電脳筆写『 心超臨界 』

見事になされた仕事への報酬は
すでにそれを達成したことにある
( エマーソン )

どうせ自身の身に合ったことしか、自分の身につかぬものだ――森毅さん

2012-01-31 | 05-真相・背景・経緯
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『考えすぎないほうがうまくいく』http://tinyurl.com/75q6esm
【 森毅、三笠書房 (1998/02)、p90 】

《 何を読むか、どう読むか――ぼくの方法 》

もともと本の虫だったが、このごろ書評をやってる関係で、やたらと本を読むようになってしまった。月に五十冊ぐらい、ほとんど中毒である。

どうしてそんなに読めるのかと訊かれることがあるが、こうなるともう、三度の飯のようなもので、ただなんとなく、日常に本があるというだけのことだ。BGMのようなもの、バックグランドリーディングと称している。頭のなかを本がなんとなく流れている。

頭のなかというのは、情報の消化管のようなもので、そのときの体調によって、必要なことを吸収して、それが頭の栄養になる。無理にためこもうとしたのでは便秘する。どんどん食べてどんどん忘れればよろしい。ぼくはそれを、快食快便読書術と称している。

本を読むのにくたびれる人は、著者に義理だてして、できるだけ本の内容をとりこもうとする。ぼくは自分でも本を書きすぎたせいで、そんなに著者に義理だてする気はない。

それに、長年の経験でわかったことだが、どうせ自身の身に合ったことしか、自分の身につかぬものだ。頭の消化管を通しているうち、自然に身についてくるものしか、本当は役にたたぬ。音楽を聞いているときだって、同じようなものだろう。

そのかわり、なにを読んだかはすぐ忘れる。同じ本をまた買ってしまうこともあるが、それも便秘しないためにしかたがない。若いころは、内容はともかく、なにを読んだかを自慢したくて、本の名ばかり憶えたりもしたが、あれはつまらない。女に手も出さないくせに、ホステスさんの名刺を集めていばってるみたいだ。べつに、たくさん本を読んだなんて、自慢したってしかたがない。頭を活性化させさえすればよいのだから。

流行には関心があるから、ベストセラーのたぐいも覗(のぞ)いたりしないでもないが、みんなが読んでる本なら、ことさらに読む必要もなかろう。

べつに天(あま)の邪鬼(じゃく)を気どるわけではない。読んでる人がたくさんいて、いろいろと話してくれるので、自分で読まなくてもすむことが多いのだ。他人がせっかく本を読んでいるのだから、その他人を利用しない手はない。聞いてちょっと偉いそうだなと、自分で読むこともあるが、他人の話ですみそうなことも多い。その間に、相手の読んでない本を読んで、情報交換するほうが合理的だ。こんなにたくさん情報があったのでは、ひとりで処理するのでは間に合わぬ。

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