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『日露戦争を演出した男 モリソン 下』http://tinyurl.com/pksjuhv
【 ウッドハウス瑛子、新潮社 (2004/10)、p302 】
やがて8月23日になったが、ツァーからはルーズベルト宛の正式回答が来なかった。それで、ウィッテは会議を午後2時半まで遅らせてほしいと申し込み、小村はこれに同意した。しかし、回答は午後になっても来ない。実は、永久にこなかったのである。
さて、午後の会議で小村は、
「サハリンを二分し、ロシアは南半分を日本に割譲し、北半分は12億円で日本から買い取ること。この条件で日本は軍費払戻し要求を撤回する」
旨(むね)の覚書を渡した。
ここで、ウィッテは一世一代の演技を試みた。ウィッテは賭(か)けた。この案を、彼は以前から念入りに練っていたのである。ウィッテは、
「私個人の参考のためであるが」
と前置きしていった。
「ロシアがサハリンを日本に渡すとしたら、日本は全面的に金銭上の要求を破棄するか」
もし、小村が放棄すると答えれば、ウィッテは窮地に陥るはずであった。日本は金銭だけのために続戦を欲している、と世界に宣伝できなくなるからである。しかし、小村は冷たく答えた。
「日本が軍費払戻し要求を放棄するのが困難なのは、ロシアがサハリン島全部を買い戻すのが困難なのと同じである」
これでは、ウィッテの欲しい答えにはなっていない。そこでウィッテは、もう一度罠(わな)をかけなおすべく、いった。
「金銭支払いは、ロシアがサハリン北半を買い戻すためのものであるから、もしロシアが日本に全島を渡すとすれば、この問題は自然に解消するはずではないか」
ここでもし小村が同意すれば、ウィッテの賭けは失敗に終わったであろう。ところが小村は、
「形式上からはそうであろうが、実質上からはそうではない。日本の妥協案は、償金または軍費といわないで、土地買戻し代金という名義で、金を受けとることなのだから、日本がしかるべき金額を要求するのは当然である」
と、金銭要求に固執したのである。これこそ、ウィッテの望むところであった。そこで、ウィッテは声を強めて、
「日本の妥協案の実質は……金銭の要求なしの他の一切の方法を承諾しないことが明白となった」
と宣言した。この時点で、事態は完全にウィッテの思うつぼにはまったのである。
ディロンは、コンテンポラリー・レビュー誌の1905年10月号に次のように書いている。
「ウィッテは未決定案件を、金銭問題の一点にしぼろうと苦心した……彼は『仮にサハリン全島を日本に渡せば、日本は金銭要求を撤回するか』に小村が『否(いな)』と答えたことに関し……イギリスの記者にむかって『この一言を記憶していただきたい』と叫んだ。ウィッテの質問は……小村自身の口から、この一言を引き出すための方便であった」
ウィッテは小村の言質(げんち)をとって、これを日本の非人道性を宣伝する格好の材料としたのである。各新聞は、日本を人道の敵として猛烈に攻撃した。このような状況で交渉が決裂すれば、もちろんそれは日本の責任となる。その日、ウィッテはAP通信の記者に入れ知恵をし、同紙は翌24日次のような報道をした。
「ロシアはすでに譲歩できる限り譲歩し、日本は取るべきものはすべて取った。そして現在、残っているのは金の問題だけである。日本がこれを撤回しない限り、和平は成立しない」
モリソンは、
「この記事はAP通信社の見解ではなく、ウィッテの見解そのものである。ウィッテはこれとまったく同じことを、駐米イギリス大使デュランドにもいった」
と、日記に書いている。
この記事は猛威を振るった。すでにロシア側に傾きつつあった世論の振子は、今や完全にロシア側に振れた。親日派だったニューヨーク・サン、イブンニング・ポスト両紙までもが親露的記事を書く始末であった。
「日本は金と土地のため人道を無視する」、「日本は人間の血を商売道具にする」
などの暴言を吐く新聞も現れた。
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やがて8月23日になったが、ツァーからはルーズベルト宛の正式回答が来なかった。それで、ウィッテは会議を午後2時半まで遅らせてほしいと申し込み、小村はこれに同意した。しかし、回答は午後になっても来ない。実は、永久にこなかったのである。
さて、午後の会議で小村は、
「サハリンを二分し、ロシアは南半分を日本に割譲し、北半分は12億円で日本から買い取ること。この条件で日本は軍費払戻し要求を撤回する」
旨(むね)の覚書を渡した。
ここで、ウィッテは一世一代の演技を試みた。ウィッテは賭(か)けた。この案を、彼は以前から念入りに練っていたのである。ウィッテは、
「私個人の参考のためであるが」
と前置きしていった。
「ロシアがサハリンを日本に渡すとしたら、日本は全面的に金銭上の要求を破棄するか」
もし、小村が放棄すると答えれば、ウィッテは窮地に陥るはずであった。日本は金銭だけのために続戦を欲している、と世界に宣伝できなくなるからである。しかし、小村は冷たく答えた。
「日本が軍費払戻し要求を放棄するのが困難なのは、ロシアがサハリン島全部を買い戻すのが困難なのと同じである」
これでは、ウィッテの欲しい答えにはなっていない。そこでウィッテは、もう一度罠(わな)をかけなおすべく、いった。
「金銭支払いは、ロシアがサハリン北半を買い戻すためのものであるから、もしロシアが日本に全島を渡すとすれば、この問題は自然に解消するはずではないか」
ここでもし小村が同意すれば、ウィッテの賭けは失敗に終わったであろう。ところが小村は、
「形式上からはそうであろうが、実質上からはそうではない。日本の妥協案は、償金または軍費といわないで、土地買戻し代金という名義で、金を受けとることなのだから、日本がしかるべき金額を要求するのは当然である」
と、金銭要求に固執したのである。これこそ、ウィッテの望むところであった。そこで、ウィッテは声を強めて、
「日本の妥協案の実質は……金銭の要求なしの他の一切の方法を承諾しないことが明白となった」
と宣言した。この時点で、事態は完全にウィッテの思うつぼにはまったのである。
ディロンは、コンテンポラリー・レビュー誌の1905年10月号に次のように書いている。
「ウィッテは未決定案件を、金銭問題の一点にしぼろうと苦心した……彼は『仮にサハリン全島を日本に渡せば、日本は金銭要求を撤回するか』に小村が『否(いな)』と答えたことに関し……イギリスの記者にむかって『この一言を記憶していただきたい』と叫んだ。ウィッテの質問は……小村自身の口から、この一言を引き出すための方便であった」
ウィッテは小村の言質(げんち)をとって、これを日本の非人道性を宣伝する格好の材料としたのである。各新聞は、日本を人道の敵として猛烈に攻撃した。このような状況で交渉が決裂すれば、もちろんそれは日本の責任となる。その日、ウィッテはAP通信の記者に入れ知恵をし、同紙は翌24日次のような報道をした。
「ロシアはすでに譲歩できる限り譲歩し、日本は取るべきものはすべて取った。そして現在、残っているのは金の問題だけである。日本がこれを撤回しない限り、和平は成立しない」
モリソンは、
「この記事はAP通信社の見解ではなく、ウィッテの見解そのものである。ウィッテはこれとまったく同じことを、駐米イギリス大使デュランドにもいった」
と、日記に書いている。
この記事は猛威を振るった。すでにロシア側に傾きつつあった世論の振子は、今や完全にロシア側に振れた。親日派だったニューヨーク・サン、イブンニング・ポスト両紙までもが親露的記事を書く始末であった。
「日本は金と土地のため人道を無視する」、「日本は人間の血を商売道具にする」
などの暴言を吐く新聞も現れた。
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