かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

死を軽く考えることはできないとは思うものの……。

2006-03-27 21:44:07 | Weblog
 風邪はかなりよくなって参りました。少なくともノドの痛みはほぼ消滅しています。鼻に残る症状は花粉症と見分けがつきにくいので、風邪としてはひょっとしたら完治しているのかも知れません。いつの間にか破傷風予防接種痕の痛みも無くなっていますし、ここ半月ほどの間では一番具合が良さそうな雰囲気です。念のため今日もアスピリンと抗炎症剤を服用していますが、明日の状況次第で薬もいらなくなるんじゃないか、と期待しております。

 さて、尊厳死を巡る事件がまた世情をにぎわしていますが、報道の内容を鵜呑みにもできませんので、このニュースだけで是非を判断するのは難しいです。ただ、この事件を私自身に置き換えた場合は、色々考えることも出てきます。
 尊厳死を望むヒトは、延命措置を拒否するむね遺言で残しておくといいらしいですが、私としては自分の遺言にそんなことを書こうとは、今の時点では全く考えておりません。いえ、財産分けはともかく(そんな遺産ができればですが(笑))、葬式とかお墓とか書籍等の遺物とか、それらの処理についていちいち書き残そうとは思っておりません。おそらく一言、「気の済むようにしてくれ」とだけ書きそうな気がします。
 私は、死というのは二度と復活しない意識の喪失であり、意識が失われてブラックアウトする以上、死の瞬間に私という存在が消えて無くなると思っています。今のところ、死後の世界を肯定するに足るデータは見たことがありませんし、私という意識は私の脳の活動により生み出されていると考えておりますので、脳が機能を停止した時点で私の存在は失せるはずです。消えて無くなってしまう以上、死を自分の問題ととらえるすべもなく、死んだ後は自分の肉体がどうなろうが知る事もできないし、責任もとりようがない、と思うのです。後は残された連中で納得いくように好きにやってくれ、残された者達の思いや気持ちを死んだ後では知ることができないのだから、というのが私の基本的な考えです。
 
 このように自分の死に関しては無責任極まる私なのですが、両親や親類縁者、友人達の死については、かくも割り切った考えを持つことができません。彼らの死は、この場合痛切なる喪失感となって、私の心に深い傷を残すに違いないと想像されるからです。特にここ1,2年ほどの間、私は絶対避けられないそんな喪失感にどう対処したらよいのか、ということを、折に触れ考え続けています。まあ私自身がその前に事故とか病気とか何かひょんな事で先に死んでしまう可能性もありますけど、順当につつがなく過ごすことができるなら、かなり大勢の人間が私より先に死を迎え、私はその死と対面することになるはずです。私は後になってから自分の不明を悔やむクセがありますから、そのときになって狼狽するより、今のうちからある程度考えを煮詰めておきたいと思うのです。といいつつ、知人の死を迎えたときにそんな思考の積み重ねが本当に役に立つのか?という疑念もあるのですが、そう思いながらも考えを止めることができません。
 自分の親兄弟が脳死状態になったとき、果たして人工呼吸器を止める決断が下せるのか。理性は、「二度と意識が戻らぬ以上、もうその人は消えて無くなったも同然」と私に告げるでしょうが、喪失そのものを恐れる私の感情が納得するだけの言葉を、私の理性が紡ぎ上げることができるかどうか。私は実は絶対に答えのでない絶望的な思考の迷路に踏み迷っているのかも知れません。

コメント
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