ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

死ぬ間際に感じる人生の達成感

2009-04-09 07:55:46 | ペット

030903_165123 会社を引き払ったので、会社で飼っていた猫「ちゃわんて」はもう完全にうちで飼うことにしました。(っていうか、どっちみち今年の正月からずーっとうちにいるので、そのままってだけなんですけどね。)

ずっとおりこうにしていて、会社でも一度も粗相なんてしたことないのに、なんとベッドの上でおしっこをしました!

なんてぇこった!!

動物はそのときに叱らないとあとで叱っても何のことを叱られているのかわからずにひねくれるだけだから、と聞いているので仕方ないな、と肩を落とし、ちゃわんては叱りませんでした。

でも、どうしてなんだろう?

何かを勘違いしたのか? 私とダーリンに対して何かを抗議したかったのか?

花奴とポンタを飼って数十年猫の経験はあるはずなのに、彼女たちはそんなことをしなかったから猫の習性がわかりません。


まぁ、「猫を追うより皿を引け」で、今度からは起きたらベッドにビニールシートでもかぶせておこう、と思いました。


そしてふと昨日、うたたねをしていたとき、夢でもなく、私の意識にあったものがはっきりとそう感じさせたのかさだかでもない何だかよくわからないんですけれど、瞬間的に、花奴が(花奴とは1年半前に亡くなった前の飼い猫のことです。)

「あれ、あたし。あたしなの。だから、あの子は叱らないでね。でも、あの子に『甘みぃちゃん』って話しかけるのだけはやめて。あれは、あたしだけにしておいて。」と言ったように感じました。

040530_204301 がば!と起きて、またあのときのことを思い出して泣いてしまいました。

花奴は私が今までの人生でもっとも愛したものです。

花奴を飼っていたときにも本人(?)に「あんたを世界で一番愛してるからね。」とよく話しかけていました。

そして、ときどきやる行動やしぐさをみては、「甘ちゃんだねぇ。」と言い、それに猫が鳴く声の「みゃ-みゃー」を合わせて、いつのまにか「甘みぃちゃんだねぇ。」と時々言っていました。


そして、ちゃわんてがうちにいるようになってから時々ちゃわんてにも「甘みぃちゃんだねぇ。」と言っていました。

でも、ちゃわんてにそう言うたびにすでに私は私の中でなにか歯止めがかかっているのを感じていました。

(これは、花奴にも言っていたことだ。同じ事をちゃわんてに言うようになったということは私は花奴と同じくらいちゃわんてを可愛い、と思っているのかなぁ。なんだか花奴にもうしわけないなぁ。)というような。

もちろん、全然違う個性をもった猫なんだから、どちらも「オンリーワン」ということで可愛がればいいじゃないか、というのは理屈の世界です。

私のなかでは花奴にずっと「おまえを世界一愛しているからね。」と言ってきたのだから、今でも世界一は花奴なのだ、ということを守り通さなくてはいけない、というような変な忠誠心がとれないんです。

そんなことを思ってちゃわんてを飼っているから、どうしてもちゃわんてに対して抑制が働いてしまい、なんだかこのままではちゃわんてもかわいそうだな、と思っていたところです。

そんななかでの、この夢とも自分がそう思っていたことが花奴が言ったかのように意識に昇ってきたか分からないような形で現れたことに戸惑っていました。

でも、そうしてみるとあのオシッコの匂いは花奴のものだった、と思える・・・

同じものを食べさせているのに花奴とポンタのおしっことウンチの匂いは全然違うものでした。

あのオシッコの匂いは紛れもなく花奴のものだった。

やっぱり、花奴が来たんだ! そう思えました。

そして、花奴がちゃわんてに嫉妬しているとしたら、私はやっぱり花奴の最期のとき、彼女がなんの心残りもなく天国へいけるような見送りをしてあげられなかったんだな、と悔やまれました。


花奴は倒れてから20日間くらいして逝きました。

その20日間というもの、心の中でずっと「高齢と腎臓病で倒れたのだから、これは2度ともう起き上がって元気になることはない。ただ、いかにやすらかに逝かせてあげられるかだけだ。なるべく苦しまずに逝ってほしい。」と、むしろ早く死ぬことを願っていたようなところがありました。

それが看病にもあらわれ、寝ながらでも食事を取れていた数日間から徐々に量が減り、水しか飲めなくなり、水も飲めなくなったときにはあきらめてもう何もしませんでした。


でも、でも、今にして思うとやってみればまた水を飲んだかもしれないし、少しだけれどエサだって食べたのかもしれない。

飲みたかったし、食べたかったのかもしれない。

でも、もうあげなかった。

まだ食べて飲むことができたうちは、体を半分起こして、口を無理にあけさせスプーンで口に入れていました。

自分でイヤなときは首をふってそれを受け入れないようにいやいやをしてくれたうちはよかった。意志が確認できたから。

でも、イヤイヤもできなくなってからは、いやなのか、飲みたいのかほんとうに花奴がそれを望んでいたのかどうかわからなくなり、口を無理にあけさせたりすること自体が無体な気がしてやめてしまっていたからです。

でも、イヤイヤができなかっただけで、飲みたいときもあったかもしれない。

そう思うと今でもえもいわれぬ贖罪の気持ちに襲われます。


そんな次の日。

私は友達のSUMIちゃんと仕事がらみの打ち合わせでお茶を飲んでいました。

オーラソーマが1本目はその人の人生の使命などがわかって・・と話しているとき、ふいにSUMIちゃんが、

「死ぬときに私は自分の使命を十分にまっとうできた、って思える人ってどれくらいいるんだろうね。そんな人いないんじゃないかな、って思うわ。」と言いました。

ふいをつかれたけれど、そう言われてみてかんがえると、確かにハタから見ていて「あの人くらい充実した人生を送った人っていないよね。あれだけやったのなら、きっと自分の使命を十分に果たした、と満足して逝かれたことでしょう。」と思ったって、本人はまだまだ、と思っていることのほうが多いような気がします。

「そうだねぇ。」と私は言いました。「あのマザー・テレサはどうだったんだろうね。彼女でさえもっと生きてやりたいことがいっぱいあった、と思っている部分もあったような気がするね。」と。

そして、続けました。

「でも、過去の自分をずいぶん時間がたってから振り返ると、そのときには全然やれていなかったと思っていたけれど、あのときの私って結構頑張っていたではないの、と思えるときってあるよね。それってやっぱり、時がそう思わせてくれるもの。だから死ぬときもそのときには満足していないけれど、魂が永遠であるならば、やはりずいぶん経ってからそのときの自分を振り返ることができたなら、『私ってあの人生のなかではよくやったほうじゃないの。』って思えたりしてね。」と言うと、SUMIちゃんも、

「そうだねぇ。きっとそうだね。」と言いました。

死ぬ間際のときの自分の人生の達成感、満足度ってどう感じるものでしょうね。

SUMIちゃんとはよく、「死ぬときに後悔が残る人生だけは送りたくないからやり残すことがないように、精一杯面白く楽しく生きようね。」と言い合っているのですが、どれだけ楽しく生きたつもりでも、いざ死に際となると達成感、満足度が100%とは行かないもののような気もします。

そして、またふっと花奴のことを思いました。

(私は今は思い出しては後悔の気持ちが湧き上がるばかりだけど、いつか、もっと時が経ったら、そんなことない。あのときはよくやった、って思うだろうか。そして、自分の自己満足だけじゃなくて、ほんとうにそう思えたとき、花奴もきれいに成仏してくれるだろう。)と。




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