東国門徒があった所以でもあろう。
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いったん、ここで切ります。
「幕府禁令による真宗存亡の危機に瀕しての唯善による早急な行動」を確認するために『存覚一期記』を見ると、「十四歳 嘉元元」条の後半に、

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於関東有専修念仏停廃事。其時唯公竊馳下、以巨多之料足被申成安堵之御下知了。横曽根門徒木針智信出三百貫。其外勧進所々、以数百貫被申之間無相違。其文章、「仮令於親鸞上人門流者、非諸国横行之類。在家止住之土民等勤行之条、為国無費、為人無煩、不可混彼等之由、唯善為彼遺跡所申非無其謂之間、所被免許、如件。 嘉元々年 月 日、加賀守三善判」。此下知無両所判形。号政所下<云々>。文章又非遺跡成敗。然而為混事於遺跡申成之歟。
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とあります。(『浄土真宗聖典全書(四) 相伝篇 上』所収「常楽臺主老衲一期記」、p1400以下。但し旧字は適宜新字に変更)
存覚は「唯公」(唯善)には全く好意的でなく、正安元年(1299)条から唯善への非難を何度か重ね、嘉元元年(1303)条も、唯善の行動を「親鸞上人門流」全体への素晴らしい貢献だと賞賛しているのではありません。
賞賛どころか、唯善は幕府からもらった下知状に「唯善為彼遺跡」という文言があるのを奇貨として、「遺跡成敗」の裁判ではないにも関わらず、あたかも自分が親鸞上人の「遺跡」だと幕府からお墨付きをもらったように主張している、と非難している訳ですね。
ただ、そうはいっても、この記録から窺える唯善の迅速・的確な行動から、唯善が政治的に極めて有能で、横曽根門徒を中心に東国の門徒と親密な関係を有し、おそらく幕府中枢とのコネもあったであろうことが窺えます。
なお、「嘉元二年十二月二十八日付で顕智に宛てられた書状」は、おそらく峰岸純夫氏が「鎌倉時代東国の真宗門徒-真仏報恩板碑を中心に-」(北西弘先生還暦記念会編『中世仏教と真宗』、1985)で言及されている、

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(B)
  嘉元元年九月日、被禁制諸国横行人御教書偁、号一向衆、成群之輩横行諸国之
  由、有其聞、可被禁制云々、因茲、混一向之名言、不論横行不横行之差別、一向
  専修念仏及滅亡之間、唯善苟依為親鸞上人之遺跡、且為興祖師之本意、且為糺門
  流之邪正、申披子細、悉預免許御下知畢、早以此案文、披露于地頭方、如元可披
  興行之状如件、
   嘉元二年十二月十六日        沙門唯善
  顕智御房

http://web.archive.org/web/20150526225556/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto-02.htm

という文書のことだろうと思いますが、峰岸氏は「嘉元二年十二月十六日」とされているので、念のため、後で津田氏が出典とされている『真宗史料集成』第一巻を確認したいと思います。
さて、嘉元元年(1303)の唯善の行動については、既に「東国の真宗門徒に関する備忘録(その7)」「同(その20)」で検討しましたが、横曽根門徒・木針智信から直ちに三百貫(現在の通貨でおよそ三千万円)を用立ててもらったという関係は、およそ一朝一夕に形成されたものではなく、唯善は関東の門徒との密接な関係を長年維持してきたと考えられます。
また、訴訟がダラダラと続くのが常識であった時代に、唯善が極めて短期間で幕府から「下知状」を獲得したことは、唯善の政治的感覚の鋭さだけではなく、唯善が幕府首脳と相当有力なコネを持っていたことを推測させますが、こうした関係も一朝一夕に出来たものとは思えません。
嘉元元年(1303)に三十七歳の唯善が、その時点で突如として辣腕の宗教政治家に変身したと考えるのはどうにも不自然であり、私は、唯善は既に十二年前、正安四年(1291)の性海による『教行信証』開板事業に関与していて、木針智信を始めとする横曽根門徒との人脈を作り、また、幕府要人との折衝等の政治的経験を積んでいたものと想像します。

東国の真宗門徒に関する備忘録(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed98f9585952a83dfc1cc4760232a626
東国の真宗門徒に関する備忘録(その20)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7750cba0b3f4824cc693315cdc0920b
コメント
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