電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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人間の言語というものは、複雑な内容を持って、それが単純明晰な表現にならなければいかん。徹底して言うならば、片言隻句に表現される――そういう言葉・文句ほど尊いのです。だからえらくできた人の言葉は単純です。だらだらと、お前一体何を言おうとするんだというような、つべこべ言う人間は、できておらん。
『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p145 )
[3] 座右銘選話
1 行動の原理
◆簡明が蔵する無限の味わい
これから、古人の名作であるいろいろの座右銘を味読しましょう。まず後漢の崔子玉の作です。
元来世間の人々は、長編論文なんていうものによって人生を渡るものではない。大抵は片言隻句、即ちごく短い、しかし無限の味わいのある真理・教えによって、生きる力を得るのであって、論理的知識を駆使して長々と書き記された論文・論説などは、専門家の知識・技術の研究には役に立つけれども、人生の案内にはならない。人生の幾山川を渡る力にはならない。
凡て実在するものの本然の姿は何かというと、非常に複雑な内容を持ったものが、極めて単純な形を取る。例えばここに一個の果物がある。この果物は極めて簡単な一つの姿形である。しかしその成分となると、計り知れぬ複雑なものである。私はレモンが好きで、よく食べる。ある時レモンというものはどういう成分のものかと思って、専門家に教えてもらったら、70幾種類もあるのに驚いた。実際はどれほどあるか分からんという。ところが、これを分析抽出してしまったら役に立たぬ。それが渾然一体となって、極めて単純な姿になっている。そこに微妙な果物の存在がある。
人間そのものだって、これを分析して、人間は何からできておるかということになれば、限りなく複雑なものだ。すべて生というもの、生きる姿、生きる力というものは、極めて複雑なものが単純な形を取って存在している。
言葉でもそうです。人間の言語というものは、複雑な内容を持って、それが単純明晰な表現にならなければいかん。徹底して言うならば、片言隻句に表現される――そういう言葉・文句ほど尊いのです。だからえらくできた人の言葉は単純です。だらだらと、お前一体何を言おうとするんだというような、つべこべ言う人間は、できておらん。できるに従ってあまりつべこべ言わん。単純明白に表現する。それでは原稿料にならんから、2~3枚で済むものを百枚の長編などにする。あれは実に迷惑とも言える。マスコミなんていうものが発達すると、人間の思想が混乱するわけです。だから古来本当に人を動かしてきた言語・文章などは、共通して単純明白な形を取っておる。銘とか箴とか、詩偈(げ)(詩の形を取った悟り・教えの言葉)がその例である。仏心宗という禅は、この無限的直感的単純性を尊ぶ。従って禅僧は偈を愛する。論説といったようなものはあまり好まない。儒家でも道家でも、従って箴とか銘が発達しておる。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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人間の言語というものは、複雑な内容を持って、それが単純明晰な表現にならなければいかん。徹底して言うならば、片言隻句に表現される――そういう言葉・文句ほど尊いのです。だからえらくできた人の言葉は単純です。だらだらと、お前一体何を言おうとするんだというような、つべこべ言う人間は、できておらん。
『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p145 )
[3] 座右銘選話
1 行動の原理
◆簡明が蔵する無限の味わい
これから、古人の名作であるいろいろの座右銘を味読しましょう。まず後漢の崔子玉の作です。
元来世間の人々は、長編論文なんていうものによって人生を渡るものではない。大抵は片言隻句、即ちごく短い、しかし無限の味わいのある真理・教えによって、生きる力を得るのであって、論理的知識を駆使して長々と書き記された論文・論説などは、専門家の知識・技術の研究には役に立つけれども、人生の案内にはならない。人生の幾山川を渡る力にはならない。
凡て実在するものの本然の姿は何かというと、非常に複雑な内容を持ったものが、極めて単純な形を取る。例えばここに一個の果物がある。この果物は極めて簡単な一つの姿形である。しかしその成分となると、計り知れぬ複雑なものである。私はレモンが好きで、よく食べる。ある時レモンというものはどういう成分のものかと思って、専門家に教えてもらったら、70幾種類もあるのに驚いた。実際はどれほどあるか分からんという。ところが、これを分析抽出してしまったら役に立たぬ。それが渾然一体となって、極めて単純な姿になっている。そこに微妙な果物の存在がある。
人間そのものだって、これを分析して、人間は何からできておるかということになれば、限りなく複雑なものだ。すべて生というもの、生きる姿、生きる力というものは、極めて複雑なものが単純な形を取って存在している。
言葉でもそうです。人間の言語というものは、複雑な内容を持って、それが単純明晰な表現にならなければいかん。徹底して言うならば、片言隻句に表現される――そういう言葉・文句ほど尊いのです。だからえらくできた人の言葉は単純です。だらだらと、お前一体何を言おうとするんだというような、つべこべ言う人間は、できておらん。できるに従ってあまりつべこべ言わん。単純明白に表現する。それでは原稿料にならんから、2~3枚で済むものを百枚の長編などにする。あれは実に迷惑とも言える。マスコミなんていうものが発達すると、人間の思想が混乱するわけです。だから古来本当に人を動かしてきた言語・文章などは、共通して単純明白な形を取っておる。銘とか箴とか、詩偈(げ)(詩の形を取った悟り・教えの言葉)がその例である。仏心宗という禅は、この無限的直感的単純性を尊ぶ。従って禅僧は偈を愛する。論説といったようなものはあまり好まない。儒家でも道家でも、従って箴とか銘が発達しておる。