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『葉黄記』寛元四年三月十五日条は葉室光親の「院宣」発給の証拠となるのか。(その2)

2023-01-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『葉黄記』を書いた葉室定嗣については、本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)の「廷臣小伝」に、

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葉室定嗣
 承元二(一二〇八)~文永九(一二七二)・六・二十六

 父は葉室光親、母は参議藤原定経の娘で、順徳天皇の乳母の経子。父母共に承久の乱と深いかかわりをもった人であった。同母兄光俊は、朝廷に関東の威を恐れる風潮があったためか、右大弁で官を辞し、以後は歌人としてのみ活動している。一方定嗣は九条道家、二条良実に仕え、仁治三(一二四二)年に参議。後嵯峨上皇にも厚く用いられ、院中執権を務め、吉田為経とともに伝奏に起用された。宝治二(一二四八)年には権中納言に昇る。光俊の行跡と比べ考えるに、定嗣は抜群の才能を有した官人だったのではないか。光俊の子高定(のち高雅)を養子に迎え、彼を右少弁に任じるために建長二(一二五〇)年に辞任。知行国河内国も高定に譲り、出家して法名を定然といった。ところが正嘉元(一二五七)年ごろ、定嗣と高定は不和になる(1)。光俊が父権を主張し、高定も実父に与同したからである。後嵯峨上皇は高定を非とし、定嗣からうけつがれた伝奏の任を解いた。定嗣は上皇の措置に深く感謝したが(2)、このために彼の一流は後継者を失ったのである。
 (1)経俊卿記正嘉元年七月十一日。
 (2)経俊卿記正嘉元年九月四日。
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とあります。(p256)
定嗣の父・光親については、同じく「廷臣小伝」に、

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葉室光親
 安元二(一一七六)~承久三(一二二一)・七・十二

 父は権中納言光雅、母は右大弁藤原重方の娘。承元二(一二〇八)年に参議、建暦元(一二一一)年に権中納言。はじめ近衛家に仕え、やがて後鳥羽上皇の信任を得る。後世、院の執権は光親に始まるといわれる程(1)、上皇に重用された。上皇の妃修明門院や順徳天皇にも近侍し、また妻の経子(参議藤原定経の娘、吉田為経の叔母)と娘の満子はともに順徳天皇の乳母であった。承久の乱の首謀者の一人で、北条義時追討の院宣の奉者にもなっている。実は討幕に反対であったともいうが(2)、光親室が預所だった河内国甲斐庄で軍勢が集められている事実(3)もあり、確証はない。乱後捕えられ、駿河国で斬られた。法名は西親。
 (1)小槻季継記。
 (2)吾妻鏡承久三年七月十二日。
 (3)『鎌』四五一二。
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とあり、本郷氏は光親が「北条義時追討の院宣の奉者」だったとされますが、恐らくこれは長村氏が挙げる寛元四年(1246)三月十五日条が典拠だろうと思われます。
さて、承久の乱の「合戦張本」の一人として光親が承久三年(1221)に処刑されたとき、光親は四十六歳でしたが、承元二年(1208)年生まれの定嗣はまだ十四歳であり、朝廷で重要な職務についていたはずもありません。
とすると、定嗣はいったい誰から、または何から父・光親が義時追討の院宣の奉者だったことを知ったのか。
平穏な時代であれば、父から話を聞いたり、父が残した記録から父が行なった仕事の内容を知ることができたかもしれません。
しかし、義時追討の院宣の発給は、その時点では当然に最高度の機密事項であり、いくら息子だからといって、光親が自分の役割をべらべらしゃべったとも思われません。
大騒動の渦中に巻き込まれていた光親は、そもそも息子と語る時間すら持てないまま合戦対応に忙殺された後、大変なスピードで押し寄せて来た幕府軍に逮捕・監禁され、そのまま連行・処刑されてしまったのではないか、と私は想像します。
では、光親は自分の行動について何か記録を残していて、それを定嗣が読んだのか。
これも平穏な時代であれば十分あり得る話ですが、しかし、承久の乱に関する一次史料が極端に少ない理由として、「合戦張本」の責任追及のため、幕府軍が諸史料を接収したか、あるいは処罰を恐れて関係者が処分したと考えられていますから、「合戦張本」だった光親の記録が残されたとも思えません。
ところで、『承久記』のうち、少なくとも慈光寺本は1230年代に制作されたことが、長村氏を含む多くの研究者の認めるところです。
そして、慈光寺本は明らかに一定の読者を想定した作品であり、その内容は極めて面白いものなので、それなりに評判になったはずです。
他方、定嗣としては、十四歳で死に別れ、しかも斬首という貴族としては極めて数奇な運命を辿った自分の父親が、承久の乱でいったいどんな役割を演じて、どんな理由で処刑されたかは是非とも知りたかったはずです。
とすると、寛元四年(1246)三月十五日までのどこかの時点で、定嗣が慈光寺本『承久記』を読んでいた可能性は十分考えられます。
また、流布本についても1240年代成立と考える立場が有力であり、定嗣は流布本『承久記』を読んでいた可能性もあります。
仮に定嗣が慈光寺本を読んでいたとすれば、そこには父・光親が発給したとされる院宣そのものが載っており、流布本を読んだ場合でも、

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【前略】東国へも、院宣を可被下とて、按察使前中納言光親卿奉て七通ぞ被書ける。左京権大夫義時朝敵たり、早く可被致追討、勧賞請によるべき(趣)なり。武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西にぞ被下ける。
 院宣の御使には、推松とて究めて足早き者有ける、是を撰てぞ被下ける。平九郎判官、私の使を相添て、承久三年五月十五日の酉刻に都を出て、劣らじ負じと下ける程に、同十九日の午刻に、鎌倉近う片瀬と云所に走付たり。【中略】
 推松、人の気色替り、何となく騒ぎければ、有者の許に隠れ居たりけれを、一々に鎌倉中を捜しければ、笠井の谷〔やつ〕より尋出し、引張先に立てぞ参ける。院宣共奪取が如して、大概計読せて、後に焼捨られぬ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58

とありますから、これを読めば、そうか、父上は義時追討の「院宣」を書いて、「推松」を使者として「武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西」の七人に伝えようとしたのだな、という話になります。
ということで、長村氏が慈光寺本の成立を1230年代と認める以上、『葉黄記』寛元四年(1246)三月十五日条を「承久の乱の際に光親の奉じた「院宣」が発給されたとする確実な史料」と主張するためには、定嗣が慈光寺本『承久記』も流布本『承久記』も読んでいなかったことを証明する必要がありますが、これは「悪魔の証明」ですから、事実上不可能ですね。

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Unknown (愛読者)
2023-01-26 01:52:38
うーむ、だいぶ性急な批判ですね。とくに後ろの方は、推測が多すぎます。
光親が院宣の奉者をつとめたことは、光親だけではなく、「或人」の認識でもあったと『葉黄記』に明記しています。この点は見落とせないと思います。
それに定嗣は光親の日記を所持していました。『葉黄記』寛元5年正月2日条に見えます。
発想が小役人っぽいのでは。 (鈴木小太郎)
2023-01-26 09:23:00
「「或人」のみならず定嗣や後嵯峨院も光親追討「院宣」への関与自体は事実と認識している」訳ですが、「或人」を含め、「院宣」と光親との関係についての情報をどこから得ていたのか、という問題です。
慈光寺本作者については杉山次子氏や日下力氏が源仲遠の周辺を想定しており、私は賛成はできませんが、仮にそれが正しければ、狭い貴族社会ですから、定嗣との接点はいくらでもあったはずです。
物語の作者と受容者が近いのが貴族社会ですね。
であれば、「「或人」のみならず定嗣や後嵯峨院も、みんな『承久記』を読んでいたか、その概要を聞いていたと考えてもおかしくはないですね。
とにかく『承久記』は、流布本も慈光寺本も、明らかに一定の読者を想定しており、その内容は間違いなく面白いですから、相当広い範囲に知られていたと私は考えています。
それと、『葉黄記』寛元5年正月2日条に承久の乱のことが書いてありますか。
光親が後鳥羽の側近であることは周知でしたから、光親は「合戦張本」で間違いないとあっさり処理されて、わざわざ家宅捜索まではされなかったかもしれないですね。
そこは現代の刑事司法の世界とは違いますからね。
補足 (鈴木小太郎)
2023-01-26 09:36:33
というか、光親は一切弁明せず、鎌倉側から見れば「自白」したのですから、日記を押収する必要はなかったでしょう。
『吾妻鏡』承久三年七月十二日条によれば、光親は後鳥羽の並びない寵臣でありながら、義時追討には反対で、何度も諫言を繰り返しており、その諫言の書状数十通が仙洞に残っていて、後に発見されて泰時は後悔した、というのですから、光親については「合戦張本」であることが明らかで、その処分を決定するのに日記を押収する必要など全くないと判断されていた訳ですね。
Unknown (愛読者)
2023-01-26 11:53:18
うーん。定嗣が所持した光親の日記に、承久の乱の時期の部分があったかどうかはわかりませんが、あった可能性は否定できませんし、後嵯峨院や定嗣、「或人」みんなが、『承久記』を読んでいたという憶測よりは、少なくとも蓋然性は高いと思われます。あと『定家本公卿補任』の存在も忘れてはいけないと思いました。
『承久記』の成立年代や著者がはっきりと確定されていない上、流布状況がどの程度だったか、説得的な解明がなされていないので、後嵯峨院や定嗣、あるいは「或人」がこれを読んだというのは、あくまでも憶測の域にとどまるでしょう。ここの仮説を補強することが望ましいですね。問題の性格を考えますと、仮説を示すのは悪くないですが、これを裏付ける確かな材料なり、説得的な説明が欲しいのです。手続き上、「小役人」的な作業を積み重ねないと。でも考えたら、研究者の書く論文じゃなくてブログなので、そんなことを求めるのが野暮かもしれませんが。
定家本『公卿補任』について「 (鈴木小太郎)
2023-01-26 14:42:06
西田友広氏の書評は読まれましたか。
西田氏は「著者も論じているように、葉室光親が、義時追討の官宣旨の発給を蔵人頭─太政官機構へと命じる後鳥羽院の院宣を作成したことは藤原定家本『公卿補任』の記述から証明されたと評者も考える。しかし、同じく光親が奉者となり東国の有力御家人に義時追討を命じたとされる、慈光寺本『承久記』が引用する院宣(以下、慈光寺本院宣とする)については、なお慎重な検討が必要と思われる」とのことで、「慎重な検討」の結果、西田氏は創作説ですね。
私は古文書学的素養がないので、最初は西田氏の見解がよく分らなかったのですが、呉座勇一氏が西田説に賛成されているので、呉座氏の見解も踏まえて再考した結果、今は西田説で良いと考えています。

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