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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その20)

2022-09-25 | 唯善と後深草院二条

井上著は前回投稿で引用した部分の後、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の現存十八首の中で最多の六首を詠んでいる宇都宮景綱(1235-98)の解説になります。
そして、宇都宮歌壇の歌人と「大御堂大僧正源恵(頼綱子)」に触れた後、再び為相の話になります。(p70以下)

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為相 このような多くの歌人を指導したのが下向公家、就中、師範家出身の公家であった。その中でも鎌倉に腰を据えたのが為相である。
 為相が初めて関東に下ったのは何時頃か。阿仏尼は弘安六年四月に没したが、その場所は京・鎌倉の両説ある。小川寿一氏『阿仏尼と大通寺』・石田吉貞氏『十六夜日記』・玉井幸助氏『十六夜日記評解』は帰洛して没したとし、谷山茂氏「十六夜日記成立年代考」(国語国文・昭和二四3)・『十六夜日記』は鎌倉客死説、福田氏も「十六夜日記に記された細川庄の訴訟について」)客死説である。もし鎌倉で没したとしたら為相も恐らく遺骨を拾いに東下したのではあるまいか。二十一歳であった。間二年をおいた弘安九年六月に細川庄領家職は院宣により為氏の勝訴となったが、為氏は同年九月地頭職についての訴訟の為に関東に下り、そのまま同地で没したらしい(米沢文庫本沙石集による福田氏の推定)。為氏の死によって訴訟は為相と為世との間に交される事になり、まず正応二年には為相は地頭職については勝訴の判決をえたが、為世は直ちに越訴して四年八月為世が勝った。これらは六波羅に訴えて六波羅から関東に送付され、鎌倉で審議されたた為に関係者は関東に滞在することが多かったのであろう。
 為世は現任の公卿であり、京にいる事が多かったのであるが、為相はどうであったか。弘安末頃に鎌倉にいた可能性は極めて高いが、正応頃にも関東にいる事が多かったと思われる。而して奥書に為相の名がみえる本の多い事は注意されよう。
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いったん、ここで切ります。
この後、書誌学的には興味深い話が続きますが、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の時点で為相が鎌倉に滞在していたのか否か、という観点から見ると、『愚僻抄』に関する次の記述が気になります。(p71以下)

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なお愚僻抄は末に「或記云、白帋之時不書詠云々、只名字題許書也、但可書哥所ヲ置之<基金吾也>、是故老説也、極秘事」云々の文があり、「<本云>治承二年五月八日書之」とあって、一本線を引いて消している。次に、

  正應第三暦孟夏上旬之候、以秘本書之、敢不可外見之由誓状了、心中深可謹者也
    愚僻抄
  正應五年三月二日於関東二階堂誂或人書了、寫本冷泉羽林為相朝臣被秘本也、穴賢、不可及外見云々

とある。(正応二つの奥書はやや小字)。
 まず正応五年の奥書を考えると、これを記した某(Bとする)が、羽林為相朝臣(時に為相は従四位下左少将であるからこの記し方は正しい)の秘本(而してそれは「写本」=転写本であったらしい)によって或る人に誂え、二階堂で書写せしめたものである。正応三年奥書は誰が書いたものだか不明であるが、五年の奥書から考えると、某(Aとする)が為相の本を誓状を出して写したのではなかろうか。即ちAは正応三年に為相所持の秘本によって写し、Bがその本(写本)によって五年に書写せしめた、というのではなかろうか。
【中略】
 かくして為相は、相伝の秘本を関東で人々に見せたり、写さしめたりしている事が推察されるのである。
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この記述からは「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」が催された正応五年(1292)に為相が鎌倉に滞在していたかどうかは分かりませんが、為相は正応年間(1288-92)には鎌倉にいたことが多そうですね。
この後、正応四年の鎌倉での慶融との交流を示唆する記述もありますが、慶融を紹介するときに引用します。
なお、慶融(生没年未詳)も藤原為家の子で、年は離れていますが、為相(1263-1328)の異母兄です。

藤原為家(1198-1275)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E5%AE%B6

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