電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『安倍晋三総理の妄言』
■超拡散記事『ジャニーズ事務所等日本のタブーの芸能界や在日外国人の凶悪殺人事件を実名報道で斬り込むBBCへ情報提供』
■超拡散NEWSポストセブン記事『《壮観》三浦春馬さんの提灯が靖国神社「みたままつり」にズラリ並ぶ理由「毎年参拝」の意外な縁と今も続く「ファンの熱量」』
■超拡散記事『最高裁判事の「LGBT逆転判決」で反日極左の国家解体に加担』
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2・26事件の後は非合法なクーデターなど計画する必要もなく、特高のお世話になる事件に加担することもなかった。2・26事件の直後に成立した広田内閣は陸・海軍大臣の現役制を認めてくれたのだ。気にくわない政権を持つ内閣には「大臣を出さない」と軍が言えば組閣はできないのだから、何もクーデターの必要などはない。軍、特に陸軍は自分の言い分を出せばよかった。
『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p238 )
2章 世界史から見た「大東亜(だいとうあ)戦争」
――三つの外的条件が、日本の暴走を決定づけた
(2) 保護貿易主義と世界大戦との相関
◆「合法的クーデター」に成功した軍部
この三カ条の綱領にも見られるように戦前の右翼は、議会民主主義廃止、独裁制導入、資本主義廃止、企業国営化、社会主義化、ナショナリズム高揚などを唱(とな)えていた。これらの綱領に盛られた思想がかなり広い層の日本人、特に若い軍人に浸透した理由の一つは、泥沼の不況、特に農村の困窮である。
特に冷害を受けた東北の農村では、一家を救うために娘たちが売られたが、その代金は100円から300円ぐらいであった。山形県のある村では、「娘身売(みうり)の場合、当相談所へ御出下(おいでくだ)さい」という看板を堂々と掲(かか)げていたという例もある(安倍源基『昭和動乱の真相』原書房・昭和52年・79ページ)。
若い将校たちは職務上、貧農出身の兵士たちと毎日接触していた。そして直接に彼らの家族の困窮ぶりを知っていて、義憤の念を沸々(ふつふつ)とさせていた。その見通しのつかない不況が資本主義と政党政治から来ていると考えた点で、青年将校たちは事実上、マルクス主義者と同じだったわけである。あとはマルクシズムに天皇を乗せたような理論を提供してくれる人があればよかった。
昭和5年(1930)の統帥権干犯に端を発した浜口(雄幸(おさち))首相狙撃事件から昭和11年(1936)までの昭和史は、集団や個人によるテロの歴史である。3月事件、10月事件、桜田門事件、血盟団(けつめいだん)事件、5・15事件、神兵隊(しんぺいたい)事件、2・26事件と国の流れは大きく国家社会主義の方に流れてゆく。
そして2・26事件以後は、「こんなことでは、また2・26事件みたいなことが起こるぞ」と脅(おど)されるだけで、政治家はどんな立派な意見を持っていても、それを実行することは不可能になってしまっていた。特に2・26事件後は、陸海軍大臣の現役制が復活したから、もう政党政治の先は見えていた。
2・26事件の暴発はさすがにみんなの反感もあって、それを行なった陸軍の中の、いわゆる皇道派(荒木貞夫(あらきさだお)、真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)らが中心)は陸軍の中枢から遠ざけられたが、その代わりに陸軍を握った、いわゆる統制派(林銑十郎(はやしせんじゅうろう)、東条英機(とうじょうひでき)ら)はどうかと言えば、思想的には同じなのである。政党政治不信においても、自由主義経済不信においても、資本主義反対という点においても、皇道派と異なるところはない。ただ合法的に秩序正しくやる点が皇道派と違う点であった。
事実、2・26事件の後は非合法なクーデターなど計画する必要もなく、特高のお世話になる事件に加担することもなかった。2・26事件の直後に成立した広田内閣は陸・海軍大臣の現役制を認めてくれたのだ。気にくわない政権を持つ内閣には「大臣を出さない」と軍が言えば組閣はできないのだから、何もクーデターの必要などはない。軍、特に陸軍は自分の言い分を出せばよかった。広田(弘毅(こうき))内閣の組閣に当たって、陸軍大臣に予定されていた寺内寿一(てらうちひさいち)大将は、広田首相の組閣方針に次のような注文をつけている。
「此(こ)の未曽有(みぞう)の時局打開の重責に任ずべき新内閣は、
内外に亙(わた)り真に時弊(じへい)の根本的刷新(さっしん)、国防
充実等、積極的強力国策を遂行せんとするの気魄(きはく)と実行力
とを有することが絶対に必要であって、依然として自由主義的色彩
を帯び、現状維持又は消極政策に依(よ)り妥協退嬰(たいえい)を事
とするごときものであってはならない云々(うんぬん)」
(三宅雪嶺(みやけせつれい)『同時代史』第6巻352ページ)
ここで寺内大将は明らかに思想を問題している。その意向を受けて広田首相は、大臣に予定していた吉田茂(よしだしげる)(戦後の首相)、下村宏(しもむらひろし)、川崎卓吉(かわさきたくきち)、小原直(おばらなおし)、中島久万吉(なかじまくまきち)などを入閣させることを断念しなければならなかった。今や軍部は、合法的手段によって日本を右翼全体主義国家、あるいは国家社会主義国家に変えうることを自覚したのである。
2・26事件から約半年後の昭和11年(1936)8月、陸軍省は政治外交を担当する部門として、軍務局の中に新たに軍務課を作った。それまでは政治に関することは軍務局軍事課が事務の一部として担当していたにすぎなかったのであるが、この時期に独立の課を新設したことは、陸軍が本気で政治的発言をしてゆくという決意を具体的に示したものである。
中央官庁のエリート部局に新しい課が作られることの意味は、今日のような官僚機構が膨張した時代でも大きなインパクトのあることである。当時のように首相を含めて大臣が13人しかおらず、機構が小ぢんまりした時代には、今なら一つの局ができた以上の影響があったと考えてよいであろう。
明治15年(1882)以来、軍人の、いわば憲法として重んじられてきた「軍人勅諭(ちょくゆ)」の第1条にある「世論(せろん)に惑(まど)わず政治に拘(かかわ)らず只々(ただただ)一途(いちず)に己(おのれ)が本分(ほんぶん)の忠節を守り」という言葉も、完全に空文化したことが機構的にも明らかになった。この流れを誰が止めることができたであろうか。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『安倍晋三総理の妄言』
■超拡散記事『ジャニーズ事務所等日本のタブーの芸能界や在日外国人の凶悪殺人事件を実名報道で斬り込むBBCへ情報提供』
■超拡散NEWSポストセブン記事『《壮観》三浦春馬さんの提灯が靖国神社「みたままつり」にズラリ並ぶ理由「毎年参拝」の意外な縁と今も続く「ファンの熱量」』
■超拡散記事『最高裁判事の「LGBT逆転判決」で反日極左の国家解体に加担』
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2・26事件の後は非合法なクーデターなど計画する必要もなく、特高のお世話になる事件に加担することもなかった。2・26事件の直後に成立した広田内閣は陸・海軍大臣の現役制を認めてくれたのだ。気にくわない政権を持つ内閣には「大臣を出さない」と軍が言えば組閣はできないのだから、何もクーデターの必要などはない。軍、特に陸軍は自分の言い分を出せばよかった。
『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p238 )
2章 世界史から見た「大東亜(だいとうあ)戦争」
――三つの外的条件が、日本の暴走を決定づけた
(2) 保護貿易主義と世界大戦との相関
◆「合法的クーデター」に成功した軍部
この三カ条の綱領にも見られるように戦前の右翼は、議会民主主義廃止、独裁制導入、資本主義廃止、企業国営化、社会主義化、ナショナリズム高揚などを唱(とな)えていた。これらの綱領に盛られた思想がかなり広い層の日本人、特に若い軍人に浸透した理由の一つは、泥沼の不況、特に農村の困窮である。
特に冷害を受けた東北の農村では、一家を救うために娘たちが売られたが、その代金は100円から300円ぐらいであった。山形県のある村では、「娘身売(みうり)の場合、当相談所へ御出下(おいでくだ)さい」という看板を堂々と掲(かか)げていたという例もある(安倍源基『昭和動乱の真相』原書房・昭和52年・79ページ)。
若い将校たちは職務上、貧農出身の兵士たちと毎日接触していた。そして直接に彼らの家族の困窮ぶりを知っていて、義憤の念を沸々(ふつふつ)とさせていた。その見通しのつかない不況が資本主義と政党政治から来ていると考えた点で、青年将校たちは事実上、マルクス主義者と同じだったわけである。あとはマルクシズムに天皇を乗せたような理論を提供してくれる人があればよかった。
昭和5年(1930)の統帥権干犯に端を発した浜口(雄幸(おさち))首相狙撃事件から昭和11年(1936)までの昭和史は、集団や個人によるテロの歴史である。3月事件、10月事件、桜田門事件、血盟団(けつめいだん)事件、5・15事件、神兵隊(しんぺいたい)事件、2・26事件と国の流れは大きく国家社会主義の方に流れてゆく。
そして2・26事件以後は、「こんなことでは、また2・26事件みたいなことが起こるぞ」と脅(おど)されるだけで、政治家はどんな立派な意見を持っていても、それを実行することは不可能になってしまっていた。特に2・26事件後は、陸海軍大臣の現役制が復活したから、もう政党政治の先は見えていた。
2・26事件の暴発はさすがにみんなの反感もあって、それを行なった陸軍の中の、いわゆる皇道派(荒木貞夫(あらきさだお)、真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)らが中心)は陸軍の中枢から遠ざけられたが、その代わりに陸軍を握った、いわゆる統制派(林銑十郎(はやしせんじゅうろう)、東条英機(とうじょうひでき)ら)はどうかと言えば、思想的には同じなのである。政党政治不信においても、自由主義経済不信においても、資本主義反対という点においても、皇道派と異なるところはない。ただ合法的に秩序正しくやる点が皇道派と違う点であった。
事実、2・26事件の後は非合法なクーデターなど計画する必要もなく、特高のお世話になる事件に加担することもなかった。2・26事件の直後に成立した広田内閣は陸・海軍大臣の現役制を認めてくれたのだ。気にくわない政権を持つ内閣には「大臣を出さない」と軍が言えば組閣はできないのだから、何もクーデターの必要などはない。軍、特に陸軍は自分の言い分を出せばよかった。広田(弘毅(こうき))内閣の組閣に当たって、陸軍大臣に予定されていた寺内寿一(てらうちひさいち)大将は、広田首相の組閣方針に次のような注文をつけている。
「此(こ)の未曽有(みぞう)の時局打開の重責に任ずべき新内閣は、
内外に亙(わた)り真に時弊(じへい)の根本的刷新(さっしん)、国防
充実等、積極的強力国策を遂行せんとするの気魄(きはく)と実行力
とを有することが絶対に必要であって、依然として自由主義的色彩
を帯び、現状維持又は消極政策に依(よ)り妥協退嬰(たいえい)を事
とするごときものであってはならない云々(うんぬん)」
(三宅雪嶺(みやけせつれい)『同時代史』第6巻352ページ)
ここで寺内大将は明らかに思想を問題している。その意向を受けて広田首相は、大臣に予定していた吉田茂(よしだしげる)(戦後の首相)、下村宏(しもむらひろし)、川崎卓吉(かわさきたくきち)、小原直(おばらなおし)、中島久万吉(なかじまくまきち)などを入閣させることを断念しなければならなかった。今や軍部は、合法的手段によって日本を右翼全体主義国家、あるいは国家社会主義国家に変えうることを自覚したのである。
2・26事件から約半年後の昭和11年(1936)8月、陸軍省は政治外交を担当する部門として、軍務局の中に新たに軍務課を作った。それまでは政治に関することは軍務局軍事課が事務の一部として担当していたにすぎなかったのであるが、この時期に独立の課を新設したことは、陸軍が本気で政治的発言をしてゆくという決意を具体的に示したものである。
中央官庁のエリート部局に新しい課が作られることの意味は、今日のような官僚機構が膨張した時代でも大きなインパクトのあることである。当時のように首相を含めて大臣が13人しかおらず、機構が小ぢんまりした時代には、今なら一つの局ができた以上の影響があったと考えてよいであろう。
明治15年(1882)以来、軍人の、いわば憲法として重んじられてきた「軍人勅諭(ちょくゆ)」の第1条にある「世論(せろん)に惑(まど)わず政治に拘(かかわ)らず只々(ただただ)一途(いちず)に己(おのれ)が本分(ほんぶん)の忠節を守り」という言葉も、完全に空文化したことが機構的にも明らかになった。この流れを誰が止めることができたであろうか。