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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その6)

2022-09-29 | 唯善と後深草院二条

前回投稿では『沙弥蓮瑜集』の42・43番、

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     新黄門<為兼卿>梅の枝につけて申しおくられ侍る
42 君がためまづぞをりつるこゝのへにひらけそめぬる梅のはつ枝
     返し
43 身におはぬ色香なれどもこゝのへの梅にことしは老をかくさむ
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について、「この井上説が正しいとすれば、為兼と景綱は正応五年の春に同じ場所にいたことになりますが、それは京都なのか、それとも関東なのか」などと書いてしまいましたが、「こゝのへ」(九重)=宮中ですから京都に決まっていましたね。
ただ、そうすると、この贈答歌が本当に正応五年(1292)のものなのかが疑問になって来るのですが、その点は後で検討したいと思います。
さて、『鎌倉年代記裏書』には浅原事件が正応三年(1290)三月三日とありますが、正確には九日の深夜から翌十日の早暁にかけての出来事です。
また、『鎌倉年代記裏書』は「三条宰相中将実盛朝臣為与党被召渡六波羅、依此事、下野入道蓮瑜、出羽前司行藤為使節、同廿一日上洛」として、三条実盛が六波羅に逮捕された後、三月二十一日に宇都宮景綱と二階堂行藤が上洛したように読めますが、『続史愚抄』には四月二日条に「関東使三人入洛〇歴代編年」とあり、同月八日条に「六波羅武士向三条前宰相中将<実盛>第執宰相及息侍従公久小童等、是依有逆徒源為頼同意聞也<以所伝于三条家鯰尾源為頼令自殺云。〇綸旨抄<前>、増鏡、歴代最要、将軍家譜、保暦間記>」とあります。
今は手元に『続史愚抄』程度の資料しかないので細かい事実関係は追えませんが、とにかく皇居(里内裏)に不逞の輩が乱入し、乱暴狼藉の挙句に自殺して紫宸殿等を汚したという大事件ですから、鎮圧後直ちに「天下蝕穢」とされ、十五日には「依天下穢石清水臨時祭祇園一切経会等延引」、二十八日には「来月広瀬龍田祭依穢延引」等の事態となり、京都は騒然とした状況が続きます。
そして、宇都宮景綱・二階堂行藤は、この事件の調査と責任追及という重大な任務を負って「東使」として京都に派遣された立場である上、景綱は霜月騒動以後の政治的キャリアの沈滞を打破するためのチャンスを与えられた訳ですから、相当に頑張ったものと思われます。
西園寺公衡からは亀山院が使嗾したとの訴えもあったので、純粋な事実関係の解明以外に、慎重な政治的配慮も必要だったはずです。

『増鏡』巻十一「さしぐし」浅原事件
http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

そして、景綱が「右兵衛督<為兼卿>」と歌の贈答をした五月五日は、「東使」としてなすべき事件処理が一段落して、当初の緊張が一応沈静化した頃合いではないかと思われます。
とすると、「右兵衛督<為兼卿>」の「為兼卿」は「為世卿」の誤記だとする外村展子説が疑問になってきます。
京極為兼は暗殺の対象となった伏見天皇の寵臣ですから、景綱は頻繁に為兼と連絡を取り、事実関係の調査とともに事件処理の方向性、特に亀山院への対応について相談もしたはずです。
他方、二条為世は浅原事件の教唆犯の疑いをかけられている亀山院に近い立場ですから、事件に直接の関係はないとしても、親戚の景綱とのんびり親睦を深める、といった雰囲気ではなかったはずです。
ここで『沙弥蓮瑜集全釈』(風間書房、1999)から、問題の161・162番とその現代語訳を紹介しておくと、

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     正応三年みなつきのなかばのころ、あずまへ下り侍りしに、おいそのもりにてほとゝぎす
     を聞きて
161  あづまぢに時すぎぬとやほとゝぎすこゑもおいその杜になくらん

【通釈】正応三年(一二九〇)の水無月の中旬頃、東国に下りました時に、老蘇森で時鳥の鳴いている
 のを聞いて東路をくだっているうちに、ずい分と月日がたってしまったようだ。時鳥も老いたらしく、
 弱々しい声で老蘇の森で鳴いているのだなあ。

     同年五月五日右兵衛督<為兼卿>のもとより、くすだまにつけて、「まづいそぐ花もあやめも
     君がためふかきこゝろの色そへて見よ」と申しつかはされ侍しかへし
162  色々の花にぞみゆるあやめぐさまづわがゝたに心ひくとも

【通釈】同じ年(正応三年)の五月五日、右兵衛督為兼卿のところから、薬玉につけて、「なにより先
   に贈った花も、この菖蒲草も、あなたのことを思うからです。どうか私の心のうちを察して鑑賞して
   下さい」と言ってお寄こしになった歌への返歌
 いろいろな花に見えて、よく区別が付きません。あやめ草の根を引くように、私の方からあなたの気持
 を引きつけようとしているのですが。
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という具合いで(p188)、161番の老蘇森は近江国の歌枕ですね。
162番の贈答歌は、「右兵衛督<為兼卿>」の歌に「こゝろ」、景綱の返歌にも「心」という表現が含まれていますが、「心」は京極派の特異表現であり、為兼なら自然でも、為世が用いるとは考えにくいものです。
また、『沙弥蓮瑜集』は最晩年の景綱による自撰歌集であり、小さい字で書かれた「為兼卿」も、原本を写した人が自己の考証の結果を付加したものではなく、景綱自身が原本に書いていたものと思われます。
その場合、贈答の相手の肩書より、その人物の名前の方が記憶に残っているはずですから、「為兼卿」が正しくて、「右兵衛督」は記憶違いとなりそうです。
仮に為世だけが「右兵衛督」であって、為兼が「右兵衛督」でなかったなら重大な誤解となりますが、正応三年六月八日に為世が権中納言に任ぜられて「右兵衛督」を辞し、同日、為兼が「右兵衛督」となった訳ですから(『公卿補任』)、僅か一か月違いの話です。
161番の「みなつきのなかばのころ」、鎌倉への帰途に景綱が近江国の老蘇森に通りかかった時点では、為兼は紛うことなく「右兵衛督」ですね。
とすれば、最晩年の景綱が正応三年五月五日の記憶を振り返って、あの頃、為兼卿は「右兵衛督」だったな、と勘違いすることは十分あり得ますね。

※「「心」は京極派の特異表現であり、為兼なら自然でも、為世が用いるとは考えにくいものです」と書いてしまいましたが、この点は(その11)で再考しています。

(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8c749761fbcc1f980cb18e9670f8e623

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