電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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人間が自分と他人を比較する性向を持つかぎり、比較は必ず羨望(せんぼう)の情を産んで身を苛(さいな)む。人は他者より何かの部分に秀(ひい)でていたとしても、同時に何かの面でほんの少しでも劣るであろう。その欠落要素だけがいつも意識に大映し(クローズアップ)される。寝ても醒(さ)めても忘れられない。人間にとってもっとも難しい舵(かじ)とりは、或(あ)る事をすっぱり諦(あきら)めてなお気持ちを平静に保つ意力である。
◆羨望(せんぼう)
『人間通』
( 谷沢永一、新潮社 (2002/05)、p48 )
人間は自分に与えられた分け前だけで満足することができない。他人がもうちょっと沢山を手にしているのを見たら焦(い)ら焦(い)らする。絶対量が満足するには足りないことを不平に思うのではなく、誰かと較(くら)べて自分の方が僅かに少ないと怒るのである。私はこれだけで十分ですと安穏に自足する度量の持ち主は絶対にいない。自分は不平屋ではないという顔つきをさらして、清貧の人格者であるという評判をとろうと計算する作戦家を時に見かけるだけである。人間が自分と他人を比較する性向を持つかぎり、比較は必ず羨望(せんぼう)の情を産んで身を苛(さいな)む。人は他者より何かの部分に秀(ひい)でていたとしても、同時に何かの面でほんの少しでも劣るであろう。その欠落要素だけがいつも意識に大映し(クローズアップ)される。寝ても醒(さ)めても忘れられない。人間にとってもっとも難しい舵(かじ)とりは、或(あ)る事をすっぱり諦(あきら)めてなお気持ちを平静に保つ意力である。
しかしまた羨望は一面において人を努力へと駆(か)りたてる。負けるものかと意気ごんで精をだす。結果として向上の弾力(バネ)となる。羨望は競争を主導(リード)する牽引(けんいん)力となる。むしろ羨望を媒介として人間関係がかたちづくられるであろう。人間同士がお互い完全に無関心となれば社会関係が成りたたない。文明は人間関係が緊密に組みあわされてこそ進行する。人間の本性は自己愛である。自己愛と自己愛が結びつくためにはなんらかの紐帯(ちゅうたい)が要る。その仲介項として機能するのは羨望しかない。羨望こそ人間が人間に関心を抱くために設けられている唯一(ゆいいつ)の水路であるのかもしれない。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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人間が自分と他人を比較する性向を持つかぎり、比較は必ず羨望(せんぼう)の情を産んで身を苛(さいな)む。人は他者より何かの部分に秀(ひい)でていたとしても、同時に何かの面でほんの少しでも劣るであろう。その欠落要素だけがいつも意識に大映し(クローズアップ)される。寝ても醒(さ)めても忘れられない。人間にとってもっとも難しい舵(かじ)とりは、或(あ)る事をすっぱり諦(あきら)めてなお気持ちを平静に保つ意力である。
◆羨望(せんぼう)
『人間通』
( 谷沢永一、新潮社 (2002/05)、p48 )
人間は自分に与えられた分け前だけで満足することができない。他人がもうちょっと沢山を手にしているのを見たら焦(い)ら焦(い)らする。絶対量が満足するには足りないことを不平に思うのではなく、誰かと較(くら)べて自分の方が僅かに少ないと怒るのである。私はこれだけで十分ですと安穏に自足する度量の持ち主は絶対にいない。自分は不平屋ではないという顔つきをさらして、清貧の人格者であるという評判をとろうと計算する作戦家を時に見かけるだけである。人間が自分と他人を比較する性向を持つかぎり、比較は必ず羨望(せんぼう)の情を産んで身を苛(さいな)む。人は他者より何かの部分に秀(ひい)でていたとしても、同時に何かの面でほんの少しでも劣るであろう。その欠落要素だけがいつも意識に大映し(クローズアップ)される。寝ても醒(さ)めても忘れられない。人間にとってもっとも難しい舵(かじ)とりは、或(あ)る事をすっぱり諦(あきら)めてなお気持ちを平静に保つ意力である。
しかしまた羨望は一面において人を努力へと駆(か)りたてる。負けるものかと意気ごんで精をだす。結果として向上の弾力(バネ)となる。羨望は競争を主導(リード)する牽引(けんいん)力となる。むしろ羨望を媒介として人間関係がかたちづくられるであろう。人間同士がお互い完全に無関心となれば社会関係が成りたたない。文明は人間関係が緊密に組みあわされてこそ進行する。人間の本性は自己愛である。自己愛と自己愛が結びつくためにはなんらかの紐帯(ちゅうたい)が要る。その仲介項として機能するのは羨望しかない。羨望こそ人間が人間に関心を抱くために設けられている唯一(ゆいいつ)の水路であるのかもしれない。