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電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

極楽は西方のみかは東にも北道さがせ南にあり…… 一休禅師

2025-03-15 | 03-自己・信念・努力
20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
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幸福とは、他から与えられるものではなく、自ら発見してつかみ取っていくものです。与えられるのを待っているのではなく、マイナスの中にプラスを発見し、耕していくところに人生の生きがいはあります。両手の掌に鋤(すき)や鍬(くわ)を持って一所懸命に耕していくことによって掌の中に明珠がつくられていくのです。幸福は足下にあり。このことを忘れず、日々の生活の中から幸福を見出し、豊かな人生を築いていきたいものです。


[巻頭の言葉]
明珠在掌(明珠掌に在り)――松原泰道・南無の会会長
「致知」2009年8月号、p2 )

◆幸せは我が内にある

すべてのものには、そのものをそのものたらしめる根源的な機能(はたらき)があります。一枚のちり紙も例外ではなく、ものを拭(ふ)くという機能を備えています。携帯電話がいくら便利でも、ものを吹く機能はありません。すべてのものにはそれぞれ固有の機能があり、この機能を象徴的に明珠(みょうじゅ)、仏性(ぶっしょう)などといいます。

「明珠在掌(明珠 掌(たなごころ)に在(あ)り)」という禅語は、その大切な象徴が手のひら、至近の距離の中にあることを説いています。

弘法大師空海は『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』の冒頭で次のように記しています。

「それ仏法遥(はる)かにあらず。心中にして即(すなわ)ち近し、真如外(ほか)にあらず。身を捨てて何(いずれ)かに求めん」

真理は自分の外にあるものではない。自分の一番身近なところ、内にあるものであり、それを外に求める必要はない。

ところが、近くにあるためかえって人は迷います。私など、メガネをかけていることを忘れて、「メガネがない」と探し回る愚行を演じたことがあります。

『青い鳥』という童話をご存知でしょう。幸せの青い鳥を求めて旅に出たチルチルとミチルが、旅の末に幸せは身近なところにあることに気づく物語です。

一休禅師の狂歌も同じことを説いています。

「極楽は西方(さいほう)のみかは東にも北道(きたみち=来た路)さがせ南(みなみ=皆身)にあり」

浄土宗では西方浄土というが、極楽は西のほうにだけあるものではなく、東にもあるし、北にも南にもどこにでもある。

北道(きたみち)を「来た路」と掛け、自分がこれまで歩んできた路を振り返ればこれから行き着く先ははっきりしてくること。また南を「皆身」に掛け、極楽はつまるところここにもある。各々の心の内にあることを説いています。

道元禅師も次のように詠んでいます。

「極楽は眉毛(まゆげ)の上のつるしものあまり近さに見つけざりけり」

解説は不要でしょう。次の漢詩も有名です。

「尽日(じんじつ)春を尋ねて西また東
 茫鞋(ぼうあい)あまねし朧頭(ろうとう)の雲、
 帰り来つて梅花を拈(ねん)ずれば、
 春は枝頭にあつて既に十分」

春が来たと聞き、その兆しを求めて草履(ぞうり)が擦(す)り切れるまで探し回ったけれども、どこにも見当たらない。疲れ切って家に帰ってくると、庭の梅の木が花を咲かせてよい香りがしており、春はこんなにも身近なところにあったことに気がついた。

幸福を求めて遠くまで出かけていくことの愚かさを、優美な詩歌の中で象徴的に詠んでいます。私たちは、肝心の「いま、ここ」を捨て、どこかよそに幸せを求めていきがちですが、それは決して幸福を得る道ではないのです。

◆心を耕し、柔らかくする

釈尊がある農村で説法をしていました。そこは仏教に敵対意識を持つバラモン教の盛んな村で、一人の農民が釈尊を冷やかして言いました。

「ご出家よ、布教も結構だけれども、いまこの農村は、ご覧の通り猫の手も借りたいほどの農繁期だ。そんな説法などやめて、田んぼを耕してくれたほうが皆助かるんだ」

釈尊は答えて言いました。

「私も耕しています。あなた方の心を、私も耕しているのです」

怪訝(けげん)な顔をする農民に釈尊は続けました。

「農土を放っておくと荒れ地になる。雑草もそのままにしておけば害を為しますが、抜いて土に埋めておけば立派な肥料になります。同じように、私たちも心を野放しにしておくと人間を駄目にしてしまいますが、煩悩(ぼんのう)をよく耕して心に漬け込んでいくと、悟りの肥やしになるのです」

悩みや苦しみもよく耕せば、それが幸福のもとになり得ます。

例えば、病気で苦しんでいる時にはこんな不幸はないと考えがちですが、あえて同じ病気に苦しむ患者さんを見舞って、治療の経緯を語るなら、相手の方から喜ばれ、病気になったおかげで自分自身も健康な時には味わえなかった喜びを得られるでしょう。これはあらゆる逆境にも当てはまります。その人の心一つでこの不況の中にも幸福を見出すことはできるものです。

幸福とは、他から与えられるものではなく、自ら発見してつかみ取っていくものです。与えられるのを待っているのではなく、マイナスの中にプラスを発見し、耕していくところに人生の生きがいはあります。両手の掌に鋤(すき)や鍬(くわ)を持って一所懸命に耕していくことによって掌の中に明珠がつくられていくのです。

幸福は足下にあり。このことを忘れず、日々の生活の中から幸福を見出し、豊かな人生を築いていきたいものです。
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