<neW 告知!>
1か月以内に
「太陽の自分エクササイズ 凝縮ヴァージョン」
をリリースします!
「太陽の自分エクササイズ」はこちら→
「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
それに対して、凝縮版は徹底的に自己受容について深く落とし込みます。
********************************************
<今後のワークショップ予定>
「色で暮らしを彩る講座」 満席御礼
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
日時: 7/13(土) 13:00~16:30
追加! 7/29(月) 10:00~13:30 残席1名様参加費:¥15000(税込)
[内容]
・色が治療として使われてきた歴史と実際
・3原色のメッセージ
・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!
お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで
********************************************
「カラー&カード会」 えつこ&YUMI
場所:名古屋市 紹介制会員サロン「GRACE」にて
自分の持っている最高の可能性は、それを使命とする場合も多いことです。
自分の可能性に気付き、そしてそれをブロックしている今のテーマに気付くことによって
あなたの可能性はより広げるでしょう。
10:00~13:00(※その後、フルーツパーティのランチ付。解散は14:30) 満席御礼
7/11(木)
*********************************************
オルゴナイトセラピー モニター様募集!
4/25(木)~ 初回1回に限り
オルゴナイトを使った「オルゴナイトセラピー」をリリースします。
それに先立ちまして、モニター様を募集いたします。
詳しくはこちらをご覧ください。
↓
https://peraichi.com/landing_pages/view/w51w1
レギュラーリリースにあたって1セッション(60分予定)・・・・¥11000
を、
1セッション(60分予定)・・・・¥ 3000
にてご提供いたします!
「オルゴナイトセラピー」でわかることは、
*あなたを取り巻く今の状態(仕事、恋愛、人間関係etc.などの現状がどうなっているか)
*あなたの将来は?
*自分の潜在的可能性のチェック
などです。
<お申込み・お問い合わせは>
chakra@aura-soma.name 坪内恵津子まで
*********************************************
2016年に本屋大賞をとった「羊と鋼の森」を読みました。
ですので、本好きの人にしてみたら「は? 今頃何を・・」ということでしょうが、まぁこのブログはあくまでも私のペースで私の好きなことを書いているだけなのでお許しください。
本屋大賞を獲った本って確実に面白いには面白いんですが、最近ではちょっとエンターテインメント化しすぎているような感じも受けていたので、この本はどうかなぁ、と思いましたがなかなか文化的な香りがして好みでした。
このお話は高校生のとき偶然ピアノ調律師の仕事に魅せられて以来、一流の調律師をめざす1人の青年の物語です。
私自身はピアノは習ってはいましたが、もとい、当時の女の子のたしなみとして程度に“習わせられていました”が、調律に興味をもったことなんて全くありません。
でも時に自分の全く知らない世界、このまま知らなかったら一生知ることもなかったろうな、という世界のことを知るって楽しいな~と思うことがあります。
それも深く分け入る形で知ることができるのは小説の醍醐味じゃないかな~と思うわけです。
それでもその世界観にもちろん、好みはありますけれどね。
私は音楽に関してはときに音をつまびきたい程度の気持ちはありますが、やっぱりそのある程度職人のような世界観が好きなんでしょうね。
私にとっての漫画のベスト1を争うものも「ピアノの森」ですし。
さて、この本を読んで考えさせられた場面がありました。
それは
「どこまで自分の持てる力を発揮するか、どこまでお客さんの要望にあわせるか」
ということについてです。
ピアノの音色へのこだわりについては、もちろんそのピアノを弾く人の技量によるところが大きいわけです。
でも一般の家庭にあるピアノの調律なんてものは、私もそうでしたが、
「あれ? なんかこの音、ちょっと狂ったような・・?」
と思ったときか、
「あれ? なんか鍵盤の重さが違ってしまった・・」
というときぐらいしか調律師を呼ぼうなんて思わないことでしょう。
つまり、「不調になったから診てもらう」というピアノのお医者さんぐらいの捉え方をしていました。調律って。
しかし、コンクールに出るとかピアニストを目指しているくらいの人だと1年に1度調律をみてもらうことは当たり前で、それだと「ピアノのお医者さん」というよりは、「ピアノの専属パーソナルトレーナー」ぐらいの位置づけで調律師さんのことを思ってらっしゃることになりますね。
で、調律師としてはもちろん、ピアニストレベルの音へのこだわりには十分対応できるような訓練を積んできているわけですから、一般人の家庭のただ「音が狂ってしまったようなのでみてほしい」なんてリクエストは屁でもないわけです。
でもそのときに「狂った音を直す」だけにしておくのか、「少し堅めの音が好みですか? それとも柔らかい音にしておきますか?」だのの音の印象までをもコントロールしておくのか、と言ったらそれは調律師それぞれの仕事に対する考え方によるところが大きいように思います。
言われなくても、音楽に携わる人間であればこういう音をめざしてしかるべきだろう、こういう音の方が誰が聞いたって美しいはずだろう、というところまで調律するという調律師。
それに対して、いや、それがわからない人にそんなことをしたって仕方がない、狂った音だけ治してこればいいじゃないか、という調律師。
ま、仮に前者の調律を「エクセレント調律」、後者の調律を「スタンダード調律」と便宜上なづけておくことにしましょうか。
「エクセレント調律師」に対しては、そんなの自己満足だろう、という人もいらっしゃいましょう。
自分の技術を見せつけたいだけのことをして、それではお客さまを置き去りにしているではないか、と。
ふんふん、そう言われるとごもっとも、という気がしてきますが、では「スタンダード調律師」に対してはこうおっしゃる人もいらっしゃいましょう。
そのお客さんがそのとき望んでいる少し上の世界を見せてあげることによって、そのお客さんがもっとピアノに対する情熱が花ひらくかもしれないその機会を提供してあげないのか、と。
実際、本のなかでこんなシーンがあったんです。
主人公が先輩の調律師から学ぶために一般家庭の調律に連いていくことを許されるシーンです。
そこでその先輩調律師は、ものすごい技量をもっている人なのだけれど、そのお宅では単に狂った音を直す、という程度にとどめ、さっさと仕事を切り上げます。
それが怠慢に見えて主人公は、
「もう少し音色そのものを作ってあげないんですか?」
と聞くんですね。
するとその先輩調律師はこう言います。
「あの椅子の高さを見たか?」
と。
ピアノの椅子の高さを見る限り、ここのお宅でピアノを使用しているのはもう小学校高学年か中学に入ったぐらいの子どもだ。
しかし、ピアノの上に置いてあったレッスン本は「バイエル」だった。
小学校高学年までになってまだバイエルをやっているような子どもは、しょせん親に習わされているだけでヤル気がないんだ。
そんな子どもの弾くピアノをへんにいじったって、かえって本人が弾きにくくなるだけだ。
音を調律して、ポーンという堅いわかりやすい音が出るだけで十分なんだ、と。
つまり、この先輩調律師は、自分の仕事を「お客さま本位」にした、と言ってるのですよね。
ちゃんとクライアント像を見据えたとき、自分ができるレベルの調律をしてしまうとかえって戸惑わせてしまうだけだ、ここはそこまですべきじゃない、と。
それに対して主人公は、
「でも、少し上の世界を見せてあげることによってここの子どもはピアノに目覚める可能性もあるわけじゃないですか。その可能性を奪うんですか?」
と食い下がるわけです。
このシーン、なかなか考えさせられました。
セラピーでもどちらがいいのだろう、ということをずっと考えさせられてきたので。
なんか面白そう、という好奇心だけで自分を深く掘り下げる準備が整っていない方にそれを突きつけたって反発を感じたり、何を言われているのかわからなかったりするだけだろう、そういう目的で来ているならそれなりのやり方もある、と迎合したことも数限りなくあります。
でもそういうお客さまはたいてい2度といらっしゃいません。
なぜなら縁日で辻占いの屋台を見つけて、ちょいと話のタネにみてもらおうか程度のノリなのですから、また縁日が出るような一大イベントでもない限り、もうみてもらおう、とは思わなくて当然ですよね。
けれど、たとえそのときにクライアントが憤慨してしまうかもしれないリスクを冒してでも、一矢を報いるという方法もあるわけです。
その人がその場では
「なにさ、なんでちょっと好奇心で来ただけのところで、そんな深く自分を丸裸にされるようなことを言われなくちゃいけないわけ!」
と憤慨してしまったとしても、のちのち日にちが経ってからその人が、
「あれはこういうことだったのか・・」
とふと振り返り、ありのままの自分を探求しようと気付くきっかけさえ与えられればその方が良い、という考え方もあります。
それがいつのことになるかわからないし、自分のところに戻ってきてくれるかどうかもわからないけれど、そこに自分のセラピストとしての使命を感じる、という人もいるでしょう。
自分のことを言うなら、私は今は、「エクセレント調律師」ならぬ「エクセレントセラピスト」までは行わないにしても、「半歩エクセレント」ぐらいは踏み込んだ方がいいのではないか、と思っています。
難しいところですけれどね。
1か月以内に
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日時: 7/13(土) 13:00~16:30
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10:00~13:00(※その後、フルーツパーティのランチ付。解散は14:30) 満席御礼
7/11(木)
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ですので、本好きの人にしてみたら「は? 今頃何を・・」ということでしょうが、まぁこのブログはあくまでも私のペースで私の好きなことを書いているだけなのでお許しください。
本屋大賞を獲った本って確実に面白いには面白いんですが、最近ではちょっとエンターテインメント化しすぎているような感じも受けていたので、この本はどうかなぁ、と思いましたがなかなか文化的な香りがして好みでした。
このお話は高校生のとき偶然ピアノ調律師の仕事に魅せられて以来、一流の調律師をめざす1人の青年の物語です。
私自身はピアノは習ってはいましたが、もとい、当時の女の子のたしなみとして程度に“習わせられていました”が、調律に興味をもったことなんて全くありません。
でも時に自分の全く知らない世界、このまま知らなかったら一生知ることもなかったろうな、という世界のことを知るって楽しいな~と思うことがあります。
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さて、この本を読んで考えさせられた場面がありました。
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小学校高学年までになってまだバイエルをやっているような子どもは、しょせん親に習わされているだけでヤル気がないんだ。
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このシーン、なかなか考えさせられました。
セラピーでもどちらがいいのだろう、ということをずっと考えさせられてきたので。
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なぜなら縁日で辻占いの屋台を見つけて、ちょいと話のタネにみてもらおうか程度のノリなのですから、また縁日が出るような一大イベントでもない限り、もうみてもらおう、とは思わなくて当然ですよね。
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自分のことを言うなら、私は今は、「エクセレント調律師」ならぬ「エクセレントセラピスト」までは行わないにしても、「半歩エクセレント」ぐらいは踏み込んだ方がいいのではないか、と思っています。
難しいところですけれどね。
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