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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その5)

2022-09-28 | 唯善と後深草院二条

宇都宮景綱(1235-98)が弘安八年(1285)十一月、霜月騒動で失脚したのは五十一歳の時ですが、外村氏が紹介されているように(p30)、『鎌倉年代記裏書』には、

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今年<正応三>(中略)三月三日、朝原八郎為頼入内裏<富小路殿>南庭、上紫宸殿自害、子息、若党同自害、三条宰相中将実盛朝臣為与党被召渡六波羅、依此事、下野入道蓮瑜、出羽前司行藤為使節、同廿一日上洛。(裏書)
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とあります。
即ち、正応三年(1290)三月、景綱は浅原事件(伏見天皇暗殺未遂事件)への対応のために二階堂行藤とともに「東使」として京都に派遣されているので、この時点で完全に復権していますね。

『増鏡』巻十一「さしぐし」浅原事件
http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

『沙弥蓮瑜集』にも、この「東使」としての活動に関連した歌があるので、外村氏の説明を引用しますが、実はこの文章の中で一箇所奇妙な点があります。(p38)

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 この失脚の期間は何年に及んだのであろうか。前に掲げた『鎌倉年代記裏書』正応三年(一二九〇)の記事によると、同年三月までには、何らかの形で復帰していたようである。この『鎌倉年代記裏書』の記事はもちろん信憑性があり、『沙弥蓮瑜集』(夏)に、次のようにある。

   正応三年みなづきのなかばのころ、あずまへ下侍しに、おいそのもりにて
   ほととぎすを聞きて
 あづまぢに時すぎぬとやほとゝぎすこゑもおいその杜になくらん
   同年五月五日右兵衛督<為兼卿>のもとより、くすだまにつけて、「まづいそぐ
   花もあやめも君がためふかきこゝろの色そへて見よ」と申しつかはされ侍しかへし
 色々の花にぞみゆるあやめぐさまづわがゝたに心ひくとも(161・162)

正応三年三月二十一日に幕府の使節として上洛し、五月五日には二条為世((三)景綱と和歌注5参照)と贈答歌をかわし、六月の半ばに関東に下ったのである。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
奇妙な点、気付かれたでしょうか。
『沙弥蓮瑜集』には「右兵衛督<為兼卿>」とあるのに、何故に外村氏は「二条為世と贈答歌をかわし」とされるのか。
その秘密を探るため、「(三)景綱と和歌注5」を見ると、

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(5)162番の詞書には「同年(正応三年)五月五日右兵衛督<為兼卿>のもとより(略)」とある。しかし、『公卿補任』(正応三年)に、
 参議 従二位 藤為世<四十一>右兵衛督。備後権守。六月八日任権中納言。
    従三位 藤<京極>為兼 正月十三日兼讃岐(権)守。六月八日右兵衛督。十一月
        廿七日転右衛門督。十二月八日叙正三位(石清水賀茂行幸行事賞)
とあり、正応三年六月八日に為世が権中納言に任ぜられたことにより、右兵衛督を辞し、為兼がその官職を継いだのである。従って、五月五日現在右兵衛督であったのは為世であり、「右兵衛督<為兼卿>」は「右兵衛督<為世卿>」の誤写であると考える。
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とのことで(p75以下)、これは正しい指摘なのでしょうね。
なお、景綱は為兼とも次のような和歌を贈答しています。(『沙弥蓮瑜集』42・43)

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     新黄門<為兼卿>梅の枝につけて申しおくられ侍る
42 君がためまづぞをりつるこゝのへにひらけそめぬる梅のはつ枝
     返し
43 身におはぬ色香なれどもこゝのへの梅にことしは老をかくさむ
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年次が明記されている訳ではありませんが、為兼が権中納言になったのは正応四年(1291)七月二十九日なので(『公卿補任』)、井上宗雄氏は「新黄門」為兼と景綱の贈答は翌正応五年の春のこととされています。(『人物叢書 京極為兼』、p63)
この井上説が正しいとすれば、為兼と景綱は正応五年の春に同じ場所にいたことになりますが、それは京都なのか、それとも関東なのか。
『人物叢書 京極為兼』巻末の「略年譜」によれば、正応五年(1292)、三十九歳の為兼は、

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正月一日、三本の松樹を呑み込む夢を見る。
〇三月~四月、山門・南都の訴訟事件を折衝
〇この春か、宇都宮蓮愉と和歌贈答
〇六月一四日、聴帯剣
〇七月二八日、叙従二位
〇一一月三日、平野臨時祭(宣命上卿。忘却し遅参)
〇この年、北条貞時勧進三島社十首、内裏当座会に詠
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という忙しそうな日々を送っていますが、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」が春に行われたとすれば、「新黄門」為兼と景綱はその時に共に関東にいて、42・43番の和歌の贈答をした可能性もないわけではなさそうです。
もっとも井上氏は、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の為兼の歌は「おそらくは京から詠を送ったのであろう」(p64)とされていますが。

※追記(2022.9.29)
「この井上説が正しいとすれば、為兼と景綱は正応五年の春に同じ場所にいたことになりますが、それは京都なのか、それとも関東なのか」などと書いてしまいましたが、「こゝのへ」(九重)=宮中ですから京都に決まっていました。
ただ、そうすると、この贈答歌が本当に正応五年(1293)のものなのかが疑問になって来るのですが、その点は後でまた論じたいと思います。

コメント
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