電脳筆写『 心超臨界 』

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陰徳を積む――大原孫三郎

2024-06-24 | 08-経済・企業・リーダーシップ
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日経新聞「やさしい経済学」が日本の企業家を特集しています。今回の企業家は、大原美術館で知られる大原孫三郎。解説は、国際日本文化センター教授・猪木武徳さん。以下にダイジェストを記します。

関連ブログ:わしの人生は失敗の連続だった――大原孫三郎

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猪木武徳(いのき・たけのり)
45年生まれ。京都大卒。MIT博士。専門は労働経済・経済思想
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年表・大原孫三郎
1880 岡山県に生まれる
1897 東京専門学校(現早稲田大)に入る
1906 倉敷紡績社長
1909 倉敷電灯(現中国電力)設立
1914 大原奨農会農業研究所(現岡山大資源生物科学研究所)設立
1919 大原社会問題研究所(現法政大大原社会問題研究所)設立
1921 倉敷労働科学研究所(現労働科学研究所)設立
1923 倉紡中央病院(現倉敷中央病院)設立
1926 倉敷絹織(現クラレ)設立
1930 大原美術館開館
1939 倉敷紡績・倉敷絹織社長退任
1943 死去

[1] 社会事業への情熱 2005.12.15
大原孫三郎は異彩を放つ大実業家であった。彼は、岡山県の倉敷村で1888年に青年有志たちが父・大原孝四郎の財力と信用を基礎に起こした倉敷紡績所を、「十大紡」にまで成長させた企業家である。しかし彼は単なる企業家ではなく、社会・育英事業、学問・芸術のための文化事業に心血を注ぎ、近代日本の社会事業家としても、その名を残すことになる。

早くから岡山孤児院(のち石井記念愛染園を大阪に開設)の孤児救済事業を支援したが、大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所、倉紡中央病院、大原奨農会農業研究所、大原美術館などの施設を次々に創設している。その活動範囲の広さ、事業への信念の強さにおいて、大原は近代日本の企業家のなかでも抜きん出た存在であった。しかも20前後の若さで、すでに熱心に社会事業にかかわり始めている。

孫三郎は、自分を語ることに熱心ではなく、手紙と日記以外「書いたもの」をほとんど残していない。分析的・抽象的な言辞への関心よりも、判断と行動に直感とヒラメキを示す人間だったようだ。差し出された会計帳簿を見て直ちに誤りを指摘する、掛け軸を選んで掛けるとピタリと決まる、というように、なにか不思議な眼力と胆力を持っていたそうだ。

仕事に厳しかった孫三郎であったが、家庭では優しく、稚気あふれる悪戯とユーモアを好み、大胆さと慎重さを併せ持つ人だったという。


[2] 旧約聖書と甦り 2005.12.16
自分の生涯にもっとも影響を与えた書物として、孫三郎は『旧約聖書』と『報徳記』(二宮尊徳)を挙げている。

『旧約聖書』は、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなど西方の思想が生まれ出た源流である。人間に自意識、絶望と希望、「神」の発見、個性の卑小さ、人間の悪業と精神の病のすべてが記された『旧約聖書』から、大原が何を読み取ったのかはわからない。ただ『旧約聖書』に登場する胆力のある骨太な人物が、企業家・社会事業家としての大原の姿と重なることは確かだ。

孫三郎は、東京専門学校で学ぶべく1897年、16歳で上京する。しかし大都会東京はバビロンの如き退廃の都にすぎず、遊蕩(ゆうとう)を重ね多額の借金を作った挙句、郷里倉敷に連れ戻される。郷里での不安定な生活のなか偶然めぐり合ったのが、石井十次である。石井は、岡山孤児院を経営する熱烈なクリスチャンであった。倉敷の集会で石井の熱弁を聴いた孫三郎は、大改心を経験する。1902年元旦の日記に孫三郎は、「余は昨年甦(よみがえ)りてこの元旦を迎えることを得たるを感謝す」と記している。

『旧約聖書』に現れるのは、神との契約だけを守る多才な人間である。孫三郎にも多才で激しい面があったが、その才能を自己満足のために費消せず、「自分の才能を生かす才能」に恵まれていた。それは信頼できる人に徹底して任す、というやり方を生んだ。


[3] 起業メセナ 2005.12.19
「信頼できる人、一番良く知っている人に徹底して任す」という孫三郎のスタイルは、大原美術館の設立にも見て取れる。

大原美術館の西洋絵画は、孫三郎が最も信頼した友人、画家の児島虎次郎によって蒐集(しゅうしゅう)された。孫三郎は児島を奨学生として目にかけていたが、かねてからの児島の提案であった泰西(西洋)名画の蒐集に乗り出す。児島は1923年までに、二度にわたり欧州へ絵画蒐集の旅に出ている。一回目の旅でモネ、マティスだけでなく、ベナール、ラファエリ、スゴンザックなどを購入、二回目にも、欧州通貨の下落が幸いしてエル・グレコ、セガンティーニ、モロー、ゴーギャン、シャバンヌなどの名画を手に入れた。

児島は29年他界する。孫三郎がその死を悲しみつつ、翌30年、児島の蒐集した絵画と彼自身の作品を陳列する美術館として開設したのが大原美術館である。企業家個人の趣味による絵画の個人コレクションは、日本にも少なからず存在する。しかし大原美術館の場合、孫三郎の援助を受けた児島虎次郎という画家の鑑識眼を通ったコレクションであることが一つの特徴であろう。現代流に表現すれば、「企業メセナ」として大原美術館は誕生したのである。

満州事変(31年)の翌年、国際連盟は英国のリットンを団長とする調査団を中国と日本に送ってきた。そのなかの団員が開館2年目の大原美術館を訪れ、日本の片田舎の文化財を見て驚いたという話がある。


[4] 徹底精神と農業 2005.12.20
任せた人への信頼を最後まで貫き通すという姿勢は、孫三郎が創設した3つの研究機関の誕生・運営の場合にも同様に認められる。大原農業研究所と近藤万太郎、大原社会問題研究所と高野岩三郎、そして倉敷労働科学研究所と暉峻義等(てるおかぎとう)の場合も同じであった。

大原家は、農地約5百㌶超、小作人約2千5百名に及ぶ岡山屈指の大地主であった。孫三郎は幼少から、地主と小作人の関係には共存光栄という精神は微塵(みじん)も見られないことを知っていた。そうした事態を打開するため、1906年、彼は小作俵米の品評会、奨農会、農業教育の事業に打ち込み始める。小作料の金納制も強く主張した。

こうした農業振興事業は、大原奨学会の支援対象者で、現在の東京大農学部を卒業した近藤万太郎の共鳴するところとなり、10年、農事改良と自作農創生を目的とした大原家奨農会がつくられる。近藤の献言により、奨農会は大原家が拠出した田畑約2百㌶を財源とする財団法人となり、農業に関する学術的研究と農事改善のための研究施設に衣替えした。近藤を所長に「大原農業研究所」と名称をあらためたのは29年のことである。「農研」は、すぐに役に立つ実践的な農業知識よりも純学問的な方向へと次第に移っていくが、大原はそうした傾向に対して嘴(くちばし)を挟むことは全くなかった。

孫三郎の「徹底精神」は、農業研究の図書・雑誌・稀覯(きこう)本の収集にもうかがえる。第一次大戦後に買い求めた1万2千冊超に及ぶ欧州の植物学関係のコレクション、中国の明・清代の農書約5千冊などは、岡山大学「史料館」所蔵の文化財として今日も残っている。


[5] 労働問題と科学 2005. 12.21
第一次大戦後、パリ講和会議で決定された国際条約にもとづき、第一回の国際労働会議が同年秋ワシントンで開かれることになった。その会議に出席する政府代表や使用者代表、労働代表の適任者の推挙を各界に求めることになった。当時言論界でも活躍していた経済学者の福田徳三は「資本主義代表者としては鐘紡の武藤山治氏か、倉敷紡績の大原孫三郎氏か、此(この)二人を措(お)いて他に適任者なし」と断言し、長い推薦理由を書いている。孫三郎の労働問題理解への一般の信用は、すでにきわめて厚かった。

孫三郎は06年の社長就任の前から、従業員の労働条件、生活環境をよくすることに熱心で、工場内の請負制度(採用・配置などの外部委託)の廃止も急いだ。労働条件がよくなれば能率が上がる、労使の利益は相反するのではなく、一致する点があるはずだという考えを持っていた。その一致点を科学的に究明することが求められているのだと信じていたのである。

こうした信念から、大原社会問題研究所と、その労働衛生などの部門が発展独立した倉敷労働科学研究所は設立された。前所の所長には、社会統計学者で東京大教授だった高野岩三郎を招いた。大原社研は社会問題の調査研究活動で有名になるが、次第に、「左翼学者の巣窟(そうくつ)」と陰口を叩かれるようになる。しかし大原は高野に活動・運営をすべて任せ、口を挟むことはなかった。

「労研」も大原の信頼する労働科学の推進者、暉峻義等を所長に、機械論的な米国の「テーラー式管理法」の批判的研究をはじめ、社会衛生や労働の生理学、心理学の研究などで成果を残している。


[6] 成長と多角化 2005.12.22
工員の採用・配置の外部委託を廃止し、人事係の管理に移しただけでなく、子どもの工員に小学校教育を施すための学校、分散式寄宿舎の建設、会社直営の食堂・日用品販売所の設置など、孫三郎は従業員の福利厚生のために多くの改革を断行している。

こうした労働環境改善事業、あるいは前に述べた社会事業、文化事業は、本業の紡績業からの利益と土地資産からの収益によって、どのように支えられていたのだろうか。

まず本業の倉紡の経営状況はどうだったのか。各種資料によると、1888年に創業した同社は、全国36紡績中、資本設備は20位(91年)という規模にすぎなかった。しかし、97年には全国74社中13位にまで躍進。06年に社長に就任した孫三郎は、08年に吉備紡績を買収し、技術面でも規模の面でも倉紡に大きな進歩をもたらした(10年時点で全国39社中14位)。ちなみに、39年の孫三郎の社長退任時には、同社は全国6位の大企業にまで成長している。

他方、彼の事業経営は社長就任時から、すでに多角化の方向を目指していた。明治末期に倉敷電燈を設立、その後周辺の電力会社と合併したことなどで電力事業について多くを学び、産業における動力が蒸気から電気に早晩替わることを察知していた。自家発電所の設置、紡績工場の電化改修と、打つ手は早かった。

また、新聞業への進出も果たしている。倉紡の発展と孫三郎の精力的な活動が、多くのライバルと敵対者を生み出した。彼らは岡山県下の有力紙『山陽新報』で、ことあるごとに孫三郎批判を行なった。これに対抗する必要を痛感し、『中国民報』を大原家は傘下に収める(のちに合併で両紙は現『山陽新聞』に)。


[7] 不況時の対応 2005.12.23
大正初めに紡績工場に電力が本格導入され、倉敷紡績は技術面でさらなる飛躍を遂げ、第一次大戦時の好況期を迎える。新工場の設立と競争企業との合併を続け、その事業場は岡山から四国へと広がり、倉紡は西日本の紡績界を代表する大企業に成長する。

孫三郎は、紡績事業を継承した際、倉敷銀行の頭取職を引き継いだ。その後、彼の倉敷銀行を中心に中小銀行6行が合併し、1919年に第一合同銀行が誕生した。しかし、20年代に入ると、不況の暗雲は次第に広がり、27年の金融恐慌時には、孫三郎が取締役をしていた「綿業の機関銀行」の近江銀行が休業した。

倉敷絹織(現クラレ)が26年に設立されて孫三郎は化繊界でもその存在感を示し始めるが、金融恐慌以降の不況もあり、30年下期に倉紡は創設以来初の赤字を計上し、無配に転落する。

30年、第一合同銀行は山陽銀行と合流し、中国銀行となる。この新銀行誕生には、綿業の苦境と孫三郎の社会事業・文化事業への資金の流れが第一合同銀の経営を悪化させていた背景もあったと推測される。

30年には倉敷労働科学研究所の経営を倉紡から切り離し孫三郎の個人経営に移して研究存続が図られた。その後、財政問題などから大原社研を含め、東京に移転(改組したり独立を前提に)した。

ここで重要なのは、彼が私財を注ぎ込んで社会貢献事業を守ろうとしたことである。孫三郎は45年間で総計136件、ほぼ半数の判明分だけでも488万円を寄付・寄贈・助成に投入したとされ(大津寄勝典氏の最近の研究による)、これが「生きた浄財」として、日本に多くの文化的資産を残したのである。


[8] 高い理想と陰徳 2005.12.26
晩年狭心症を患った大原は1943年、永眠した。『合同新聞』(現・山陽新聞)はこれを惜しみ、死後数日間にわたり日本の政・財・官・学・文化など各界名士の哀悼談を掲載した。

大原の支援でドイツに留学した音楽学者・兼常清佐は「大原さんが世の中にいかに多くの知られない小仁をほどこしたか、そして大原さんにとっては小仁でも相手にとってはいかにそれが大仁となったか」と述べつつ哀悼の意を表している。

この「知られない小仁」という言葉は「陰徳」を重んじた大原の重要な一面を照らしている。大原奨学会の援助で学んだ学生の名簿作成を孫三郎が中止させたこと(青地晨氏が指摘)も同じ考えから出たことであろう。これは、己のなした善を自慢することほどの悪はない、というキリスト教道徳の影響であろうか。

矮小な道徳には拘泥せず、信頼すべき人間を見つけ、その人間に一度任せたら横から嘴を挟まないという姿勢、「契約を守る」ことへのこだわりや予知能力の強調(自分の眼は10年先が見えると告白した)は、前に述べた『旧約聖書』の影響とも考えられる。

大原孫三郎という人間の全体像を理解するには、大原家とそれを取り巻く人物群像全体を大河小説のごとく描くことによって、はじめて可能になるのかもしれない。
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