植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

サクサク三国志:朱然

2011年04月03日 09時14分05秒 | ゲームシステム
所属:孫策→孫権
年齢:18歳(200年の時)

 孫権のクラスメイトにして、呂蒙の本当の後継者です。朱然は母の弟、つまり叔父が朱治で、朱治に子が居なかったので朱治の養子となります。その後、孫権と年齢が同じだったこともあり、机を並べて学びます。その後、孫権が当主の座に就くと、朱然は県を治めそして郡を治めるようになります。呉での登竜門と言うべき、山越の反乱も見事に平定して、その能力を発揮します。
 その後、呂蒙に従い関羽討伐戦に参加し、別働隊を率いて関羽を生け捕りにすると言う大功をあげています。その力量を呂蒙にかわれ、呂蒙の後継者に指名されます。実際、呂蒙が抑えていた荊州の重要拠点である江陵の守備を任されるようになります。しかし、孫権は計略や内政にも通じる陸遜の方を荊州全体を総括する後継者と考え、劉備が攻めてきた夷陵の戦いでは陸遜に総指揮権を与えます。朱然は陸遜の元、別働隊を率いて撤退する劉備軍の退路を断つなどの功績を挙げます。
 その後、魏の動向が気になり、陸遜と共に劉備の追撃は行わず、将兵を説得して対魏に備えると、その通りに魏が三方面からの侵攻を開始してきます。この戦いでは江陵にて曹真・夏侯尚・張コウ軍と戦います。張コウの奮戦により味方の孫盛が破れ、江陵は包囲され孤立無援となります。また城内で疫病も発生した為、実際に戦える兵は5000人になってしまいます。しかし、朱然は兵を励まし、敵の隙を付いては奇襲を行い、敵の陣地を2つ落とすなど戦果をあげます。そうしている内に魏軍においても疫病が発生した為、魏軍は撤退し、朱然は江陵を守りぬきます。
 226年には孫権が曹丕の死に乗じて石陽に出兵しますが文聘に阻まれて戦果をあげることなく撤退となります。その際、撤退に乱れをみせた為に魏の追撃を受け、しんがりの潘璋が持ちこたえられなくなると、朱然はすかさず援軍に駆けつけ、魏軍を蹴散らすと悠々と撤退出来たといいます。
 その後も朱然は長生きしたこともあり、ベテランとして数々の戦いに参加し呉を支え続けます。
 
 その能力は、統率3・武力3ぐらいが適切な感じもしたのですが、意外にも多くの戦いをこなしており、そのいずれにも戦果をあげているので、戦争に強いということで統率4・武力2と寄らせました。統率4・武力3は評価しすぎだと思ったのと、演義では趙雲に一刀両断されていると言うイメージもあります。
 政治・知力はほどほどで特にあげる要因も無かったので2・2です。
コメント
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