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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その12)

2022-09-18 | 唯善と後深草院二条

『拾遺現藻和歌集』に登場する九人の女院付女房の周辺をもう少し見て行きます。
正確を期すため、小川氏の「作者略伝・索引」の内容を、「作者略伝・索引」の順番でそのまま引用すると、

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一条(延政門院─)生没年・世系未詳。兼好集に贈答あり。続千載に1首。続現葉作者。2首〔九五、五七九〕

一条(昭慶門院─)生没年未詳。源。北畠師親女。嘉元百首、後二条院三十番歌合等に出詠。新後撰以下に二一首。続現葉、藤葉作者。6首〔一五七、二九一、三六〇、四二七、四六一、八〇二〕

春日(昭訓門院─)生没年未詳。藤原。二条為世女。西園寺実衡室、公宗母。『竹向きか記』に登場する「二位殿」か。文保・貞和百首作者。続千載以下に四〇首。続現葉、臨永、松花、藤葉作者。6首〔七九、八六、二七四、三二四、三五七、五七一〕

近衛(今出川院─)生没年未詳。藤原。鷹司伊平女。現存三六人詩歌作者。続古今以下に二六首。人家、和漢兼作、拾遺風躰、続現葉、臨永、松花、藤葉作者。6首〔四二、二〇二、五六九、五九二、六一六、七六六〕

内侍(永福門院─)生没年未詳。藤原。坊門基輔女。伏見院三十首・同院五十番歌合より、花園院六首歌合・貞和百首に至る京極派の催しに参加。玉葉以下に四九首。続現葉、藤葉作者。3首〔三四八、四五〇、七八三〕

二条(昭慶門院─)伝未詳。4首〔一四六(注記によれば、有忠の詠とも)、四七九、五五三、五五四〕

二条(万秋門院─)伝未詳。1首〔五八〇〕

備前(寿成門院─)生没年・世系未詳。藤葉作者。1首〔二一〇〕

兵衛佐(遊義門院─)生没年・世系未詳。『とはずがたり』巻五に登場。続現葉作者。2首〔二一一、六二七〕
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となります。
今出川院近衛のところに出てくる『現存三六人詩歌』は、

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建治二(1276)年閏三月に成った屏風詩歌。群書類従二二四所収。奥書によると、北条時宗の命により、絵を藤原伊信が描き、詩を日野資宣、和歌を真観(葉室光俊)が選んだ。甲乙丙丁の四帖から成り、各帖に詩(七言の聯)と和歌とを交互に九首ずつ記す。詩人は基家・真観・為世・雅有など。書名によれば、当時生存していたすぐれた作者七二名の作品を選び集めたもの。和歌三六首のうち二三首が勅撰集と重出する。
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というもので(有吉保編『和歌文学辞典』)、生存者の歌に限定するという妙にさっぱりした編集方針の歌集・詩集がいつごろ生まれたのかは知りませんが、鎌倉中期には真観撰かと言われる『現存和歌六帖』があります。
また、二条為氏も弘安期に『現葉集』(散逸)という私撰集を編んだそうで、井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂版』(明治書院、1987)には、『続現葉集』の解説中に、

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続現葉集 類従所収。【中略】現存本は十巻の残欠本、七百五十九首を収める。既に福田秀一氏の研究があり(『中世私撰和歌集の考察』)、それによれば、為氏が弘安頃に続拾遺の選外佳作編篇として撰んだ現葉集に倣って、為世が続千載の選外佳作編として、(作者の官位記載から推して)元亨三年撰了し、一部四年に増補されて成立したのであろう、という。
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とあります。(p248)
現存歌人に限定するとの『拾遺現藻和歌集』の編集方針は、直接には二条為氏の『現葉集』の影響を受けているようですね。
なお、『続現葉集』の成立は元亨三年(1323)で、『拾遺現藻和歌集』成立の翌年ですが、「作者は元亨期現存の人々」(同)で、『拾遺現藻和歌集』と相当に重なっていますね。
京極派排除の編集方針は『拾遺現藻和歌集』以上に明確です。
さて、『拾遺現藻和歌集』の九人の女院付女房の話に戻ると、『とはずがたり』の世界に近い点で遊義門院兵衛佐が気になります。
『とはずがたり』巻五でこの女性の登場場面を確認すると、「八幡で遊義門院と邂逅」の場面に、

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 徒なる女房のなかに、ことに初めより物など申すあり。問へば、兵衛の佐といふ人なり。次の日還御とて、その夜は御神楽・御てあそび、さまざまありしに、暮るるほどに、桜の枝を折りて兵衛の佐のもとへ、「この花散らさんさきに、都の御所へたづね申すべし」と申して、つとめては、還御よりさきに出で侍るべき心地せしを、かかるみゆきに参り会ふも、大菩薩の御志なりと思ひしかば、よろこびも申さんなど思ひて、三日とどまりて、御社に候ひてのち、京へ上りて、御文を参らすとて、「さても花はいかがなりぬらん」とて、
   花はさてもあだにや風のさそひけん契りしほどの日数ならねば
御返し、
   その花は風にもいかがさそはせん契りしほどは隔てゆくとも

http://web.archive.org/web/20061006205632/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-17-yawata.htm

とあります。(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p432)
「八幡で遊義門院と邂逅」の場面は亀山院崩御の翌年、徳治元年(1306)三月の出来事として設定されていますが、多方面に傲岸不遜な後深草院二条が、よりによって宿敵・東二条院の娘の遊義門院に対して異常なほどへりくだっており、何とも奇妙な印象を与えます。
私は『とはずがたり』を創作的要素が極めて多い自伝風小説と考えるので、この場面も事実の記録といえるか疑わしく思っていますが、「遊義門院兵衛佐」は『拾遺現藻和歌集』の他、『続現葉集』に一首入集しているので、少なくとも「遊義門院兵衛佐」の実在は確認できることになります。
そして、寿成門院備前も小倉実教撰の『藤葉集』に入集しているので、結局、九人の女房付歌人のうち、『拾遺現藻和歌集』以外の史料に登場しないのは「昭慶門院二条」と「万秋門院二条」の二人だけとなります。

コメント
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