20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散記事『十倉経団連の「選択的夫婦別姓」は戸籍廃止を目論む中国政府の意向』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
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シナの皇帝から「倭(やまと)」の国王に任ぜられたからといって、それが日本の皇室の先祖だったと考えなければならない必要はまったくない。それは昔のシナの習慣から、貿易を求めて来た外人に対しては、これを朝貢者と見なして、「国王」にしてやるということが手軽にあったからである。
『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p197 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
の遺(のこ)したもの
(2) 倭寇(わこう)――海外進出の基本的“行動様式”
◆朝貢(ちょうこう)者を「国王」に封ずる中華思想
邪馬台国(やまたいこく)ブームというのがあった、あるいはまだある。北九州説、大和(やまと)説、台湾説、さらにスマトラ説から海中沈没説まであるらしい。
その国の卑弥呼(ヒミコ)という女性支配者が、魏(ぎ)の都の洛陽(らくよう)に使者を送り、奴隷その他を献上し、その見返りとして、魏の明(めい)帝から「親魏倭王(しんぎわおう)」という称号と、金印その他が贈られた、という記事が『魏志倭人伝(ぎじわじんでん)』にある。
それでこの卑弥呼は誰か、という推測も盛んになされていて、天照大神(アマテラスオオミカミ)がそれであろうという説が相当有力であるらしい。
しかし、シナの皇帝から「倭(やまと)」の国王に任ぜられたからといって、それが日本の皇室の先祖だったと考えなければならない必要はまったくない。それは昔のシナの習慣から、貿易を求めて来た外人に対しては、これを朝貢者と見なして、「国王」にしてやるということが手軽にあったからである。
たとえば足利義満(あしかがよしみつ)が、その一例である。
義満が将軍になったのとちょうど同じ年の1368年に、朱元璋(しゅげんしょう)が元(げん)を亡(ほろ)ぼし明(みん)を建国した。明の太祖洪武(たいそこうぶ)帝がそれである。その後間もなく、筑紫(つくし)の豪商が、明と交易すると莫大な利益があることを説明したので、義満は応永(おうえい)8年(1401)に明に国交を求めた。そのときは黄金1000両を贈り、自分を「臣」と称した。
これによって両国の交流が開かれ、応永9年、明の恵(けい)帝から返書があり、その中で義満を「日本国王」と呼んでいるし、応永10年、明の永楽(えいらく)帝はその親書の中で、「爾(なんじ)日本国王源道義」という表現を使っている。そして印章や冠服も贈ってきたが、この印章には、卑弥呼の場合と同じく「日本王之印」とあったのである。
シナの皇帝が日本から朝貢した者に対して、「日本国王」という称号で呼びかけたことは、卑弥呼や義満の場合だけではなかった。
義満が明の太祖と交渉を開く少し前に、九州の豪族菊池武政(きくちたけまさ)は、南朝方の懐良(かねなが)親王を奉じていたのであるが、大陸と交易するについては、こっちが「国王」であるほうが万事につけて都合のよいことを知って、対外的には懐良親王を日本国王と称したのである。
つまり北朝側の義満も、南朝側の菊池方も、日本国王として大陸と交際したことになる。
明の太祖は、はじめ菊池方を本当に日本国王だと思って、倭寇(わこう)を抑(おさ)えてくれるように切(せつ)に頼んだ。もちろん菊池にその力はない。あまり効果がないので、明のほうでは菊池の擁(よう)する日本国王は偽物(にせもの)ではないかと疑うに至ったらしいのである。
それで禅僧などを通じて情報を集め、どうやら京都のほうが本物らしいと知って、義満にコンタクトを取ったというのが真相に近い。義満は倭寇を抑えるのにやや効果を示したので、明のほうでも信用した。
このように明のほうから見ては、日本の国情というのはさっぱりわからないのである。また東夷(とうい)(日本の蔑称(べっしょう))の国情など、正確に知りたいという欲求なども持っていなかったと思われる。だから交易を求めて来た者には「日本国王」を濫発(らんぱつ)することになっていたのである。
豊臣秀吉の朝鮮の役のときも、そうした具合であった。
文禄(ぶんろく)の役(えき)(1592年)の講和の使者が、明からやってきて、国書を呈出(ていしゅつ)したとき、その中に、「茲特封爾為日本国王(ここにとくになんじをほうじてにほんこくおうとなす)」とあったので秀吉は激怒した。
秀吉にしてみれば、天下を取ったのは自分の実力だと思っている。日本を征服しただけでは足りずに朝鮮に出兵したのであり、しかも戦術的に勝ち戦(いくさ)であった。秀吉としては、勝者として和議に臨(のぞ)んだつもりなのである。それなのに、向うのほうが高いところから秀吉を「日本国王ニ封ズ」などと言ってきたから、かっとしたのであった。日本と明との相互理解が不足であったことの一例である。
さらに面白いことは、このときの使者の沈惟敬(しんいけい)は、講和の話がうまくいかなかったことを隠すために、帰国の途中で珍しいものを自腹(じばら)で買って、これを明の皇帝に秀吉からの朝貢であると言って差し出し、秀吉は明帝に日本国王にしてもらったことを喜んでいると報告したのであった。
もっともこの話は、のちに慶長(けいちょう)の役(1597年)が起こったりしてバレるが、それにしても暢気(のんき)な話である。
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シナの皇帝から「倭(やまと)」の国王に任ぜられたからといって、それが日本の皇室の先祖だったと考えなければならない必要はまったくない。それは昔のシナの習慣から、貿易を求めて来た外人に対しては、これを朝貢者と見なして、「国王」にしてやるということが手軽にあったからである。
『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p197 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
の遺(のこ)したもの
(2) 倭寇(わこう)――海外進出の基本的“行動様式”
◆朝貢(ちょうこう)者を「国王」に封ずる中華思想
邪馬台国(やまたいこく)ブームというのがあった、あるいはまだある。北九州説、大和(やまと)説、台湾説、さらにスマトラ説から海中沈没説まであるらしい。
その国の卑弥呼(ヒミコ)という女性支配者が、魏(ぎ)の都の洛陽(らくよう)に使者を送り、奴隷その他を献上し、その見返りとして、魏の明(めい)帝から「親魏倭王(しんぎわおう)」という称号と、金印その他が贈られた、という記事が『魏志倭人伝(ぎじわじんでん)』にある。
それでこの卑弥呼は誰か、という推測も盛んになされていて、天照大神(アマテラスオオミカミ)がそれであろうという説が相当有力であるらしい。
しかし、シナの皇帝から「倭(やまと)」の国王に任ぜられたからといって、それが日本の皇室の先祖だったと考えなければならない必要はまったくない。それは昔のシナの習慣から、貿易を求めて来た外人に対しては、これを朝貢者と見なして、「国王」にしてやるということが手軽にあったからである。
たとえば足利義満(あしかがよしみつ)が、その一例である。
義満が将軍になったのとちょうど同じ年の1368年に、朱元璋(しゅげんしょう)が元(げん)を亡(ほろ)ぼし明(みん)を建国した。明の太祖洪武(たいそこうぶ)帝がそれである。その後間もなく、筑紫(つくし)の豪商が、明と交易すると莫大な利益があることを説明したので、義満は応永(おうえい)8年(1401)に明に国交を求めた。そのときは黄金1000両を贈り、自分を「臣」と称した。
これによって両国の交流が開かれ、応永9年、明の恵(けい)帝から返書があり、その中で義満を「日本国王」と呼んでいるし、応永10年、明の永楽(えいらく)帝はその親書の中で、「爾(なんじ)日本国王源道義」という表現を使っている。そして印章や冠服も贈ってきたが、この印章には、卑弥呼の場合と同じく「日本王之印」とあったのである。
シナの皇帝が日本から朝貢した者に対して、「日本国王」という称号で呼びかけたことは、卑弥呼や義満の場合だけではなかった。
義満が明の太祖と交渉を開く少し前に、九州の豪族菊池武政(きくちたけまさ)は、南朝方の懐良(かねなが)親王を奉じていたのであるが、大陸と交易するについては、こっちが「国王」であるほうが万事につけて都合のよいことを知って、対外的には懐良親王を日本国王と称したのである。
つまり北朝側の義満も、南朝側の菊池方も、日本国王として大陸と交際したことになる。
明の太祖は、はじめ菊池方を本当に日本国王だと思って、倭寇(わこう)を抑(おさ)えてくれるように切(せつ)に頼んだ。もちろん菊池にその力はない。あまり効果がないので、明のほうでは菊池の擁(よう)する日本国王は偽物(にせもの)ではないかと疑うに至ったらしいのである。
それで禅僧などを通じて情報を集め、どうやら京都のほうが本物らしいと知って、義満にコンタクトを取ったというのが真相に近い。義満は倭寇を抑えるのにやや効果を示したので、明のほうでも信用した。
このように明のほうから見ては、日本の国情というのはさっぱりわからないのである。また東夷(とうい)(日本の蔑称(べっしょう))の国情など、正確に知りたいという欲求なども持っていなかったと思われる。だから交易を求めて来た者には「日本国王」を濫発(らんぱつ)することになっていたのである。
豊臣秀吉の朝鮮の役のときも、そうした具合であった。
文禄(ぶんろく)の役(えき)(1592年)の講和の使者が、明からやってきて、国書を呈出(ていしゅつ)したとき、その中に、「茲特封爾為日本国王(ここにとくになんじをほうじてにほんこくおうとなす)」とあったので秀吉は激怒した。
秀吉にしてみれば、天下を取ったのは自分の実力だと思っている。日本を征服しただけでは足りずに朝鮮に出兵したのであり、しかも戦術的に勝ち戦(いくさ)であった。秀吉としては、勝者として和議に臨(のぞ)んだつもりなのである。それなのに、向うのほうが高いところから秀吉を「日本国王ニ封ズ」などと言ってきたから、かっとしたのであった。日本と明との相互理解が不足であったことの一例である。
さらに面白いことは、このときの使者の沈惟敬(しんいけい)は、講和の話がうまくいかなかったことを隠すために、帰国の途中で珍しいものを自腹(じばら)で買って、これを明の皇帝に秀吉からの朝貢であると言って差し出し、秀吉は明帝に日本国王にしてもらったことを喜んでいると報告したのであった。
もっともこの話は、のちに慶長(けいちょう)の役(1597年)が起こったりしてバレるが、それにしても暢気(のんき)な話である。