学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その18)

2022-09-23 | 唯善と後深草院二条

井上著に「関東に下り、公朝と歌を贈答したり、歌合をしたりした(続千載八〇二・八〇三、藤葉、新後拾遺八六一)」とあるように(p52)、二条為道は関東に下ったことはありますが、その時期ははっきりしません。
『続千載和歌集』802・803番は、

-------
    藤原為道朝臣あつまに侍ける時、五月五日あやめに添てつかはしける
                          前僧正公朝
802 旅ねには思はさらなむ草枕あやめに今夜結ひかへつゝ

    返し                    為道朝臣
803 かり初の菖蒲にそへて草枕こよひ旅ねの心ちこそせね
-------

とあり、「あつまに侍ける時」ですから、それなりに長い期間滞在したような感じですが、年は分かりません。
なお、「前僧正公朝」は「名越時朝子」(p207)で、『夫木和歌抄』には二百四十首も入っているそうですから、相当な歌好きの僧侶ですね。
また、『新後拾遺和歌集』861番は、

-------
    あつまのかたへ下侍けるに、賀茂のあたりゐせきと云所に住侍ける女の
    もとへ、よみてつかはしける
                          為道朝臣
861 忘すはゐせきの水にかけをみよ思ふ心はそれにこそすめ
-------

というもので、こちらは時期すら分かりません。
為道は最終官位が正四位下なので『公卿補任』に登場せず、その経歴を詳しく追うのは困難ですね。
『実躬卿記』などから各年の五月五日近辺に為道が登場しないかを丹念に見て行けば、あるいは関東下向の年を推定できるのかもしれませんが、今はちょっと時間が取れません。
ちなみに『実躬卿記』永仁二年(1294)三月二十七日条には、蔵人頭を希望した正親町三条実躬のライバルとして為道が登場しています。
井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)によれば、

-------
 その三月二十五日三条実躬は参内し、蔵人頭に補せられたいと申し入れを行い、二十六、七日後深草院、関白近衛家基ほかにも希望を申し入れた。競望者は二条家の為道であったが、実躬はその日記に、運を天に任せるが、現在では「為兼卿猶執り申す」と記し、さらに諸方に懇願したのだが、二十七日の結果は意外にも二条家の為雄(為道の叔父)であった。実躬はその日記に、
  当時の為雄朝臣又一文不通、有若亡〔ゆうじゃくぼう〕と謂う可し、忠(抽)賞
  何事哉。是併〔しか〕しながら為兼卿の所為歟。当時政道只彼の卿の心中に有り。
  頗る無益〔むやく〕の世上也。
と記している(「有若亡」は役に立たぬ者、の意)。為兼は「執り申す」すなわち天皇に取り次ぐという行為で人事を掌握しており、為雄の蔵人頭も為兼の計らいと見たわけである。四月二日の条には、実躬は面目を失ったので後深草院仙洞の当番などには出仕しないことにしようと思ったが、父に諫められ、恥を忍んで出仕した。「当時の世間、併しながら為兼卿の計い也。而〔しか〕るに禅林寺殿(亀山院)に奉公を致す輩、皆以て停止〔ちょうじ〕の思いを成すと云々」と記している。為兼の権勢がすこぶる大きかったこと、あるいはそう見られていたことが窺われる。【中略】なお実躬は明らかに亀山院方への差別をみとっている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a818c7b840a40abac8def810b56023c

といった具合で、叔父の為雄と違い、文永元年(1264)生まれの実躬より七歳若い為道は官人としても有能な人だったのでしょうね。
実躬はよほど為道が目障りだったのか、憎々しそうに「下臈」呼ばわりしていますね。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その21)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bde59a2c7674622506b25bb2fc13c6a

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『拾遺現藻和歌集』の撰者は... | トップ | 『拾遺現藻和歌集』の撰者は... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

唯善と後深草院二条」カテゴリの最新記事