電脳筆写『 心超臨界 』

真実はつねに刺激的 だから真実を語れ
真実のない人生では退屈である
( パール・バック )

最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしたのである――イエス・キリスト

2024-08-13 | 06-愛・家族・幸福
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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インドの国内では、毎日数知れない人たちが道端でなくなっているのに、そんなことをして一体何になるんですか、わずか数人を助けたとしても焼け石に水ではないですか、無駄ではありませんか、という批判は、その最たるものでした。相次ぐ批判や嘲笑(ちょうしょう)に打ちのめされそうになることもあったに違いありません。そういう時、マザー、そしてそれに繋(つな)がるたくさんの人たちはキリストのこの言葉に寄りすがるようにして自らを支え、目の前で苦しんでいる人のために精一杯の活動を続けていくのです。


◎人生を照らす言葉 連載(24)――文学博士・鈴木秀子
「致知」2010年11月号、p126 )

  わたしの兄弟、しかも
  最も小さな者の一人に
  したのは、わたしに
  したのである。
   ――マタイによる福音書

◆マザーテレサの原動力となった教え

『新約聖書』のマタイ伝に次のような譬(たと)え話があります。

人が亡くなって天国に招き入れられる時、キリストがそこにいる人たちに向かって話しを始めました。

「わたしの父(神様の意)に祝福された人たち。さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、わたしが飢(う)えているときに食べさせ、渇(かわ)いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢屋(ろうや)にいたときに訪ねてくれたからである」

それを聞いて不思議に感じた人がキリストに尋ねました。

「いつわたしたちは、あなたが飢えておられるのを見て食べさせ、渇いておられるのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅をしておられるのを見て宿を貸し、裸でおられるのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気であり、牢屋におられるのを見て、あなたを訪ねましたか」

と。

キリストに直接、食べ物を与えたことも、水を飲ませたことも記憶になかったからです。

キリストは答えました。

「あなたがたによく言っておく。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしたのである」

この言葉の意味するところは何でしょうか? なかなか掴(つか)みにくい言葉かもしれませんが、これは『聖書』の中核をなす、実に深い一文なのです。

親である神様から見たら私たち人間は皆、自分の命を分け与えた兄弟姉妹です。しかし、一口に兄弟姉妹といっても置かれた環境や境遇は様々です。肌の色も違えば、言葉も違います。栄華を極めた生活を楽しんでいる人もいれば、その日食べるものもなく飢えによって道端で死んでいく人もいます。

キリストが「最も小さな者」というのは、例えばそのように名もなくこの世を去っていく人たちのことです。「最も小さな者」たちを心から敬い、食事や飲み水を与えたとしたら、それはそのまま神やキリストに与えたのと同じだと言うのです。

そして、この言葉はマザー・テレサの精神そのものでもありました。マザーはカルカッタの修道院を拠点に、貧民街に住む人々の救済に生涯を捧げました。いまにも倒れそうな人の背中に手を当てて支え、水や食糧を与え、風呂に入れてタオルで拭(ふ)き、亡くなっていく人を力づけ優しく看(み)取りました。

その無償の愛に世界中が涙し、たくさんの人がマザーのもとを訪れました。このことは皆さんもよくご存じのことと思います。

しかし、誰もがマザーの活動を称賛したわけではありません。特に救済活動を始めた頃は、冷ややかな批判を浴びせる人たちもいました。

このインドの国内では、毎日数知れない人たちが道端でなくなっているのに、そんなことをして一体何になるんですか、わずか数人を助けたとしても焼け石に水ではないですか、無駄ではありませんか、という批判は、その最たるものでした。

相次ぐ批判や嘲笑(ちょうしょう)に打ちのめされそうになることもあったに違いありません。そういう時、マザー、そしてそれに繋(つな)がるたくさんの人たちはキリストのこの言葉に寄りすがるようにして自らを支え、目の前で苦しんでいる人のために精一杯の活動を続けていくのです。
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