電脳筆写『 心超臨界 』

忍耐は力だ! 忍耐の時が過ぎれば
桑の葉がやがてシルクのガウンになる
( 中国のことわざ )

日本史 鎌倉編 《 戦争で最も困難なのは戦後処理——渡部昇一 》

2024-05-12 | 04-歴史・文化・社会
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元寇を日本中の武士が国難として受け止め、それと戦うことを自己の当然の義務とした。したがって、20年近くもの間、守護地頭(しゅごじとう)をはじめ、武士たちは船を造ったり、刀を鍛えさせたり、矢の準備に金を惜しまず注ぎこんだ。所領を売ったり、質入れし、金を借りてまで準備した者も少なくなかった、そして命がけで戦い、一族の中に戦死者を出した者も少なくない。ところがどうであろうか。戦争が終わってみると、繁栄しているのは、よく準備し、よく戦った者たちよりも、そういう者に金を貸したり、土地を買い取った者たちではないか。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p70 )
1章 鎌倉幕府――近代国家意識の誕生 = 元寇が促した「一所懸命」からの脱却
(3) 楠木正成――日本型「大義名分」の発明

◆戦争で最も困難なのは戦後処理

政治の方針がこのように簡単に変わることを「朝令暮改(ちょうれいぼかい)」と言う。朝に命令を下し、夕方にそれを改めるということで、法令がしょっちゅう変わってあてにならないことを指す。「朝礼暮変」と言っても同じことである。

法律がぐらぐらしていることは、裁判がのろのろするのと並んで、その体制の寿命が見えてきたということになろう。そして、これは鎌倉武士の勃興気と、ちょうど逆になったということなのであった。

天下の政権が武家に渡った最大の理由は、まさに裁判の迅速と、法令の安定だったということをここで思い出す必要があろう。

文治(ぶんじ)2年(1186)、北条時政(ときまさ)が京都の治安の責任を与えられたとき、強盗をつかまえると、本来はそれを裁くべき検非違使庁に引き渡さずに、片っ端から死刑にしたのであった。形式主義と人道主義が浸透しすぎた宮廷は、強盗をろくに裁けなかったのである。ところが、北条時政は迅速に処刑したので、群盗の姿は京都から消え、市民は武家支持に傾いたのである。

また、頼朝と泰時も、武家の法令は、すべて「道理」という、慣習によって受け容れられている発想法に基づいていた。為政者が勝手に考えるのでなく、すでに慣行としてあるものの確認というのが武家法の根本である。さればこそ、武家の式目は簡略であるが、すみずみまで納得され、実効があった。

それが元寇という、鎌倉の軍事体制では手に負えない事件があったにせよ、裁判はぐずぐず、法令はきまぐれのようになったのであるから、どうしてもこれは天下大乱の相である。

元寇の後始末をつけようと苦労したのは貞時(さだとき)であり、彼については、前節でやや詳しく述べた。正義感が強く、実行力もあり、執権としては立派な人物と言わなければならない。その彼にしても、天下が治まらなくなったということの中に、現代史的な意味を認めざるをえない。それは大戦後の人間の心理である。

元寇を日本中の武士が国難として受け止め、それと戦うことを自己の当然の義務とした。したがって、20年近くもの間、守護地頭(しゅごじとう)をはじめ、武士たちは船を造ったり、刀を鍛えさせたり、矢の準備に金を惜しまず注ぎこんだ。所領を売ったり、質入れし、金を借りてまで準備した者も少なくなかった、そして命がけで戦い、一族の中に戦死者を出した者も少なくない。

ところがどうであろうか。戦争が終わってみると、繁栄しているのは、よく準備し、よく戦った者たちよりも、そういう者に金を貸したり、土地を買い取った者たちではないか。無理算段して準備して九州まで出かけて戦って帰ってきてみると、自分の家はおんぼろになり、妻子は飢えに苦しんでいる。それなのに、出兵しなかった近所の家は、手入れが行きとどいていて裕福であるのを見たら、誰でもむしゃくしゃするのではないだろうか。

この不平を持った鎌倉武士たちの考え方は、ある意味で正しいと言わなければならない。戦った人間より、戦わなかった人間のほうが得をするのはおかしい話だからである。

私がアメリカ中西部のミズリー州の大学で教えていたとき、夜間の大学院の学生に、昼は小学校の教師をやっている人がいた。元来は農家の若い者であり、自分の働いている農場以外のことは何一つ知らなかったのだけれども、戦争が起こったため一兵卒として沖縄に従軍し、その後、再び朝鮮戦争にも従軍して、はじめて広い世の中を見たという中年の人であった。私より10歳も年上であったろう。帰還後、GI奨学金で大学に入り、小学校の教員資格を取り、さらにもっとやりたいので、昼は教え、夜は大学院に来ているのだった。彼の上の娘はもう大学生であった。

この、中西部のアメリカ人らしい素朴なおっさんと私は気が合って、自動車の運転の練習がてら、よくドライブに出かけたが、時々、「ここだけの話だが」と言って年下の私に話すのである。それがどうも元寇のあとの御家人のような感じ方なのである。この前の大戦でアメリカは大いに繁栄したので、元寇のあとの日本とはまったく違うわけであるが、それでも、戦場に行っていた者よりは、行かなかった者が一般に得をしたという感情を持っているらしかった。

しかし、当時のアメリカの一般的風潮として、アメリカ人同士では、そんなことはなかなかいえないものらしく、東洋から来た私にだけ、何だか「こっそり」といった調子で、感想をもらすのであった。この彼の素朴な疑問は、もし日本で聞いたのだったら陳腐として印象にのこらなかったであろう。しかし、ミズリーの田舎をドライブしながらだったので、妙に考えさせられてしまったことを憶えている。

実際、そんなことは昔から誰にでもわかっていたはずである。戦場で死んだり、怪我したりする人は運が悪いので、みんながそんなことをしているときに、戦時投機はしないまでも、せっせと家業に精出した奴が、もうかるのに決まっている。それは誰にでもわかる明白なことだ。それなのに、なぜみんなが、こんなに戦争してきたのだろうか。
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