電脳筆写『 心超臨界 』

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( ジョン・ゲイ )

従軍慰安婦という嘘 《 新しい運動モデルの開発――藤岡信勝 》

2024-08-04 | 05-真相・背景・経緯
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それは日本国内の公害や薬害の犠牲者を原告とする訴訟のパターンの延長上にあるとも言えるが、国内の訴訟は少なくともある程度の実際の被害を受けた当事者が主体となっているのに対し、この運動モデルでは、日本帝国主義・軍国主義の「被害者」を地の果てまでも出かけて探し出し、何ら訴訟など考えもしなかった当事者に、原告になるよう依頼・説得し、訴訟を通じて「事実」をつくり出すという点にある。


◆新しい運動モデルの開発

「従軍慰安婦」で日本の名誉を売った二人の弁護士
 ――藤岡信勝・拓殖大学客員教授
『WiLL』2013年9月号、p202 )

日本を貶める慰安婦問題を、これほど拡大することに大きな「功績」のあったもう一人の弁護士の話に移りたい。

高木健一は1944年、中国・鞍山市生まれ。1970年、東大法学部卒業。1973年、弁護市を開業。サハリン残留朝鮮人問題、在韓被爆者問題、韓国・太平洋犠牲者問題など、アジアに対する戦後責任問題に取り組んだ。高木は現在も東京第二弁護士会所属弁護士として開業している。

慰安婦問題を使った反日運動で独創的な点は、相手国の「被害者」を探し出し、原告に仕立て上げて日本国家に対して訴訟を起こさせる、という運動モデルを開発したことである。

それは日本国内の公害や薬害の犠牲者を原告とする訴訟のパターンの延長上にあるとも言えるが、国内の訴訟は少なくともある程度の実際の被害を受けた当事者が主体となっているのに対し、この運動モデルでは、日本帝国主義・軍国主義の「被害者」を地の果てまでも出かけて探し出し、何ら訴訟など考えもしなかった当事者に、原告になるよう依頼・説得し、訴訟を通じて「事実」をつくり出すという点にある。

被害者がいて、それを支える運動がおこるのではなく、反日運動のため被害者を見つけ出して利用するというところに、この運動モデルの特異性があるのである。

高木の弁護士としてのキャリアのなかで、そのモデルをつくり出した最初のテーマは、サハリン残留朝鮮人の問題であった。この問題では、民主党政権で官房長官を務めた仙石由人も同僚であった。

面白いことに、のちに慰安婦強制連行の詐話師として勇名を馳せることになる吉田清治が、サハリン訴訟の証人として早くも登場している。高木がサハリン残留韓国・朝鮮人の帰還請求裁判を東京地裁に提起したのは、1975年だった。吉田の法廷証言は、1982年9月30日と11月30日の2回にわたって行なわれた。

吉田証言を高木は次のように紹介する。

《軍の命令のままに多くの朝鮮人労働者を朝鮮総督府の機関や警察官、村役場の職員の協力によって木刀で追い回しトラックに乗せたと、強制連行の実態を生々しく証言したのだった。そしてそれらの証言のなかで女性の連行もおこなったという証言が飛び出して、これが以下に引用する従軍慰安婦の強制連行の証言となったのである》(高木健一『従軍慰安婦と戦後補償 日本の戦後責任』三一書房、1992年、15頁)。

吉田清治の『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』は1983年の発行だから、この法廷証言当時は、著書を執筆している最中だったと思われる。高木前掲書には、法廷での高木と吉田の問答が速記録のような形で長々と収録されている。

「朝鮮半島から何人くらいの婦女子を徴用されたのでしょうか」という高木の質問に、吉田はもっともらしく、「全部で私が労務報国会動員部長中に九百五十人、これは間違いないと思うのは、私は非常にこれは深刻でございますし、当時の部下たちと数年前から時々山口県に行った時に会ってその話で大体皆の意見も九百五十人と言っておりました」と答えている。

詐話師の面目躍如である。というのは、秦郁彦は93年3月、吉田に電話で「裏付けをとりたいので旧部下の誰かを紹介してくれ」と依頼したところ「絶対に教えられない」と断わられた、と言っている。それで秦は済州島の調査に向かったのであった。また、上杉千年は吉田の講演会のあと、楽屋を訪ねて元の部下の紹介を依頼したところ、吉田は脱兎のごとく逃げ去ったと書いている(『検証「従軍慰安婦」』全貌社)。

秦と吉田の先の電話のやりとりのなかで、吉田が最後に「私を支持するNGOも多いので、近く国連に持ちこんで大問題にさせます」と話している。高木―吉田―国連―戸塚といった形で、水面下では早くから地下茎のごとく、人脈が繋がっていたらしいことが次第に見えてくる。
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