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電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

悪魔の思想 《 丸山眞男――判っているくせに、わざと判らぬふりをした“勇断”/谷沢永一 》

2025-02-26 | 04-歴史・文化・社会
20年に及ぶブログ活動の集大成 → ★仏様の指
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さすがに、多少は良心が咎めたのか「日本ファシズム」が「ファシズム・イデオロギー」を「もっていた」とまでは断言せぬよう心がけます。さらには「イデオロギーの要素」とまでも、はっきりと規定してませんね。日本の場合は「イデオロギーの要素というもの」を「もっていた」というわけです。「イデオロギー」そのものではない「イデオロギーの要素」、いや「イデオロギーの要素」ですらない「イデオロギーの要素というもの」なのだそうです。


『悪魔の思想』 「進歩的文化人」という名の国賊12人
( 谷沢永一、クレスト社 (1996/02)、p88 )
戦後民主主義の理論的指導者(リーダー)・丸山眞男(まるやままさお)への告発状
第4章 国民を冷酷に二分する差別意識の権化(ごんげ)

  丸山眞男
  大正3年生まれ。東京帝大卒。東大教授を経て、現・東大名誉教授。
  大衆をファシズムの担い手と断じる、「進歩的文化人」のリーダー。

  いわゆる戦後民主主義の理論的指導者(リーダー)として学界に絶大
  な威勢をふるった丸山眞男は、日本国民を「二つの類型」に峻別し
  ました。そして文化人や言論人(ジャーナリスト)や大学教授や東大
  生などは「本来のインテリ」であるが、独立自営業者など額(ひた
  い)に汗して働く国民の中堅層において、人びとを束(たば)ねる立
  場にある者は「疑似(ぎじ)インテリ」であり、この「亜(あ)インテ
  リ」こそ「日本におけるファシズム運動の担い手」であると弾劾し、
  「本来のインテリ」を全面的に免責しました。

4-2 判(わか)っているくせに、わざと判らぬふりをした“勇断”

それどころか、果たして日本の動向をファシズムと名づけてよいのかどうかが、いたってあやしくなってゆきます。

  ところが、日本のファシズムにおいてこのように農本イデオロギー
  が非常に優越しているということ――このことは他方においてファ
  シズムの現実的な側面としての軍需生産力の拡充、軍需工業を中心
  とする国民経済の編成がえという現実の要請とあきらかに矛盾する。
                            (51頁)

つまりはドイツやイタリアにおける「本来の意味でのファシズム」が「軍需工業」中心であったのに対し、「日本のファシズム」では「農本イデオロギーが非常に優越している」のだから、「日本のファシズム」には「本来の意味でのファシズム」とは矛盾する要素がある、という判断でありますから、この認定は現実に即して妥当であると申さねばなりません。

また次のように対照的な事例が見られます。

  ナチスにおいてはこの労働者を(中略)ナチズムの担い手にさせる
  ことに最も努力し、腐心したのであります。ところが日本のファシ
  ズムのイデオロギーにおいては、労働者は、終始小工業者や農民に
  比べて軽蔑されているのであります。
                            (54頁)

これこそ、両者を対比した場合に断じて無視できない決定的な差異ではないでしょうか。さらには、もっと劇的な比較も可能です。

  こういうふうにナチスでは大衆を組織化し、その組織のエネルギー
  によつて政治権力を奪取したのですが、日本の「下から」のファシ
  ズム運動はついに最後まで少数の志士の運動におわり、甚(はなは
  だ)しく観念的、空想的、無計画的であつたこと、これが日本のフ
  ァシズムの運動形態に見られる顕著な傾向であります。
                         (62頁~63頁)

つまり、日本のファシズムは「大衆を組織化」する方向をとらなかったのですから、彼我(ひが)のこの違いも断絶的です。こういうわけで、丸山眞男自身が率直に語っていますように、ナチス流の行き方が「本来の意味でのファシズム」であるとするなら、それとの本質的な差異があまりにもひどすぎるので、日本の場合は、そう簡単にファシズムだとは言えないことになります。ところが不思議千万にも、判っているくせにわざと判らないふりをして、突然の勇断に進みでます。

  それは日本ファシズム運動も世界に共通したファシズム・イデオロ
  ギーの要素というものは当然もつているからであります。
                            (40頁)

押し出しも立派にさてこそ「当然」と声高に揚言できる根拠がどこにあるのでしょうか。この「当然」は言葉に弾みをつけるための心細い気合いにすぎません。さすがに、多少は良心が咎めたのか「日本ファシズム」が「ファシズム・イデオロギー」を「もっていた」とまでは断言せぬよう心がけます。さらには「イデオロギーの要素」とまでも、はっきりと規定してませんね。

日本の場合は「イデオロギーの要素というもの」を「もっていた」というわけです。「イデオロギー」そのものではない「イデオロギーの要素」、いや「イデオロギーの要素」ですらない「イデオロギーの要素というもの」なのだそうです。

先代・三遊亭金馬(きんば)が得意だった古典落語「居酒屋」の悪戯(いたずら)ずきで皮肉な客なら、「その“というもの”ちゅうもん持って来い」と注文して、人のよい小僧を困らせることでしょうね。

身に安全なものは罵(ののし)り、危険なものには擦(す)り寄る卑屈 へつづく
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