植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

サクサク三国志:郭図

2011年03月07日 21時52分06秒 | ゲームシステム
所属:袁紹→袁譚
年齢:約45歳(200年の時)

 豫州潁川郡の出身袁紹と同郷です。早くから袁紹に仕えた古参の軍師で、袁紹が渤海に移ると共に同行し韓馥に冀州を譲らせる使者の1人となっています。また、献帝を迎え入れることを進言します(迎え入れに反対した説もあり)が、これは実現しませんでした。
 その後、曹操との対決方法をめぐって郭図は短期決戦を主張し、長期決戦を主張する沮授や田豊と激しく争い、自らの主張を通すだけでなく、当時大幅な権限を持っていた沮授の監軍の地位を自らも含む3人に分割させることに成功します。豫州時代から袁紹と苦楽を共にした郭図にとって、活躍目覚しい為に優遇されていた沮授や田豊が妬ましかったのかもしれません。
 さらに官渡の戦いでは沮授が軍権を放棄し、郭図が沮授の軍も率いることになった為、官渡の戦いでの発言権は大きかったものと思われます。しかし、その采配は思わしくなく、初戦の白馬で顔良を失い、さらに文醜も失うと戦線は膠着します。その最中、許攸が寝返ったことで袁紹軍の食糧庫がある烏巣が曹操に狙われると、その隙に曹操本陣への奇襲を提案します。これには張コウが救援を優先すべきと反対しますが、結局袁紹は烏巣の救援と、曹操本陣への奇襲の両方を行うと言う中途半端な戦略を取ってしまいます。
 これによって烏巣は陥落し、曹操本陣への奇襲も失敗すると言う最悪の結果となります。この失態の責任が自身のせいになることを恐れた郭図は張コウを讒言して、張コウが袁紹の元に戻れなくしてしまいます。
 袁紹の病死後、後継者争いでは辛評と共に長男の袁譚を支持しますが、郭図が権力を握ること(この時点で袁紹内では恐らく筆頭格だった)を恐れた審配と逢紀が袁尚を担ぎ出した為、袁紹軍は後継者争いに陥ります。以後、郭図は袁譚の参謀として、袁譚をそそのかし袁尚への先制攻撃を仕掛けさせたり、不利になると曹操への降伏を進言したりと、状況を最悪な方向に持って行ってしまいます。最後は、曹操に攻められ袁譚と共に南皮で果てます。
 自らの保身と権力拡大に執着し、袁紹軍を実質崩壊に導いた郭図は、同時代の者からも辛辣に評されており、劉表が王粲に書かせた袁譚と袁尚の和解を勧める手紙には災渦を起こした張本人とされ、また袁譚配下の王脩にも侫臣とされています。
 
 その能力ですが、官渡の戦いで軍を指揮する立場だったことから統率は2、武力は袁譚の時など一緒に同行していることから、少なくとも馬に乗って戦場に出ていたのではないかの想像で2、政治は一応は豫州でも有能な人物との評価があるので3、知力は他のゲームでは軍師としてそこそこ高い評価が付いているのですが、さすがにこれほどダメな献策が多いと3かなと思います。4を付けると、役立つキャラになるので。
 いっそもっとダメダメさを出してオール2と言うのもあり?
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サクサク三国志:沮授

2011年03月06日 09時44分47秒 | ゲームシステム
所属:韓馥→袁紹
年齢:約44歳(200年の時)

 若いときから権謀策術に優れた人物と名高く、最初は冀州の韓馥の元で別駕(州内第2位)の地位にありました。しかし、沮授が制止するのも聞かず韓馥は袁紹に冀州牧の地位を譲ってしまいます。これによって沮授は袁紹に召されることになるのですが、この際に沮授は袁紹に冀州の豊富な兵力を使って、黄巾賊が跋扈する青州を制圧して、翻ってこちらも確固たる群雄が居ない并州を併呑し、その上で北の公孫サンと対決し最終的には幽州にも勢力を伸ばし、華北一帯を支配すると言う壮大なプランをぶち上げます。これに袁紹は大喜びしたそうで、沮授に監軍と言う軍や内政の一切を任せると言う破格の権限を与えます。
 これによって199年までの間に袁紹は沮授のプランどおりに華北四州を支配下に置き一大勢力を築きます。沮授のプランではこの上で、献帝を招き天下に号令する立場になる予定でしたが、献帝を迎え入れることは郭図・審配が反対した為実現せず、結果曹操が迎え入れ天下に号令する立場になりました。
 その後、袁紹が曹操との対決を強めると、早期決戦を諌め、豊かな華北の生産高を活かして、長期戦を行うことで戦わずして勝つ方法を献策しますが、これも袁紹が郭図の進言により、短期決戦を決めてしまいます。さらに郭図は沮授が持つ監軍の地位は権力が大きすぎると進言しにた為、その地位は沮授・郭図・淳干瓊に3分割されてしまいます。

 官渡の戦いでは敗戦による死を覚悟して、一族に財産を分け与えてから戦いに望みます。最初の白馬の戦いで顔良が起用されると、沮授は顔良は勇猛だが偏狭なので単独での使用を諌めますが聞き入れられず、結局顔良は荀攸の策に嵌って討ち取られてしまいます。これに対して更なる失態を続ける袁紹に講義する為、沮授は病気と称して軍権の辞退を申します。これに怒った袁紹は沮授から軍権を取り上げて、郭図に与えてしまいます。
 その後も沮授は曹操の食料不足を指摘して長期戦を訴えたり、淳干瓊が守る烏巣の増援など的確な進言をしますがそのすべてが受け入れられず、結果 袁紹は敗退し、沮授は捕虜となってしまいます。曹操は沮授と知り合いだったこともあり、またその能力を高く評価していたため、幕下に加わることを進めますが、あくまでも沮授は拒否し脱走まで図った為、曹操は惜しみつつも処刑しました。
 
 沮授は、呉の魯粛に似ています。その知力は主に先を見据えた戦略眼にあり、陣営の進むべく方向性を示します。こういったキャラは一番能力を決めるのが難しいです。すこし惜しまれるのですが政治・知力が4、武力は1として、監軍にもなっていますし、実際に軍隊も持っていますので統率も3と万能キャラにしてみました。
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サクサク三国志:郭援

2011年03月05日 19時44分04秒 | ゲームシステム
所属:袁尚
年齢:約30歳(200年の時)

 袁紹配下での記述は無く袁尚の猛将として登場します。202年曹操が袁家の家督争いに漬け込んで攻めてくると、袁尚は曹操の後方霍乱として匈奴に平陽で反乱を起こさせます。この反乱を鎮圧すべく、洛陽を治めていた曹操の協力者の鐘ヨウが鎮圧に動きます。
 これに対して袁尚は配下の郭援と、并州の高幹を救援に向かわせます。ちなみに郭援は鐘ヨウの甥です。郭援の勢いは凄まじく付近の県を次々降伏させ、鐘ヨウの部下も撤退を勧めるほどです。しかし、鐘ヨウはあきらめず、郭援側に付いていた馬騰を寝返らせることに成功します。馬騰は息子の馬超に軍を任せ郭援を攻撃させます。渡河の途中に攻撃を受けた郭援軍は分断されますが、それでも郭援は奮戦し、馬超は足に傷を負うほどです。しかし、最後は馬騰配下のホウ徳に討ち取られてしまいます。
 ホウ徳が郭援の首を持ち帰ると、甥の死に鐘ヨウは涙を流しますが、ホウ徳が謝ると鐘ヨウは「我が甥とはいえ国賊です。あなたが謝る必要はありません」と答えたと言います。

 そこそこの活躍をしていますので、統率・武力は3・4で問題ないかと思います。さすがに4・3よりはイメージが近いかと…。政治は袁尚に河東太守に任じられていますが、河東は司隷ですので袁尚の支配域ではないので、実際に統治はしていないでしょうから1、知力は賈逵を捕えた際、その名声を惜しんで部下にしようとしますが、あくまで従わない賈逵を武器で脅し、挙句には怒りに任せて殺そうとするなど器量の狭いエピソードが残っているので1としました。
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サクサク三国志:袁譚

2011年03月01日 20時39分46秒 | ゲームシステム
所属:袁紹→袁尚→曹操
年齢:約27歳(200年の時)

 袁紹の団子三兄弟の長兄です。生まれは父と同じ、豫州の汝南で父が冀州で旗揚げするとそれに従います。さらに父が青州を取ると、青州刺史として統治する為に赴きます。当時の青州は黄巾賊の残党が跋扈しており、治安が著しく悪く、さらに別駕(州内第二位の地位)の者が、王修と言った有能な政治家を起用するのを邪魔していたこともあり、当初はあまり統治が上手くいきませんでした。しかし、なんとか王修を別駕に起用することが出来、以後は州内の治安は回復に向かいます。

 そして官渡の戦いが起きます。袁譚も兵を率いて参戦しますが、戦いは敗北。父は冀州に戻り、袁譚は青州(平原)に戻ります。その2年後に父が病死すると、当然袁譚が跡を継ぐものと思いますが、冀州では異母弟の三男 袁尚が逢紀・審配に推され勝手に父の基盤を受け継ぎでしまいます。これに抗議する間もなく、この混乱を見透かしたように曹操が攻め込んで来ます。袁譚は袁尚に援軍を要請しますが、袁尚は袁譚に兵力を与えるのを恐れ、僅か5000の兵を与えるだけでした。その為、袁譚は曹操に攻め込まれます。しかし、曹操も深追いをせず郭嘉の進言に従って兄弟が争うのを待ちます。袁譚は郭図の進言に従ってまんまと、袁尚と争いだしてしまいます。しかし、多くの兵力を抱える袁尚に負け、さらに追撃を受けピンチに陥ります。そこで再び郭図の進言に従って曹操に降伏します。これを受けて曹操は袁尚と戦い蹴散らします。この隙を突いて袁譚は近隣の都市を勝手に制圧し、袁尚の残党を糾合します。これを盟約違反として曹操は今度は袁譚を攻撃。これに耐えられず敗戦し切り殺される最後を遂げます。

 袁譚の能力はどこか1つぐらい3にしようと思って一番マシな統率を3としました。ので、3/2/2/1です。知力はあまりにも郭図に振り回されすぎです。

 続いて、ここでついでに袁尚の評価もします。まずマークは袁譚と違って△△。統率は対曹操戦は見るも無残に負け続けていますので2、武力は演義で史渙を斬っていることと、袁譚よりも武勇に秀でていたとされていることから3、政治は一応袁紹の後継者として最低の2、知力は高幹と連携し、洛陽を攻めさせるなど(失敗しますが)の計略を自ら練って実行したことから3としました。
 △△の3/2/2/3としました。

 袁煕は、幽州の治安は袁尚に組するまでは問題なかったことから政治のみ3として、マークは△△の2/2/3/2としました。
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