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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その20)

2022-06-27 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月27日(月)10時37分26秒

暫く善空事件を扱って来ましたが、『京都の中世史3 公家政権の競合と協調』(吉川弘文館)で坂口太郎氏の新知見があれば続行することとし、いったん小川論文に戻ります。
さて、(その17)で引用したように、小川氏は第六節の末尾で、

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 実際に為兼が政務に容喙すればする程に、廷臣の間に「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」という、治世に対する不信感を馴致させることを防ぎようもなかった。為兼は早晩淘汰されなければならない存在であった。安東重綱が「政道巨害」として為兼を排除できたのも、幕府が主導した形での鎌倉後期の公家徳政という道筋があったからなのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc

と書かれていますが、「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」は『実躬卿記』永仁二年(1294)三月二十七日条の表現です。
当時、三十一歳の正親町三条実躬は、弘安六年(1283)に正四位下に叙されて以降、位階は停滞し、官職も同八年(1285)に兼下野権介・転中将、正応四年(1291)に兼美作介とパッとしない状態だったので(『公卿補任』)、蔵人頭になることを切望していました。
井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)によれば、以下のような状況です。(68以下)

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 その三月二十五日三条実躬は参内し、蔵人頭に補せられたいと申し入れを行い、二十六、七日後深草院、関白近衛家基ほかにも希望を申し入れた。競望者は二条家の為道であったが、実躬はその日記に、運を天に任せるが、現在では「為兼卿猶執り申す」と記し、さらに諸方に懇願したのだが、二十七日の結果は意外にも二条家の為雄(為道の叔父)であった。実躬はその日記に、
  当時の為雄朝臣又一文不通、有若亡〔ゆうじゃくぼう〕と謂う可し、忠(抽)賞
  何事哉。是併〔しか〕しながら為兼卿の所為歟。当時政道只彼の卿の心中に有り。
  頗る無益〔むやく〕の世上也。
と記している(「有若亡」は役に立たぬ者、の意)。為兼は「執り申す」すなわち天皇に取り次ぐという行為で人事を掌握しており、為雄の蔵人頭も為兼の計らいと見たわけである。四月二日の条には、実躬は面目を失ったので後深草院仙洞の当番などには出仕しないことにしようと思ったが、父に諫められ、恥を忍んで出仕した。「当時の世間、併しながら為兼卿の計い也。而〔しか〕るに禅林寺殿(亀山院)に奉公を致す輩、皆以て停止〔ちょうじ〕の思いを成すと云々」と記している。為兼の権勢がすこぶる大きかったこと、あるいはそう見られていたことが窺われる。【中略】なお実躬は明らかに亀山院方への差別をみとっている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3acbe0aa724a9c51020020d2f56c87e6

『実躬卿記』でもう少し詳しく事情を見て行くと、三月二十五日から縣召除目の記事が始まって、実躬は同日参内して蔵人頭所望の由を奏上します。
翌二十六日には、

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丑、猶雨下、早旦参 内、即参仙洞、猶申入夕郎事、入夜帰参、著衣冠、頼藤朝臣
可昇進之由聞之、仍所望事重猶申入、且参直盧申執柄了、亥終刻関白令候殿上給、
執筆参 内、直著陣座、少頃参候殿上、端、次関白也、参御前給、執筆同参候、
次筥文公卿、<雨儀也、於中門下取之、昇切妻経簀子参上、>中御門中納言<為方>・
衣笠中納言<冬良>・別当<公顕>・鷹司宰相<宗嗣>、今夜顕官挙也、此宰相書之云々、
依伺候仙洞、
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という具合いに、内裏・仙洞(後深草院御所)・関白等、諸所に繰り返し参上し、「夕郎事」(夕郎〔せきろう〕は蔵人の唐名)を申し入れます。
翌二十七日にも実躬は仙洞に重ねて申し入れをしますが、そうこうしている間に、二条為道が蔵人頭を「競望」しているとの噂を聞きます。
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