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電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

戦後の歴史教育 《 神話と歴史叙述について 》

2023-06-26 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び、次世代へつなぎたいと願っています。
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約9000件の記事を収めたブログは今や私の「人生ノート」です。
現在その「人生ノート」を少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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口承されていた神話の記述化は、すでに神話的思考の克服の一里塚である。すなわち、現在の自分と直接つながるものとしての過去の出来事のできるだけ正確な再現ということではなくて、現在とどうかかわるかは定かではないが、かつて神々の世界としてそのような過去があると信じられていた、今の自分からみればすでに完全に異世界となった、遠い了解不可能な世界をはるか遠望するかのような意識において、ひとつの区切られた世界を知られているままに記述していく、そういう無私の叙述にみえてくる。


『国民の歴史 上』
( 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p171 )

6 神話と歴史

◆神話と歴史叙述について

神話の本質をあきらかにしようとする場合にわれわれがはっきり認識しておかねばならぬ前提は、神話の内容の今から見ての非常な不合理性、不条理性はけっしてそのような話を生み出した人々が合理的に思考する能力を欠いていたことを意味するものではないということだ。そもそも人間がそのなかで合理的な思考をいっさい行わなかった文化などというものは、人間が地球上に発生して以来ひとつとしてない。

かのヒトラー時代のドイツ人ですら、彼の演説を聴いて信じたのはその熱狂ではなく、時局に向けてそのつど彼が発し訴えかけてきた「道理」なのであった。吉田敦彦氏も言っていることだが、どんな時代にも人間は合理的思考能力に頼り、それによって解決できる問題はすべて合理的に解釈しながら生きてきた。神話は一つにはその形象化である。しかし神話の核心はさらにその先にある。どうしても合理的に解決することのできない問題が人間には残る。自分はどこから来て、どこへ行くのか? この実存的問いに合理的答えを与えることは誰にもできない。そして、誰にも与えることのできないこの答えになんらかの決着をつけているのが「神話」の根源にあるものなのである。

吉田氏は神話と科学の関係について次のように語っている。

  ある文化の神話の中では、神話による非合理的な説明がされている
  が、現代のわれわれには科学によって合理的に説明できるようにな
  っている問題というのは、私に言わせれば、どの文化のどの神話の
  中においても、神話が説明を与えている、問題の中のいわば枝葉末
  節に当たる部分であると言ってよいと思います。なぜなら、その本
  当に核心をなす部分は、人間が人間として地上に存在しているかぎ
  り、あらゆる時代――と言う意味は現代のわれわれにとってだけで
  なくて、われわれよりいっそう進んだ科学的知識と技術的能力を持
  つであろう将来の人類にとってもということですが――つまり人類
  の歴史の最後まで非合理で不条理であり続けるに違いない問題であ
  って、それに対して万人が納得いくような合理的な、1足す1は2
  というふうな割り切れた説明は絶対に与えることができないと思わ
  れるからです。例えば人間というのはいったいなぜこの世の中に生
  れてくるのか? (中略)こういったような問題を、現代のわれわ
  れも科学によって解決することはできないし、将来の人類も、かり
  に人間が人間をつくり出すようになったって、なお科学的に説明す
  ることはできない。
  【吉田敦彦他『神話学の知と現代』】

ここまでくると、神話は宗教や哲学の領域に属するのであって歴史の領分ではない、とあくまで歴史家たちは言い張るであろう。しかし神話の内容の示す、一見荒唐無稽な非合理な形象や物語は、それを記述した人々にとってどこまでも自分の今生きている世界からはすでに遠い、もはやすでにわからなくなりかけている異世界の、かつてそのようなものとして過去にあったと信じられた伝承を端的に文書化する行為だったという意味において、これはどこまでも歴史記述の一結果なのである。

『古事記』の序に「『帝紀(ていき)』及(およ)び本辭(ほんじ)、既に正實(せいじつ)に違ひ、多く虚僞(きょぎ)を加ふ」といへり。今の時に當(あ)たりて、其(そ)の失(あやまち)を改めずば、未だ幾年(いくとせ)をも經(へ)ずして其の旨(むね)滅(ほろ)びなむとす」とあるのを見ても、また『日本書紀』において、神代の記録に限って、「一書曰(ひとまきにいわく)」と幾つもの註記を並列して、さまざまな異説をできるだけ多く紹介しようとしているのをみても、神話的思考が自分の眼前から遠ざかりつつある時代の人の危機意識に発して、あえて文書化を志しているのだということがいえるように思える。

口承されていた神話の記述化は、すでに神話的思考の克服の一里塚である。

すなわち、現在の自分と直接つながるものとしての過去の出来事のできるだけ正確な再現ということではなくて、現在とどうかかわるかは定かではないが、かつて神々の世界としてそのような過去があると信じられていた、今の自分からみればすでに完全に異世界となった、遠い了解不可能な世界をはるか遠望するかのような意識において、ひとつの区切られた世界を知られているままに記述していく、そういう無私の叙述にみえてくる。恐らく叙述者は現代のわれわれと同じように神々の物語の非合理に気がついていたであろう。しかし合理的に説明しようなどという気はさらさらない。論証など思いも寄らない。いずれにせよ神々の世界はそのようなものとしてあったのだから、そのようなものとしてこれを了解するよりほかに仕方がない、という説明の放棄がすでに最初にある。

それは信仰というようなものとは少し違う。過去を語ることは小ざかしい現在の意識をいっさい捨てることだ、と言っているようにみえる。物語の矛盾や辻褄の合わない点に気がついていないのではない。異世界はどこまでも異世界なので、解釈などはしないと言っているだけである。解釈を後世に委ねている。正確な叙述だけ心がければよい。神話が優れて歴史叙述の問題である所以である。

かつてレヴィ=ストロースが、アメリカの革命とか、カナダの仏英戦争といった現代の事件について歴史家の説明が二つに分かれても、われわれはそれほどショックを受けない。同じように神話や伝説に矛盾や非合理があっても、われわれはでたらめな話と思ってはいけない。われわれの現代社会では神話に代わってむしろ歴史が神話の役割を果たしていると考えなくてはならないだろう、と言ったことがある(『神話と意味』)。

神話と歴史の境めが曖昧なのは古代史においてはもとよりだが、現代史においてもある意味では同様だ、と言っているのである。実際、つい昨日のことであった先の大戦のあらゆる現象が、もう今のわれわれ日本人には了解不可能な世界になってしまっている。神風特攻隊の行動を合理的に説明することなどもう誰にもできない。『古事記』の記述者が物語の非合理に気がつきながら、なんの価値解釈をも加えず、神々の世界はそのようなものとしてあったのだからそのように了解するよりほか仕方がない、と定めたことと、いったいどう違うというのであろう。

神話はわれわれの時代から少しも遠ざかってなどいない。むしろわれわれの時代の歴史意識が神話的形式に近づいているのではないかとさえ思えることがしばしばある。

しかしここのところが世の大半の歴史家、ことに古代史学者にまったくわかっていないのはじつにもって遺憾である。歴史と神話の間に非連続の一本のラインを引くことに得意になっている者さえ少なくない。

私は思うのだが、古代史学者は少なくとも言語学、神話学、宗教学、国語学、文芸学、人類学の素養を身につけた総合学者であることを必須条件として求められているといえはしないだろうか。歴史の方法だけで歴史は語れない。古文書に表現されていない、そこから食み出た、あるいはそこには伏せられていて表立っては見えない背後の闇が直観されていなくてはならない。それはどの時代を専門にする歴史家にも求められる要件だが、古代史においてはとくに切実な条件となる。

古代史に関して目に見える事実だけを追い求めて、いかにもわかったようなことを言う歴史家はみな嘘を言っていると思ったほうがいい。まして目に見える証拠だけで、目に見えない薄明の世界を安易に裁き、自らの知的立場の優越を誇示する物の言い方をする歴史家がいまだにじつに多いのだが、これはどうにも痴愚(ちぐ)に等しい人々だと私には思えてならない。

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