電脳筆写『 心超臨界 』

才能ある者はだれも射ることのできない的を射抜く
天才はだれにも見えない的を射抜く
( ショーペンハウアー )

般若心経 《 「八正道」――縁起の法に則った生き方/松原泰道 》

2024-08-04 | 03-自己・信念・努力
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仏教思想には、不合理に対する合理性とか、曲がっているのに対する真っ直ぐといった、相対的な意味での「正しさ」はありません。縁起の法、つまり原因と結果とは必ずかかわり合う、という法則を信じて、縁起の法を守り、縁起の法に従うのが正・善で、この法を無視し、この法に反(そむ)くのを邪・悪とします。つまり縁起の法が正邪の規準となるのです。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p255 )
7章 無明(むみょう)――人間の苦悩はどこから生じるか
(2) 四諦(したい)・八正道の智慧
無苦集滅道 無智亦無得
むくしゅうめつどう むちやくむとく

◆「八正道」――縁起の法に則った生き方

ところで、一体「正しい」とはどういうことでしょう。私たちはふだん“正義”だとか“正論”とかをよく口にします。しかし、あらためて「正しいとは何か?」と問いなおすと、わからなくなるのではないでしょうか。ただ常識的に〈道理にかなっている・曲がっていない〉のを、正しいと考えています。

仏教思想には、不合理に対する合理性とか、曲がっているのに対する真っ直ぐといった、相対的な意味での「正しさ」はありません。

縁起の法、つまり原因と結果とは必ずかかわり合う、という法則を信じて、縁起の法を守り、縁起の法に従うのが正・善で、この法を無視し、この法に反(そむ)くのを邪・悪とします。つまり縁起の法が正邪の規準となるのです。

(1) 【正見(しょうけん)】 いま述べた意味での正しい世界観や人生観など、すべてに正しい見解を持つことです。因縁の法則に従って、善いことをすれば善い結果が、悪事をはたらけば悪果が生じるという見解です。見(けん)は、ただ見るだけでなく〈知る・考える〉のニュアンスがあります。

(2) 【正思(しょうし)】 正思惟(しょうしゆい)の約で、「正しく思いを深め、考えめぐらすこと」です。次項の「正語(しょうご)」や「正業(しょうごう)」の基(もと)となるように、言動に先立って心を正しく調(ととの)え、思慮を深めることです。

(3) 【正語(しょうご)】 正しい思惟から、正しい語(言葉)が口をついて出る道理です。私は“ことばは、こころの足おと”と考えます。こころもことばも目に見えませんが、耳に聞こえることばを聞いていると、その人の足おとが、静かに、ときには荒々しく響いてくるのがわかります。

(4) 【正業(しょうごう)】 業(ごう)というと、とかくわたしたちは“業が深い・業つくばり”など悪い連想を起こしますが、それは誤りです。業は善悪を含めて、人間が身体と口と意(こころ)とで行うすべての「行為」のことで、善い行為を〈善業(ぜんごう)〉、悪い行為を〈悪業(あくごう)〉といいます。先の(2)の正思惟の思惟は、意(こころ)の行ないですから〈意業(いごう)〉に当たり、(3)の正語の語は、口の行ないですから〈口業(くごう)〉です。

ここでは、人間が身体でする行為、つまり〈身業(しんごう)〉のことです。正しい身体の行為が「正業」です。正見がもとになって正しく思い(正思惟)、正しく語る(正語)ことができるように、正しく身体を行動させることができるのです。たとえば、正しい身業は正しい労働で、正しくない身業が、殺しや盗みです。

(5) 【正命(しょうみょう)】 「正しい生活」です。前の身業によって正しい生活が保てます。また正見や正思惟によって、社会生活や家庭生活のあり方が調えられるでしょう。「正語」による、たとえば「挨拶」が正しく交されて、日常生活の秩序も保てます。正命は、私たちの衣食住のすべてにかかわり合います。

(6) 【正精進(しょうしょうじん)】 精進は「人間性の開発」に励むことです。職務なら勤勉とか努力ですが、自分の持つ人間性を少しでも高めようとの願いに精を出すのを、とくに精進といいます。

それは、もとより正見が因(もと)になり、正語・正業・正命が縁になって、これから学ぶ「正念(しょうねん)」や「正定(しょうじょう)」をめざす精進の心につながるでしょう。また精進の心は、それまでの正思惟・正語・正業・正命をさらに深め、実践しようとの意欲を起こさせるでしょう。このようにすべての事柄が、それぞれに因となり縁となり、さまざまにかかわり合って現象を創っていくのです。それが縁起の法(真理)で、この法とその事実を信ずるのが、仏教語の「正道」の意味です。

(7) 【正念(しょうねん)】 「念」は〈おもい〉ですが、(2)の正思惟と少し違います。念は「憶念(おくねん)(心に深く思い浮かべて、いつまでも忘れない)」のことで、「念仏念法」の行の淵源となります。仏の法(おしえ)や仏のすがたを、心に思い浮かべるのです。

たとえば、先の四諦のはじめに「人生は苦である(苦諦)」を学びましたが、この「苦である」という法(おしえ)を、いつも憶念し、それを心に止(とど)めて実践するように精進するのです。あるいは、心を集中して仏のすがたを心に思い浮かべて念ずることで、これを「観想の念仏」といいます。観想と憶念とは同じ意味で、観想の念を略して「観念」といいます。

世間では、観念というと「もうこれまででだめだ、と断念すること」と受け取りますが、正しくは目を閉じ心を静めて、真理や仏のすがたを思い浮かべる修行の一つです。観念は概念ではありません。正念は、憶念や観想の意です。世間では正念場というと“ここぞという最も大事な場面”をいうようですが、修行のうえでは「いつ・どこでも」が正念場です。

(8) 【正定(しょうじょう)】 定(じょう)は安定のことで、正定は精神統一のことです。正念になれば、心も自然に安定します。正念と正定とは、最も近いところで原因と結果との関係にあるのがよくわかります。正念は心に常に思い浮かべて忘れない憶念のことですが、正定は、思い浮かべたものに心を集中して維持するところから「さんまい(ざんまい、とも)」といいます。

以上が八正道ですが、八正道は正定で終りではなく、修行はさらに続けられるべきであるとの示唆が残されています。
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