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電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

論語 《 有子曰く、其の人となりや孝悌にして 》

2024-02-15 | 03-自己・信念・努力
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◆有子(ゆうし)曰(いわ)く、其の人となりや孝悌(こうてい)にして


『現代語訳 論語』
( 宮崎市定、岩波書店 (2000/5/16)、p4 )
学而第一(1~16)

2  有子曰。其為人也孝弟。而好犯上者。鮮矣。不好犯上。而好作乱者。未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者。其為仁之本与。

(訓) 有子(ゆうし)曰(いわ)く、其の人となりや孝悌(こうてい)にして、上(かみ)を犯すを好む者は鮮(すくな)し。上を犯すを好まずして、乱を作(な)すを好む者は未だ之有らざるなり。君子は本(もと)を務む。本立ちて道生ず。孝悌なる者は、其れ仁(じん)の本たるか。

(新)有子曰く、その人柄が親思い、兄弟思いで、社会へ出ていつも目上の者に楯つくことは先ずあるまい。目上の者に楯つくことを好まない者が、君主に向かって軽々しく乱を起こすことは、決して考えられない。諸君は根本に向かって努力してほしい。根本が立てばそれから先は自然に進行するものだ。親思い、兄弟思いということが、人倫道徳の根本だと見てよかろう。

為仁之本の四字を、ここでは、仁の本たるか、と読んだが、これを仁を為すの本か、と読むべきだという説がある。仁とは最高の道徳であるから、更にその根本に孝悌という別物があってはならない、それは単に順序の上で仁を為す第一歩にすぎない、という考え方である。しかし仁之本というように三字を続けた用法は古典に多く見られるところであって、例えば墨子尚同下に、

  尚同為政之本而治(之)要也。
  尚同は政の本にして治の要たるなり。(治の下に之字を脱す。)

の如き使い方がある。

本は根本、また土台、基盤という意味がある。老子に、

  故貴以賤為本。
  故に貴は賤を以て本と為す。

のような用例があって、貴人の地位は大衆を土台としてその上に成立するものだという意味である。有子の考え方では、仁すなわちヒューマニズムは、孝悌という家庭道徳を基礎として成立つというのである。

原始儒教は実践の教であるから、この所を仁之本と読んでも、仁を為すの本と実際には大した変りはない。仁は実践して為すべき徳であって、為さない仁などはなかったはずである。だから問題はむしろ文章としてどちらの読み方が自然かを考えるのが我々の立場である。ところが中国では宋学の頃から、概念論が盛んになってきて、仁とか、孝とか、悌とか言うときに、何か霊魂のような存在が概念的に考えられて、みな独立して別々に自己を主張するかの如く思われた。そこで最高の徳である仁は最初から仁であって別のものでなく、これとカテゴリーを異にする孝がその根本だと言われると理解しにくくなったのである。その実、仁も孝も空な存在ではなく実際の行為の総名なのであって、仁の中の重要な部分を孝が占めてもおかしくない。ある場合には孝がそのまま仁でありうる。陽貨第十七455に宰我が親の喪を三年とするのは長すぎると言ったのに対し、孔子はこれを不孝と言わずに不仁と言っている。
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