電脳筆写『 心超臨界 』

他者の働きによるのではなく
自ら他者に尽くすことにより成功をつかめ
( H・ジャクソン・ブラウン Jr. )

教えない歴史1 《 日露戦争直後から日本との戦争計画――斎藤武夫 》

2024-02-20 | 04-歴史・文化・社会
日露戦争はヨーロッパの国々にも「大きなしげき」を与えました。アジア人なら好き勝手に支配してもいいのだという自分達の考え方が、これからは通用しないかもしれないという恐れでした。それをいちばん強く感じていた国が、皮肉なことに、日露戦争の講話で日本を助けてくれたアメリカでした。アメリカにとって日本が目の上のたんこぶになってきたのです。日露戦争後、すぐに「これから一番の敵になる国は日本だ」と考えるようになります。 . . . 本文を読む

教えない歴史1 《 満州の利権めぐり対立始まる 》

2024-02-20 | 04-歴史・文化・社会
ルーズベルトの仲立ちで、1905年8月29日に日露講和条約が結ばれました。これをある教科書は、次のように書いています。「条約によって、樺太の南半分を日本の領土にすること、ロシアが清国(しんこく)から借り受けていたリャントン半島と、南満州の鉄道の権利を日本にゆずること、などが決められた」。この時、来日中のアメリカの実業家ハリマンが政府に「資金を提供するので、南満州鉄道を日本と共同経営しよう」と提案しました。 . . . 本文を読む

教えない歴史1 《 ルーズベルトに救われた日本 》

2024-02-20 | 04-歴史・文化・社会
日本海海戦で勝利した時点で、軍事費は国家予算の8年分を使いきっていました。日本の国内には補充する兵隊がもう残っていませんでした。一方、満洲に新手(あらて)を加えて終結した70数万のロシア軍がいました。戦争が続くと、疲れて弾薬も乏しくなっている25万の日本軍に壊滅(かいめつ)的な打撃をあたえるでしょう。なんとかして講和に持ち込みたいと思った日本政府は、アメリカに派遣していた金子堅太郎を通して、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトに、講話の仲立ちをしてくれるよう依頼しました。 . . . 本文を読む

教えない歴史1 《 愛弟子のように何でも学んだ日本 》

2024-02-20 | 04-歴史・文化・社会
外国交際のルール(当時の言葉で「万国公法」といいます)を教えてもらったばかりではありません。日本は近代的な国家や社会のしくみをたくさんアメリカから学びました。日本はアメリカという先生の愛弟子(まなでし)のようでした。たとえば、1872年に小学校制度が始まり、翌年には1万2千をこえる小学校が全国に誕生、教員の養成がいそがれました。 . . . 本文を読む

教えない歴史1 《 ペリーはなぜ日本に来たのか 》

2024-02-20 | 04-歴史・文化・社会
西部開拓を推し進めていたアメリカは1845年にメキシコからテキサスを奪いとりました。アメリカは、こうした領土拡張は人口増加による当然の政策であり、神から与えられた「明白な運命」(英語で「マニフェスト・ディスティニィ」)であると正当化しました。以後、この考え方は太平洋を越えてさらなる西進をもくろむアメリカの「大義(たいぎ)」となり、ペリーの日本遠征の動機となったのです。 . . . 本文を読む

人生の幕をどう引くか――五木寛之

2024-02-20 | 03-自己・信念・努力
ヒマラヤやエベレストを征服した欧米の登山家たちは、山頂に国旗を立てて写真をとる。山は人間によって征服されるべき敵対的な自然だった。アンチ・がん、アンチ・未開、アンチ・貧困、などなど、「アンチ」は常に攻撃的である。しかし老化は敵ではない。「ナチュラル・エイジング」こそ私たちの求めるものなのではあるまいか。死、もまたそうである。「ナチュラル・エンド」こそ、人間の最高の夢だろう。私はそう思う。 . . . 本文を読む

人間としてのおおらかさ、包み込む温かさ――双葉山

2024-02-20 | 03-自己・信念・努力
「オーイ」。名指しで呼ばれた者は喜び勇んだ。双葉山は一見、近寄りがたいが「いつもそばに行きたい」「親方から声をかけてもらいたい」。みんなそう思った。風呂では我先に駆けつけて背中を流した。 . . . 本文を読む

土俵一途の双葉山も子煩悩な一面があり、特に博子さんを溺愛した――双葉山

2024-02-20 | 03-自己・信念・努力
博子さんの死で毎晩の酒量が急に増えた。元々一晩でウイスキーのオールドパー1本空けるほどの酒豪。翌年暮れ、痛み止めを拒否して、胃潰瘍の手術を受けた。どんなことがあろうと、朝のお勤めを欠かさず、人を憎んだり疑うこともなかったと澄子夫人は言っている。 . . . 本文を読む

中村、聞く学問というのもあるぞ。人の話をしていることを聞きなさい――双葉山

2024-02-20 | 03-自己・信念・努力
新聞記者の夜討ちに理事長は正装して正座で用件に答えた。終わると「一杯いこう」。今度は記者の話を聞く。聞かれる記者は大横綱が聞いてくれるので有頂天で何でも話した。直々に「中村、飯食ってけ」と家族との食事の席に呼ばれた。「食べろよ、飲めよ」と勧められる。うれしいが雲の上の人を前にのどを通らなかったという。 . . . 本文を読む

日本が戦争に負け、魂の抜け殻みたいになってしまった――双葉山

2024-02-20 | 03-自己・信念・努力
相撲の神様が、人生を変える宗教と出会ったのは、入門2年目のことだ。粗食から急激に白い米を相撲で食べるようになったことで重い脚気に悩まされた。同門の佐賀錦に誘われ東京・杉並にある日蓮宗の金丸妙正尼の教会へ通う。同情で唱題修行を始めると、みるみる全快、成績も向上していったという。 . . . 本文を読む

回船業の借金返済のため幼い時から重労働に従事する――双葉山

2024-02-20 | 03-自己・信念・努力
6歳で右目を失明し、11歳で錨(いかり)を巻いている際に右の小指の先を失う。逆境に立ち向かう強い信念は、各界入りしてさらに厚い信仰心のよろいに包まれ、無敵となる。信仰と信念を貫いた56歳の至高の人生だが、晩年は「人間双葉」の記憶を人々に残している。 . . . 本文を読む

論語 《 子夏曰く、賢賢たるかな易の色や、とあり 》

2024-02-20 | 03-自己・信念・努力
子夏(しか)曰く、〔賢を賢として色に易えよ。〕賢賢たるかな易の色や、とあり。父母に事(つか)えては能(よ)く其の力を竭(つく)し、君に事えては能く其の身を致し、朋友と交わり、言いて信あらば、未だ学ばずと曰うと雖も、吾は必ず之を学びたりと謂(い)わん。 . . . 本文を読む

私の玉手箱は、どうやらひととの触れ合いで埋め尽くされている――辻久子

2024-02-19 | 03-自己・信念・努力
結婚して45年の夫・坂田義和は陰になり陽なたになり、一音楽家の私を支えてくれた。札幌郊外に建てた家には、24畳の広さで4㍍近い天井を持つ特別しつらえの音楽室がある。ゴルフ場や森に囲まれた閑静な場所で存分に音楽に打ち込ませてもらった。北海道には、30年間にわたり“通い妻”をした。一年の大半は出演先を転々とする暮らしだ。 . . . 本文を読む

家はまた買えるかもしれないけど、このバイオリンとはいつ再会できるか分からない――辻久子

2024-02-19 | 03-自己・信念・努力
出合いは1973年、大阪の百貨店で開かれた世界の名器展だった。ストラドのほか、グァルネリも試し弾きした。そしてこのストラドのとりこになった。音が素直に鳴ってくれるのだ。普通、楽器はそれぞれ固有のクセがある。それをあらかじめ踏まえ織り込んで弾くものだと思ってきた。ところがこの楽器はクセがない。 . . . 本文を読む

10分前になって、雲がわくように目抜き通りの御堂筋方面から人が押し寄せてきた――辻久子

2024-02-19 | 03-自己・信念・努力
大阪・中之島の大阪市中央公会堂。ここで1939年5月24日、私のリサイタルが開かれた。大勢の聴衆を前に弾く、私のひのき舞台だ。前年、12歳で第7回音楽コンクール(現日本音楽コンクール)第1位になり、併せて文部大臣賞を受賞。これを記念した催しだった。“13歳の天才少女”というふれこみだが、興行的には一種の賭け。どれだけ聴衆が集まるか疑心暗鬼だった。 . . . 本文を読む