20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散記事『石平氏の虚偽発言「帰化人第1世はやっぱり(選挙に)出ない方が良い』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■超拡散記事『十倉経団連の「選択的夫婦別姓」は戸籍廃止を目論む中国政府の意向』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
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◆明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
『人生を創る言葉』
( 渡部昇一、致知出版社 (2005/2/3)、p66 )
[ 親鸞 ]
皇太后宮大進藤原(日野)有範の子として生まれる。青蓮院の慈円
について出家、比叡山にのぼる。のち法然の門に入り、浄土真宗の
開祖となる(1173~1262)
親鸞は皇太后宮大進藤原有範の子供で、幼名を松若麿といった。幼くして父母を失い、出家をしたいと願い出て、髪を切って得度をすることになった。
その得度式のときの話である。髪を切ろうとしていたのは師である慈円僧正だったが、剃刀を手にして、ちょっと躊躇していた。
その場には、伯父の若狭守範綱をはじめ、女人たちも家来たちも集まっていた。今日限りで出家するのだから最後の別れとなる。いたいけな可愛い坊やの姿を見ては、不覚の涙を流すという様であった。そいうわけで、剃刀を取って髪を切ろうとした慈円僧正も、しばし躊躇の色を漂わせていたのである。
するとある者がにじり出て、こういった。
「どうでしょうか。今日はあまりにも時間が遅くなりましたので、得度の式は明日にしてはと思いますが」
みんながそれに頷いた。せめてその姿を一刻なりとも遅くしたいという雰囲気があった。そのとき、風もないのに雪洞の灯(ひ)がゆらゆらと揺れ、座って手を合わせていた若君の唇がほのかに動き、清らかな歌が流れ出た。
「明日ありと思う心の仇桜(あだざくら) 夜半(やは)に嵐の吹かぬものかは」
それは天から聞こえた声のように思えて、みんな愕然として手を畳の上についた。慈円僧正はにっこりと笑うと、おもむろに立ち上がって若君の髪を切った。そのとき松若麿の唱える念仏の声が静かに部屋に満ち渡り、桜の花びらがひらひらと散りこぼれた。
「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」というのは、いろいろな場面で使える言葉である。たとえば、仕事や勉強を「明日やればいいや」と思ったときに、「いや、夜半に嵐が吹くかもしれない」と思って先延ばしにしないで片づけてしまう。そのタイミングを逃すと二度とうまくいかないということが、人生には幾度となくあるものである。
これは宗教の世界に入るという深刻な場合にだけいえるのではない。私の体験でいえばこういうことがあった。
私が留学した翌年、私の郷里の後輩二人にアメリカ留学の話が舞い込んだ。それは昭和56年の話で、まだまだ自費留学ができなかった時代である。そういう時代に留学をさせてもらえるのは非常にラッキーなことだが、条件が一つだけあった。奨学金はアメリカ側が出すけれど、旅費は本人が都合つけてほしいというのである。
この二人から相談を受けた私は「それは是非行きなさい」とすすめた。すると、彼らは「旅費を借りなければならないのですが、留学はそれに値するでしょうか」と聞いてきた。たとえ旅費を借りても、アメリカに行ってアルバイトすれば、当時はドルの価値が非常に高かったからすぐに返せる。私はそういったのだが、結局二人とも躊躇して、結局その話を断ってしまった。
その後、一人は大学院を出て教師になったが、問題を起こして教師を辞め、また別の大学に入り直し、再び教職についた。そして、もう一人の男は地方の高校の先生になった。
彼らは旅費があればアメリカに行きたいと思ったが、旅費を作るための苦労を厭(いと)った。しかし、そのチャンスを逃してしまったために、「夜半に嵐が吹いて」その後は行けない理由が次々と出てくるようになった。結婚をした。子供ができたといっているうちに、気がついてみると40を越えて、留学してもあまり意味のない年齢になってしまった。
これは親鸞の出家の問題のように深い話ではないけれど、人生においては、このようによく「夜半に嵐が吹く」ものである。
東大の林学博士にして大金持になった本多静六先生の話に、こういうものがある。
あるとき本多先生は、ある人から遺産相続の相談を受けた。兄弟がみんな集まっているところに行って話を聞いて、先生が「こうしたらどうか」と提案すると、一同納得して話がまとまった。そこで「じゃあ、明日、みんな判子(はんこ)を持ってきてくれ」といってその場は解散して翌日再び集まると、兄弟の配偶者たちから文句が次々に出て、一度まとまった話が壊れてしまった。
そのときの体験を本多博士はこう述べている。
「せめて拇印(ぼいん)でもいいから押させて、話がまとまったときに決めておくべきであった」
「また明日」といったら夜半に嵐が吹いて、せっかくの花が散ってしまったのである。
夜半にはよく嵐が吹く。そして、夜半の嵐は大変不利な結果をもたらすことが多い。注意しなくてはいけない。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散記事『十倉経団連の「選択的夫婦別姓」は戸籍廃止を目論む中国政府の意向』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
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◆明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
『人生を創る言葉』
( 渡部昇一、致知出版社 (2005/2/3)、p66 )
[ 親鸞 ]
皇太后宮大進藤原(日野)有範の子として生まれる。青蓮院の慈円
について出家、比叡山にのぼる。のち法然の門に入り、浄土真宗の
開祖となる(1173~1262)
親鸞は皇太后宮大進藤原有範の子供で、幼名を松若麿といった。幼くして父母を失い、出家をしたいと願い出て、髪を切って得度をすることになった。
その得度式のときの話である。髪を切ろうとしていたのは師である慈円僧正だったが、剃刀を手にして、ちょっと躊躇していた。
その場には、伯父の若狭守範綱をはじめ、女人たちも家来たちも集まっていた。今日限りで出家するのだから最後の別れとなる。いたいけな可愛い坊やの姿を見ては、不覚の涙を流すという様であった。そいうわけで、剃刀を取って髪を切ろうとした慈円僧正も、しばし躊躇の色を漂わせていたのである。
するとある者がにじり出て、こういった。
「どうでしょうか。今日はあまりにも時間が遅くなりましたので、得度の式は明日にしてはと思いますが」
みんながそれに頷いた。せめてその姿を一刻なりとも遅くしたいという雰囲気があった。そのとき、風もないのに雪洞の灯(ひ)がゆらゆらと揺れ、座って手を合わせていた若君の唇がほのかに動き、清らかな歌が流れ出た。
「明日ありと思う心の仇桜(あだざくら) 夜半(やは)に嵐の吹かぬものかは」
それは天から聞こえた声のように思えて、みんな愕然として手を畳の上についた。慈円僧正はにっこりと笑うと、おもむろに立ち上がって若君の髪を切った。そのとき松若麿の唱える念仏の声が静かに部屋に満ち渡り、桜の花びらがひらひらと散りこぼれた。
「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」というのは、いろいろな場面で使える言葉である。たとえば、仕事や勉強を「明日やればいいや」と思ったときに、「いや、夜半に嵐が吹くかもしれない」と思って先延ばしにしないで片づけてしまう。そのタイミングを逃すと二度とうまくいかないということが、人生には幾度となくあるものである。
これは宗教の世界に入るという深刻な場合にだけいえるのではない。私の体験でいえばこういうことがあった。
私が留学した翌年、私の郷里の後輩二人にアメリカ留学の話が舞い込んだ。それは昭和56年の話で、まだまだ自費留学ができなかった時代である。そういう時代に留学をさせてもらえるのは非常にラッキーなことだが、条件が一つだけあった。奨学金はアメリカ側が出すけれど、旅費は本人が都合つけてほしいというのである。
この二人から相談を受けた私は「それは是非行きなさい」とすすめた。すると、彼らは「旅費を借りなければならないのですが、留学はそれに値するでしょうか」と聞いてきた。たとえ旅費を借りても、アメリカに行ってアルバイトすれば、当時はドルの価値が非常に高かったからすぐに返せる。私はそういったのだが、結局二人とも躊躇して、結局その話を断ってしまった。
その後、一人は大学院を出て教師になったが、問題を起こして教師を辞め、また別の大学に入り直し、再び教職についた。そして、もう一人の男は地方の高校の先生になった。
彼らは旅費があればアメリカに行きたいと思ったが、旅費を作るための苦労を厭(いと)った。しかし、そのチャンスを逃してしまったために、「夜半に嵐が吹いて」その後は行けない理由が次々と出てくるようになった。結婚をした。子供ができたといっているうちに、気がついてみると40を越えて、留学してもあまり意味のない年齢になってしまった。
これは親鸞の出家の問題のように深い話ではないけれど、人生においては、このようによく「夜半に嵐が吹く」ものである。
東大の林学博士にして大金持になった本多静六先生の話に、こういうものがある。
あるとき本多先生は、ある人から遺産相続の相談を受けた。兄弟がみんな集まっているところに行って話を聞いて、先生が「こうしたらどうか」と提案すると、一同納得して話がまとまった。そこで「じゃあ、明日、みんな判子(はんこ)を持ってきてくれ」といってその場は解散して翌日再び集まると、兄弟の配偶者たちから文句が次々に出て、一度まとまった話が壊れてしまった。
そのときの体験を本多博士はこう述べている。
「せめて拇印(ぼいん)でもいいから押させて、話がまとまったときに決めておくべきであった」
「また明日」といったら夜半に嵐が吹いて、せっかくの花が散ってしまったのである。
夜半にはよく嵐が吹く。そして、夜半の嵐は大変不利な結果をもたらすことが多い。注意しなくてはいけない。