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「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
リリース!
「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。
今だけの特典あり!
是非こちらをご覧下さい。
********************************************
<今後のワークショップ予定>
「色で暮らしを彩る講座」
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中! 参加費:¥15000(税込)
※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
・色からのメッセージ
・色の性質
・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!
STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000
STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/18(水) 10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/16(月・祝)10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金) 10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで
********************************************
昨日は、友人がくれた「長いお別れ」という認知症を扱った小説を読んで、介護は本当に大変だなぁ、と改めて感じたことについて書きました。
介護の大変さはどれだけ事前にわかったとて、
「ではどうすればいいの?」
「どういう準備をしておけばいいの?」
と言っても、別に誰もが健康なうちにやっておけることなどなく、結局はそういう立場になってから1つ1つその場でぶちあたっていくことに対応していくしかないんでしょうけれども、それでも知っておくのと知らないのとではその「覚悟」というものが違うだろうと信じて。
さて、そんなわけで今日も引き続き「長いお別れ」を読んで感じた、今日は「覚悟」の持ち方について、です。
お話では、最後のほうに主人公の認知症の昇平が大腿骨骨折をしてしまうシーンがあります。
その治療方針を家族に説明するとき、医者は、
「なにもしないほうがいいと思います」
と言うのです。
「え? 折れてるんですよね? 何もしないって・・? 手術はできないんですか?」
と家族が訊ねます。
すると医者は、
「手術はできます。それも難しくもない手術です。しかし、認知症の患者さんの場合、そのあとが問題なのです。
通常は、手術後3日目からもうリハビリを開始していただきます。
そしてかなり痛いのも我慢しながら頑張ってもらわなくてはいけないリハビリがそれから3週間は続きます。
このリハビリが問題なのです。
認知症の患者さんにはその必要性がわからない。
だから自分のイヤなこと、痛いことをやらせようとする我々が敵に見えてしまいます。
ひょんなことでまだ動かしてはいけない方向に足を動かしてしまうこともあります。それでかえってひどくなってしまわれる患者さんも多いのです。
まぁ・・ そんなことなどがありまして、認知症の患者さんに骨折の手術をしてそのあと良い結果になった事例のほうが少ないのです。
ここはご本人のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)だけを考えると、しないほうがかえってよろしいのではないか、と思っております。
つきましては、今後ですが、胃ろうが必要になってくるかもしれません。それから~~~~」
と医者は寝たきりになった場合に必要になるこれからの処置について説明していくのでした。
家族は気持ちがついていけないまま、医者の説明を遠くのこだまを聞いているかのようにぼーっと聞きます。
結果として昇平はこれがもとで、かどうかさえ判別がつきませんが、ほどなく亡くなってしまうので、家族にしてみれば、
「あのとき、医者はああいったけれど、手術をしておけばよかった・・」
などの後悔を残すことはありませんでしたが。
でもこれ、私は自分の身内だったらさぞや歯がゆい思いをしたろうなぁ、と思うシーンでした。
骨折はしてしまったけれども、それ自体は命にかかわるような大変なものではない。
手術で簡単にくっつけることができるものだ。
しかし、認知症だとそのあとのリハビリにリスクが伴うから、ならばいっそ手術自体ももうしないほうがよい、と言われてしまうことに家族は簡単に、
「ですよねぇ」
と覚悟を決められるものかなぁ、と思いました。
そんな理不尽な、という鐘が頭のなかでずっと鳴り響いているような気がする・・
それからこんなシーンもありました。
昇平は認知症になってからディサービスに通っていました。
それ自体は多くの男性がそれさえも嫌がることがあるのとは逆に嬉々として出かけて行っていたのでまったく問題はありませんでした。
しかし、あるとき妻の曜子も網膜剥離で2週間の入院を余儀なくされることになってしまいました。
娘たちが駆けつけるけれども、娘たちもそれぞれ妊娠中だったり、仕事にそこまでの期間、穴をあけられなかったりで2週間はカバーできない。
介護ヘルパーの人に相談しました。
するとテキパキと動いてくれたヘルパーさんはこう言います。
「いつものディサービスがショートステイもやっているので、そこで明日から1週間はお預かりすることが特例としてできます。しかしその後の1週間はもう別の人の予約が入っているので入所できません。あとの1週間は家庭でみていただく、ということになります。
別のところも探しました。そこは2週間まるまるお預かりすることができます。しかしお値段がちょっと高いです。2週間で13万円が必要となります。それにこれまでの昇平さんの行動グセなどを知っている職員が誰もいないわけですから私としては1週間であっても、今の介護施設に入所されることをおススメします。
で、その場合であっても、なるべく早いご決断が必要です。
遅れれば遅れるほど、ほかの救急の方の要請がすぐに入ってしまう可能性がありますので」
と一気にまくしたてられても、家族はその場ですぐには決断ができず、煮詰まってしまった頭を整理する時間ぐらいくれ、とばかりに
「ちょ、ちょっと待ってください」
と言うしかありません。
このように1人、家族に介護しなくちゃいけない人や、一刻一刻様子が変わるかもしれない病人がいると、一瞬の判断が要求される場面というのが往々としてあります。
2年前に父が末期の胃がんで亡くなったときも、いろんな決断、いろんな覚悟を場面に応じて要求され続けました。
ただでさえ疲弊している身体と頭で、正常な決断や覚悟ができるのだろうか、と思うのだけれども、そういうときこそギリギリの決断や覚悟を迫られる。
あれは辛かったですねぇ。
あのときを思い出してしまいました。
そしてあのときには、このお話でも感じたように「理不尽さ」を1番に感じていましたが、考えようによっちゃ、「理不尽でないこと」のほうが人生、少ないのかもしれないな、と思ったりもしました。
これまでもし、自分が「理不尽でないこと」の連続のなかで生きてきたとしたら、それはかなりラッキーなことだったのだ、と喜んでおけ、しかし、たいていは理不尽なことをひっくるめての、それこそが人生だ、という気がしました。
第一、自分自身がこれからどんな人生の最期を迎えるか知ったことではありません。
そのとき、「この私に対する扱いは理不尽だ」などと思うより、「これもそれも含めて筋書き通りの私の人生なんだなぁ」と思えていたほうがいいから。
「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
リリース!
「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。
今だけの特典あり!
是非こちらをご覧下さい。
********************************************
<今後のワークショップ予定>
「色で暮らしを彩る講座」
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中! 参加費:¥15000(税込)
※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
・色からのメッセージ
・色の性質
・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!
STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000
STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/18(水) 10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/16(月・祝)10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金) 10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで
********************************************
昨日は、友人がくれた「長いお別れ」という認知症を扱った小説を読んで、介護は本当に大変だなぁ、と改めて感じたことについて書きました。
介護の大変さはどれだけ事前にわかったとて、
「ではどうすればいいの?」
「どういう準備をしておけばいいの?」
と言っても、別に誰もが健康なうちにやっておけることなどなく、結局はそういう立場になってから1つ1つその場でぶちあたっていくことに対応していくしかないんでしょうけれども、それでも知っておくのと知らないのとではその「覚悟」というものが違うだろうと信じて。
さて、そんなわけで今日も引き続き「長いお別れ」を読んで感じた、今日は「覚悟」の持ち方について、です。
お話では、最後のほうに主人公の認知症の昇平が大腿骨骨折をしてしまうシーンがあります。
その治療方針を家族に説明するとき、医者は、
「なにもしないほうがいいと思います」
と言うのです。
「え? 折れてるんですよね? 何もしないって・・? 手術はできないんですか?」
と家族が訊ねます。
すると医者は、
「手術はできます。それも難しくもない手術です。しかし、認知症の患者さんの場合、そのあとが問題なのです。
通常は、手術後3日目からもうリハビリを開始していただきます。
そしてかなり痛いのも我慢しながら頑張ってもらわなくてはいけないリハビリがそれから3週間は続きます。
このリハビリが問題なのです。
認知症の患者さんにはその必要性がわからない。
だから自分のイヤなこと、痛いことをやらせようとする我々が敵に見えてしまいます。
ひょんなことでまだ動かしてはいけない方向に足を動かしてしまうこともあります。それでかえってひどくなってしまわれる患者さんも多いのです。
まぁ・・ そんなことなどがありまして、認知症の患者さんに骨折の手術をしてそのあと良い結果になった事例のほうが少ないのです。
ここはご本人のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)だけを考えると、しないほうがかえってよろしいのではないか、と思っております。
つきましては、今後ですが、胃ろうが必要になってくるかもしれません。それから~~~~」
と医者は寝たきりになった場合に必要になるこれからの処置について説明していくのでした。
家族は気持ちがついていけないまま、医者の説明を遠くのこだまを聞いているかのようにぼーっと聞きます。
結果として昇平はこれがもとで、かどうかさえ判別がつきませんが、ほどなく亡くなってしまうので、家族にしてみれば、
「あのとき、医者はああいったけれど、手術をしておけばよかった・・」
などの後悔を残すことはありませんでしたが。
でもこれ、私は自分の身内だったらさぞや歯がゆい思いをしたろうなぁ、と思うシーンでした。
骨折はしてしまったけれども、それ自体は命にかかわるような大変なものではない。
手術で簡単にくっつけることができるものだ。
しかし、認知症だとそのあとのリハビリにリスクが伴うから、ならばいっそ手術自体ももうしないほうがよい、と言われてしまうことに家族は簡単に、
「ですよねぇ」
と覚悟を決められるものかなぁ、と思いました。
そんな理不尽な、という鐘が頭のなかでずっと鳴り響いているような気がする・・
それからこんなシーンもありました。
昇平は認知症になってからディサービスに通っていました。
それ自体は多くの男性がそれさえも嫌がることがあるのとは逆に嬉々として出かけて行っていたのでまったく問題はありませんでした。
しかし、あるとき妻の曜子も網膜剥離で2週間の入院を余儀なくされることになってしまいました。
娘たちが駆けつけるけれども、娘たちもそれぞれ妊娠中だったり、仕事にそこまでの期間、穴をあけられなかったりで2週間はカバーできない。
介護ヘルパーの人に相談しました。
するとテキパキと動いてくれたヘルパーさんはこう言います。
「いつものディサービスがショートステイもやっているので、そこで明日から1週間はお預かりすることが特例としてできます。しかしその後の1週間はもう別の人の予約が入っているので入所できません。あとの1週間は家庭でみていただく、ということになります。
別のところも探しました。そこは2週間まるまるお預かりすることができます。しかしお値段がちょっと高いです。2週間で13万円が必要となります。それにこれまでの昇平さんの行動グセなどを知っている職員が誰もいないわけですから私としては1週間であっても、今の介護施設に入所されることをおススメします。
で、その場合であっても、なるべく早いご決断が必要です。
遅れれば遅れるほど、ほかの救急の方の要請がすぐに入ってしまう可能性がありますので」
と一気にまくしたてられても、家族はその場ですぐには決断ができず、煮詰まってしまった頭を整理する時間ぐらいくれ、とばかりに
「ちょ、ちょっと待ってください」
と言うしかありません。
このように1人、家族に介護しなくちゃいけない人や、一刻一刻様子が変わるかもしれない病人がいると、一瞬の判断が要求される場面というのが往々としてあります。
2年前に父が末期の胃がんで亡くなったときも、いろんな決断、いろんな覚悟を場面に応じて要求され続けました。
ただでさえ疲弊している身体と頭で、正常な決断や覚悟ができるのだろうか、と思うのだけれども、そういうときこそギリギリの決断や覚悟を迫られる。
あれは辛かったですねぇ。
あのときを思い出してしまいました。
そしてあのときには、このお話でも感じたように「理不尽さ」を1番に感じていましたが、考えようによっちゃ、「理不尽でないこと」のほうが人生、少ないのかもしれないな、と思ったりもしました。
これまでもし、自分が「理不尽でないこと」の連続のなかで生きてきたとしたら、それはかなりラッキーなことだったのだ、と喜んでおけ、しかし、たいていは理不尽なことをひっくるめての、それこそが人生だ、という気がしました。
第一、自分自身がこれからどんな人生の最期を迎えるか知ったことではありません。
そのとき、「この私に対する扱いは理不尽だ」などと思うより、「これもそれも含めて筋書き通りの私の人生なんだなぁ」と思えていたほうがいいから。
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