かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

リサイクル社会を目指すのは、なんのためなのか。

2006-03-05 20:58:56 | Weblog
 今日は3月5日。普通はなんてことはないただの一日なのですが、昨年から少しだけ特別な日になりました。というのも、このブログを開設したのが平成17年3月5日、ちょうど1年前の今日だったのです。そろそろそんな時分だな、とは思っておりましたが、今朝改めて確認して、今日がその日だと知ったのでした。この一年の投稿総数は356。9日間だけ書き込みできない日がありましたが、それ以外は毎日せっせと打ち込み続けてきたことになります。まあ我ながらよくやったものです。いずれそのうち止めるときも来るのでしょうけど、今はそんな日が想像つかないほど、ブログが生活の一部になっています。相変わらず観る人のことを考えずに好き勝手書き散らしておりますが、当分の間は星の数ほどあるブログの中のささやかな一小惑星くらいの様子で、ネットの片隅に漂い続けていることでしょう。

 週明けに容器包装リサイクル法の改正案が国会に提出され、成立するのはほぼ確実なんだそうです。循環型社会を実現するための一助になる法律で、来年春には施行され、各自治体において、ゴミの分別の徹底が求められることになるのだとか。自治体によって随分分別の仕方は違うようで、私のところでは、ガラスビンと缶は月2回、ペットボトルはふたとラベルを除去して、月1回出してます。もちろん中は水洗いして乾燥させたものを出すよう求められております。それ以外の容器やトレイなどのプラスチックや発泡スチロールは、今のところ生活ゴミ一般として、生ゴミや紙くずなどと一緒に出しております。しかし、隣接する自治体では、更に細かくプラスチック系は分別しないといけないらしいですし、どこだったか忘れましたけど、家庭ゴミを確か8種類くらいに分類してきっちり分けるよう求めている自治体もあるやに伺ったことがあります。それからすれば、随分我が町は「ゆるい」制度になっているようです。それでも分別が100%徹底されるのは夢物語のようなのですが、更に細かく分けるよう指導しているところなどは、一体どうなっているんでしょう? 現実には分別ゴミに混入していては困る余分な異物を取り除いたりするのには人手に頼らざるを得ず、余分なコストがかかっていて、結局分別徹底すればするほど収集コストが高騰し、千葉や神戸、福岡のように、政令指定都市と呼ばれる大都市においても、うちのような田舎町同様プラスチックゴミの分別をしていない都市があるんだそうです。結局何をするにもコストがかかり、それを誰がどうやって負担するのか、という話になってしまうのかと思うのですが、経団連が言うように「消費者の何げないごみ出しのルール違反が、リサイクルコストを増やす。消費者の分別徹底がなければリサイクル社会は築けない」というのも、消費者に責任転嫁しているようで今ひとつ頷くにはためらわれる話です。環境保護のため分別に協力して欲しい、人のモラルとして分別に協力すべきだ、という話ならわかりやすいのですが、リサイクルコストを減らすために消費者はルールを守れ、という言い方は、消費者がゴミの分別のために費やす労働や時間というコストを無視した、企業・お役所の勝手な論理にしか聞こえないのです。なぜ我々消費者が、頼みもしないのに押しつけてくるプラスチックの処理のために時間や労力を裂かねばならないのか、一度でもちゃんとした説明を企業やお役所はしてきたのでしょうか。
 私自身は、ゴミを排出する消費者一人一人のモラルが大事なのは言うまでもないことのはずだと思いますし、それくらいのことすら守ることのできない人達を困りものだとも思います。でも、どんな問題でもそうですが、「おまえらルール守れよ!」と言うだけではなんの解決にもなりません。時間はかかるでしょうし方法一つとってもそう一筋縄ではいかないと思いますけど、短絡的にコストをどうこう言う以前に、「ゴミの分別くらい市民として当たり前のことだ」と大多数の人が考えるような社会を作る方法を考えないといけないのではないでしょうか。循環型社会というのは、人類の永続的な繁栄を維持するために必要とされる社会なのでしょう。それならばそれこそ100年くらいかけてでもそういう成熟した理性的モラルを社会全体に醸成する方法をこそ、この容器包装リサイクル法を巡る議論で話し合って欲しいと私などは思います。それこそが政治というものではないかと、素人ながらに考える次第です。

コメント (1)
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