ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

チャワンテが亡くなった日のこと

2019-01-30 09:01:53 | ペット
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 <2019年度のテーマ>  ※テーマは予告なく変えることがあります。ご了承ください。

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2月  天命を知る 第一弾ネームボトル
3月  天命を知る 第二弾バースボトル
4月  天命を知る 第三弾星座ボトル
5月  天命を知る 第四弾3STARS
6月  オーラソーマタロットで読み解くコンサルテーション
7月  守護天使を知ろう
8月  生命の樹から読みとくボトル
9月  感じるオーラソーマ
     カラーエッセンスとポマンダーから色を感じる
10月 親との関係を考える
11月 色を音で聴く
12月 2020 イヤーボトル 

 
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チャワンテが亡くなった日はたまたま日曜日でした。
お昼までは生きていたので、私は午後スーパー銭湯に出かけました。
結果的にはそうして家を空けていた時間に亡くなっていたことになりますが、それについては特に悔やんではいません。
冷たいようですが、ずーっと枕元についていてやっていたわけではありませんから、まぁ、そんなところかな、出張とか旅行とかの日でなくて良かった、と思っただけでした。



さて、それでも私の心はいつもいつも最近では大半がチャワンテで占められていました。
スーパー銭湯の露天風呂に入りながら、空を見上げると青い空のなかを白い雲がゆっくりと流れていくのが見えました。
なんてことはない、冬の晴れた日のよくある風景でした。
格別にエンジェルラダーがかかっているわけでもない。
格別に見かけない雲だったわけでもない。
格別に日輪が出ているわけでもない。
要するに騒ぐほどの珍しい光景がそこに広がっているわけでもなんでもなく、ただ青い空にいくつかの断片的な白い雲がゆっくりと流れ、その合間から太陽の光が漏れているというだけのこと。
けれど、その日の私にはそれがことさら美しく見えました。
そして父が亡くなったときのことを思い出しました。
父が亡くなったのは、8月29日、とてつもなく暑い日でした。
その日も、残酷なほどに晴れやかな空が広がっていました。
「暑いですねぇ」
と葬儀屋に言葉をかけながら私は、
(こんななんでもない風景なだけだけれど、この空を父はもう1度だけでいい、もう1度だけでいいから見たい、と願っていたかもしれない)
とふと思いました。
そのようにして人間というものはどんな死ぬ間際であっても、生に対する執着が捨てられないのかもしれない、と思ったのです。
その日のことを思い出しました。



そして露天風呂から青い空に流れる白い雲を見ながら、
「そういえば、チャワンテは窓辺のよく日が当たる場所で、いつまでも空をぼーっと見上げていることが好きだったなぁ。
もう1度、もう1度だけ日当たりのよい窓辺に自分の脚で歩いて行って、エアコンやホットカーペットの人工の温かさではない自然の温かさを自らの身体で感じたかったかもしれない。」
と思いました。
帰ってから抱っこしてそういう場にチャワンテを連れて行ってやってもいいのだけれど、もともと抱っこが大嫌いだったチャワンテは虫の息のなかで、あんなにイヤだった抱っこを今は声をあげて拒否することもできない、と身を固くするかもしれない。
そのショックで死んでしまうかもしれない、と考えるとやっぱりそれはできないなぁ、と思いました。



結局はいまやっている以上のことは何もできないとわかっているのに、なにかを悔やむような気持ちがあって、そして元気だったころのチャワンテの姿を思い浮かべて、私は空を見上げながら涙をこぼしました。
幸い、その涙はもし他の人に見られても汗か水滴と思ってもらえるだろうなぁ、と安堵しました。
よかった、温泉に来て、と。
そんな感傷的になりながらも、頭の片方の隅では、
(チャワンテが亡くなったらあの部屋、臭いもこもっているし、完全にチャワンテだけの養生部屋になっていたけど、片づけなくちゃな)
なんて現実的なことも考えているわけです。
人間ってそんなものだよなぁ。



そして帰ってみるとチャワンテが亡くなっていたわけですが、まだそのときには半信半疑でした。
すでに少し硬直が始まっているようにも思いましたが、それはもうチャワンテが骨と皮だけになってゴリゴリの身体だから堅く感じるのか、死後硬直なのかよくわかりませんでした。
ピクリとも動かないし、鼻に手を寄せても息を感じないし、もちろん腹も波打ってはいない。
しかし、ひょっとしてかすかにまだ生きているのかも、とも思いました。
「チャワンテが死んだかも」
と私はダーリンを呼びに行きました。
「えっ」
と言いながら、すぐに部屋にかけつけてくれたダーリンでしたが、一目見て、
「これは死んでるだろ」
と言ったあと、
「もう死んでるならホットカーペットとエアコンは切ったらどうだ」
と冷徹な一言を投げかけてきました。
わたしがさぞや人を見るような目をしたからでしょう。
「いや、そういう意味じゃなくて、死んだのに温かくしておくと腐敗が早まっちゃうかな、と思っただけだよ」
と慌てて言いました。
それでも私はひょっとしたらかすかに生きているのかも、と思うと暖房を切ることはできませんでした。
そんな無慈悲なこと。
結局最期に亡くなったのは凍死だった、なんてことだけはさせたくありません。



このときふと「植物状態」で脳死判定をされ、臓器提供を求められる、ということがもし身内にあったら・・という想像をしてしまいました。
少し前にロードショーをやっていた「人形の眠る家」がまさにそのテーマの映画でしたね。
私自身は、脳死が万に1つもそこからよみがえったということがありえないなら、そういうデータ的なことを聞かされることによって頭で判断できると思っていたんです。
つまり、どうしても可能性は「0」だ、となったら提供もできるかな、と考えていたんですが、いざ、自分の家の猫が死んだとは思うけれどもいつまでも身体が温かいというだけで、もうそれは無理なことがイヤというほどわかりました。
いつも私はこのように自分の身にそのことが起きなければ、本当のことはわからないのです。



その日はそれから何度もチャワンテの様子を見に行きましたが、まだ身体は温かいままでした。
ホットカーペットをつけているからかもしれませんが、それでも、マットについている部分は温かくても、全然マットに触れていない部分の肉体は、もう亡くなっているのだとしたらもっと冷たくなってもいいのじゃ・・? と思うのだけれども、全体的に温かいのです。



そして次の日の朝。
まだチャワンテは温かかったけれども、昨日から1mmも動いていないのだから、やはりもう亡くなっているのだな、と思いました。
それから1時間おきぐらいにチャワンテの様子を見に行きましたが、全然冷たくなってこないし、それ以上に硬直が起こってきている、という感じでもありませんでした。
私があまりにチャワンテに寄り添っているので、アクアが
「なになに? 今日は何が起こっているの?」
とチャワンテの部屋を覗きに来ました。
私はアクアに、
「アックン、お姉ちゃんにさよならを言いなさい」
と言いました。
するとアクアは何かを察したかのようにへっぴり腰でチャワンテに近づいてきました。
しかし、クンクンと匂いを嗅いだかと思うと、
「恐い~」
という感じで、脱兎のごとく踵を返して逃げて行ってしまったのです。
この肉体はただの何かのかたまり、これはもうあのチャワンテではない、ということがアクアにはわかったのだな、と思いました。



その日は岐阜市は天気予報に反して、雪が降り出しました。
予報では雨程度だったのに。
雪は2日ほど前にも降りましたが、その日は雪が降るぞ、降るぞというので結構かまえていたのにチラっと降っただけで、拍子抜けするようなレベルでした。
そのときに比べたら、この日の雪のほうがよほど本格的で積もりそうな気がしました。
(雪はどこから雪となるのだろう・・?)
そんなことを思いながら空を見上げました。
目の前に降ってくる雪を横から見ているより、見上げたときの雪は、かなりのスピードで降り落ちてきているように見えました。
目の中に雪が落ちてきたら、きっと痛くて開けていられないだろう。
チャワンテは1日違いで今年の雪を見ることなく死んだんだなぁ。
そのことをチャワンテはどう思ってるんだろう?
今年も1回ぐらいは雪が見たかったなぁ、と思っているんだろうか。
そして昨日の露店風呂で見た青空と雲を思い出しました。



そうしてまたチャワンテの様子を見に行きました。
今度は確実に冷たくなっていました。
これまで温かかった身体を触っていたときにも、もう亡くなっているのだ、この温かさはただホットカーペットの温かさを伝えているだけなのか、あるいは内臓のもつ温かみはゆっくりとゆっくりと時間をかけてしか冷えて行かないのかだけで、この子は確実に亡くなっている、ということはわかっていたつもりでした。
何にも希望を持っていたわけではなかった。
けれども、確実に冷たい身体を触ったとき、突如としてものすごい悲しみが私を襲いました。
チャワンテが死んだ・・・!
チャワンテが死んじゃった・・・!!
もう2度と戻ってこない。
昨日までそこに居て、力弱くではあったけれども「にゃあ」と言って、自分からハウスを出て歩いていたものが、もう、いない。
その120%確かな事実で私は打ちのめされそうでした。
そして私は初めて号泣しました。





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2 コメント

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Unknown (たまみ)
2019-01-31 02:07:51
(先ほど、サービスの記事のみ最新記事として表示していたため、新しい記事を今三つ拝読しました。そぐわないコメントで失礼しました)

チャワンテちゃんお疲れさまでした。
肉体から離れても近くにいてくれるそうですし、猫は飄々として見えて心配症な子が多いと聞きます。
猫にとって人間は虫も捕まえられないような不器用な大きな猫だそうですし。
"私の人間"であるママは大丈夫じゃないわよね、しばらくママのそばにいなきゃ。と。
良いママと出会えて(一説によると彼女から恵津子さんは選ばれて)とても幸せでしたね。
ゆっくり休んで下さいね。
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Unknown (些々羅)
2019-01-31 10:53:49
たまみさん、ありがとうございます。

そうですか、猫って心配性な子が多いんですか。。。
確かに猫にとっては人間なんてなんにも出来ない頼りない存在かもしれませんねぇ。
「無器用な大きな猫」ねぇ。
そんなものかもしれませんね。

「あたしの一生」をまた読みたくなりました。
でも、今読むとダダ漏れ的に泣くだけになりそうなので、少し落ち着いてからにしようと思います。

そう、私は選ばれたんだから、チャワンテはあらゆることを納得してくれているでしょうね。
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