電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

自助論 《 さびついてしまうより、ボロボロにすり切れたほうがましだ――サミュエル・スマイルズ 》

2024-10-05 | 03-自己・信念・努力
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日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
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生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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ほんとうの意味で賢くなりたいと願うなら、まず勤勉の習慣を身につけ、先達のようにねばり強く努力していくほかはない。いつの時代にも、価値あることを成すためには努力という代償がつきものだ。だから、われわれは目標を高く掲げて学問や仕事に励むことを第一とし、成果が表われるまで辛抱強く待つ必要がある。


『自助論』
( サミュエル・スマイルズ、三笠書房(2002/3/21)、p208 )
8章 自己修養――最高の知的素養は一日の仕事から生まれる
2 鉄は熱くなるまで打て

◆さびついてしまうより、ボロボロにすり切れたほうがましだ

人間は誰でも、自己修養を通じて進歩向上したいと望んでいる。それでいながら、それ相応の努力を払いたがらないのが世の常だ。ジョンソン博士はこの点を、「勉強に耐えられないのは、現代人の心の病である」とズバリいい当てている。

確かにわれわれは「学問に王道なし」という格言など信じないで、学問にも何か安易な道があるにちがいないと思い込んでいるようだ。だからどんな教育でも、あまり苦労しないですむような近道を考え出そうとする。

ある上流階級のご婦人は、語学の勉強をはじめる時に、「動詞や分詞の規則で私を悩ませないでくださいな」と教師に注文をつけたという。速習法に頼って語学をマスターしようとする最近の傾向は、まさにこの婦人とウリ二つの過ちを犯している。

科学でも、似たり寄ったりの勉強法がまかり通っている。われわれは、見ていておもしろい実験にだけは興味を覚え、緑色の水が赤に変わったり酸素中でリンが燃えたりするのを眺めては、生かじりの知識を得ている。生かじりでも何もないよりはましだが、実際そんな知識は何の役にも立たない。結局、われわれは単なる楽しみを教育とはき違えて考えているのだ。

仮に勉強も努力もせず手軽に知識を得る方法があったにせよ、それは教育と呼べるしろものではない。頭に断片的な知識を詰めこむことはできても、精神を豊かにするには至らない。当座の間は精神を刺激し、知的喜びを与えてくれはしても、楽しみ以上の高い目標を植えつけはしないから、結局はムダな気晴らしに終わる。

このような知識は、ほんのいっときの印象や感覚の域を出ない。それは刹那的な知性であり、ほんものの知性からはほど遠い。人間の美徳は、自分の力で精一杯努力して学んだ時に初めて目覚める。だが、興味本位の勉強にひたっている限り、その美徳は永遠に眠りつづけていくだろう。

興味本位の知識修得方を身につけた若者は、じきに勉強や努力にソッポを向くようになる。ふざけ半分に知識を得ているうちに、今度は知識をふざけ半分にもてあそびはじめる。知性はしだいに雲散霧消して跡形もなくなり、時がたつにつれ、精神も性格も骨抜きにされていく。

「おもしろ半分の乱読は、煙草と同じように精神の力を衰弱させ、人を無気力に陥れる。それは怠惰の中でも最悪のものであり、人間を完全に去勢してしまう」とロバートソンは語っている。

安易な教育法の弊害は現在も徐々に広がり、各方面に悪影響を与えている。それはまず、軽薄な人間を大勢つくり出している。だが何より重大なのは、着実な努力を嫌う人間が増え、精神力の低下と衰弱が進んでいる点だ。

ほんとうの意味で賢くなりたいと願うなら、まず勤勉の習慣を身につけ、先達のようにねばり強く努力していくほかはない。いつの時代にも、価値あることを成すためには努力という代償がつきものだ。だから、われわれは目標を高く掲げて学問や仕事に励むことを第一とし、成果が表われるまで辛抱強く待つ必要がある。

より高い目標をめざすほど、進歩は遅い。しかし真剣に精一杯努力すれば、その報いは必ず訪れる。日々を勉強に生きる人間は、いずれその力を尊い目的のために使えるようになるだろう。進歩向上を果たした後も、われわれは引きつづき努力していかねばならない。なぜなら、人生における自己修養には終着駅などないからだ。

「何かに打ち込んでいるほど幸せなことはない」と述べたのは、カンバーランド主教である。また、フランスの神学者アルノーはこう断言している。

「休息なんて、あの世に行けば誰でもできるではないか」
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