学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その11)

2022-09-17 | 唯善と後深草院二条

『拾遺現藻和歌集』の女性歌人三十人の中で、「昭慶門院二条」の入集は四首ですから、けっこう多い方ですね。
三十人を社会的立場で分類してみると、女院が四人(達智門院・万秋門院・永福門院・章義門院)、女房が十七人、その他(〇〇女・〇〇室・〇〇母等)九人で、女房が過半数を占めており、「昭慶門院二条」もその一人です。
そして、女院名のついた女房は、

-------
 昭慶門院一条 生没年未詳。北畠師親女。新後撰以下に21首。
 昭訓門院春日 生没年未詳。二条為世女。西園寺実衡室、公宗母。
 今出川院近衛 生没年未詳。鷹司伊平女。続古今以下に26首。
☆昭慶門院二条 伝未詳。
 永福門院内侍 生没年未詳。坊門基輔女。京極派。玉葉以下に49首。
 延政門院一条 生没年・世系未詳。兼好集に贈答あり。続千載に1首。
 遊義門院兵衛佐 生没年・世系未詳。『とはずがたり』巻五に登場。
☆万秋門院二条 伝未詳。
 寿成門院備前 生没年・世系未詳。(※寿成門院(1302-62)は後二条天皇皇女)
-------

の九人で、この内、「昭慶門院二条」と「万秋門院二条」は他の資料に全く名前が出てこない人です。
ところで、女性の場合、女院クラスでないと生没年すら明確ではないので世代別の分類は困難ですが、おそらく最高齢は今出川院近衛でしょうね。
この人は『徒然草』第六十七段に登場します。
小川剛生氏の『新版 徒然草』(角川文庫、2015)から引用すると、

-------
 賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひまがへ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼びとどめて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗に影のうつりける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚、
  月をめで花をながめしいにしへのやさしき人はここにありはら
とよみ給ひけるは、岩本の社とこそ承り置き侍れど、おのれらよりは、なかなか御存知などもこそ候はめ」と、いとうやうしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
 今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて手向けられけり。誠にやんごとなき誉ありて、人の口にある歌多し。作文し、序など、いみじく書く人なり。
-------

という話ですが(p73以下)、小川氏は脚注で今出川院近衛の生没年を「一二四四頃~一三三一頃」とされています。
また、補注23には、

-------
〔今出川院近衛〕頓阿の井蛙抄巻六に逸話が載る。「続古今より以来、生きて五代の勅撰に逢ひて歌数もあまた入りて侍る。…詩なども作りて兼作集にも入る。仏法にも立ち入りて一生不犯の禅尼なり」などとあり、本段の内容と照応する。志操堅固な老女房歌人として尊敬されていた。井上宗雄「今出河院近衛」(『中世歌壇と歌人伝の研究』笠間書院、平19.初出平9)参照。
-------

とあります。
仮に今出川院近衛が寛元二年(1244)生まれとすると、『拾遺現藻和歌集』が成立した元亨二年(1322)には七十九歳ですね。
さて、1996年の小川氏は延政門院一条について「生没年・世系未詳」とされていますが、『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)では「延政門院一条の正体」について次のように書かれています。(p91以下)

-------
延政門院一条の正体
 堀川家に出入りするようになってさほど経たなかった頃、正和五年(一三一六)正月、前内大臣具守が六十八歳で没した(図版3-7)。洛北岩倉には堀川家の山荘があり、かつ代々の墓所を兼ねていたため、そこに埋葬された。翌春、兼好は延政門院一条という女性と次のような和歌の贈答をした(歌集六七、六八)。

    ほりかはのおほいまうちぎみを、いはくらの山庄にをさめたてまつりにし
    又の春、そのわたりの蕨をとりて、雨降る日申しつかはし侍りし
  さわらびのもゆる山辺をきて見れば消えし煙の跡ぞかなしき
  (さわらびが萌え出した、大臣様を埋葬した山のほとりに来てみると、あの日
   空に消えた火葬の煙の名残が悲しく思い出されます)
    返し             延政門院一条
  見るままに涙の雨ぞふりまさる消えし煙のあとのさわらび
  (大臣様を火葬にした山に生えた早蕨を見るにつれ雨のような涙が一層落ちる
   ことです)

 「さわらび」には「火」、「もゆる」は「萌ゆる」と「燃ゆる」を懸け、火葬の煙を暗示する。そうした技巧は措いても、前記五七番歌とは違って、こちらには故人を哀傷する心が感じられる。それもそのはずで、兼好の贈歌は源氏物語・早蕨巻で、宇治十帖に登場する姫宮の一人、中の君が父の八の宮を悼んだ「この春は誰にか見せむ亡き人の形見につめる峯のさわらび」という歌を踏まえている。
 この延政門院一条とは誰か、さまざまな推測がある。延政門院悦子内親王(一二五九~一三三二)は徒然草第六十二段にも登場する、後嵯峨院の皇女である。その女院に仕えた女房となるが、「一条」は上﨟女房の名であり、大臣か大納言の娘に限られる。同時代の女院の女房歌人の例に照らしても、たとえば昭慶門院一条の父は権大納言北畠師親、徽安門院一条の父は権大納言正親町公蔭である(ともに大臣になり得る家格である)。すると延政門院一条は具守の娘と考えるべきである。具親のごとく、早世した権中納言具俊の子で、祖父具守の養子となっていたのであろう。そのように考えて初めて源氏物語を踏まえた兼好の贈歌の意味が分かる。ただしこの贈答は家人との間にしては、ややうちとけた感もある。兼好は常勤の家司などではなく、「遁世者」として堀川家に出入りしていたもので、主従関係は比較的穏やかなものではなかったかと想像されるのである。
-------

『拾遺現藻和歌集』に登場する昭慶門院一条の父・権大納言北畠師親(1241-1315)は後深草院二条の又従兄妹で、『とはずがたり』の「粥杖事件」に、

-------
「あなかなしや、人やある、人やある」と仰せらるれども、きと参る人もなし。からうじて、廂に師親の大納言が参らんとするをば、馬道に候ふ真清水、「子細候ふ。通し参らずまじ」とて杖を持ちたるを見て、逃げなどするほどに、思ふさまに打ち参らせぬ。「これよりのち、ながく人して打たせじ」と、よくよく御怠状せさせ給ひぬ。

http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm

という具合いに登場します。
また、「持明院殿蹴鞠」の場面にも登場しており、後深草院二条とは親しい関係だったようですね。

『とはずがたり』に描かれた「持明院殿」蹴鞠(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/960f629a5cc08b7f21f6c03ef780b260
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/00ef3d6087a095bd2bc066f525a03fe1

なお、正親町公蔭(1297-1360)は建武四年(1337)に改名した後の名前で、もともとは京極為兼の養子として「忠兼」を名乗っていました。
『拾遺現藻和歌集』では「忠兼」は為兼と共に排除されているので、「昭慶門院二条」や『拾遺現藻和歌集』の撰者の問題とは関係がありませんが、正和四年(1215)に為兼とともに六波羅に逮捕され失脚した後、「忠兼」は足利尊氏の正室・赤橋登子の姉妹・種子と結婚しており、この人間関係は興味深いですね。
徽安門院一条の母は赤橋種子です。

赤橋種子と正親町公蔭(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/756ec6003953e04915b7d6c2daa6df1a
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39d230584728bf45b6a86b87eed73878

徽安門院一条
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%BD%E5%AE%89%E9%96%80%E9%99%A2%E4%B8%80%E6%9D%A1

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする