ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

居てくれるだけで、その存在だけでよかった

2019-01-31 09:01:45 | ペット
new!

2019年度より オーラソーマ可能性探究の会    はじめます!

  毎月  第四土曜日  14:00~15:30
  どなたでも参加いただけます。  定員4名
  参加費   ¥2000

 <2019年度のテーマ>  ※テーマは予告なく変えることがあります。ご了承ください。

1月  2019 イヤーボトル    終了いたしました
2月  天命を知る 第一弾ネームボトル
3月  天命を知る 第二弾バースボトル
4月  天命を知る 第三弾星座ボトル
5月  天命を知る 第四弾3STARS
6月  オーラソーマタロットで読み解くコンサルテーション
7月  守護天使を知ろう
8月  生命の樹から読みとくボトル
9月  感じるオーラソーマ
     カラーエッセンスとポマンダーから色を感じる
10月 親との関係を考える
11月 色を音で聴く
12月 2020 イヤーボトル 

 
 参加希望の方は、ご連絡ください。
 chakra@aura-soma.name まで。


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本を出版しました!

  「オーラソーマの奇跡と私の気付きの日々」
    ~潜在意識を”色”として客観視することで劇的に人生が変わる~


オーラソーマというカラーセラピーに出会って10年。
オーラソーマに取り組むことによって自己成長してきた記録です。
スピリチュアルな世界に足を踏み込むと誰もが気になる
「自己受容」とか「ありのまま」ということなどについての
理解について述べた本。

ご購入はamaon.から → こちら




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*オンリーワンの人生を自力で歩き出すことができます


*自分らしく、ただありのままでいることに誇りを感じられるようになります。


*ほんとうに自分の好きなことを思い切りやって生きていけるようになります。


*目標が明確になります。



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正直、チャワンテが亡くなって自分がこれほどまでに打ちのめされるとは思ってもみませんでした。
チャワンテはいつもべったりと甘えてくるタイプではありませんでしたし、私もつい付いて回ってくるアクアの方がだんだん可愛くなってきたりして。
でもチャワンテはその放任主義を楽しんでいるように見えました。
とてもリラックスして、「私はこれくらいの距離感のほうがいいのよ」と言っているように思えました。
もちろん、可愛くないわけはないけれども、生活のすべてを共にしてきた、というような意識が低かったので、そういう意味では私はチャワンテが亡くなってもそんなに悲しまずにすむ、と思っていたんです。
ところが、チャワンテがいなくなってみると、この喪失感はどうだ。



昨日まで確実にここに、居た。
確実に居たものが、今は、いない。
この空虚感はいくらアクアが可愛くたって埋められるものではない。
とにかくチャワンテがいないのだ。
しかも永遠に。
2度と現実のチャワンテを目にすることはないのだ、というこの暗闇のなかをかきむしるような思い。
ぐあ~~~っ!と叫びたくなる。
そうでもしないとやってられない。
子どもの頃、ディズニーの映画を観て、あれが現実だったらいいのにな、と思い一歩映画館を出るといつもの街の風景が襲ってくるときのあの何ともいえない虚しさと焦りにも似たような気持ちと似ています。
どれだけ努力したって、泣き叫んだって、映画は終わったんだ、現実はこの世界なんだ、ということを受け容れざるを得ないのだけれど、それを受け止められるだけの心の状態になっていない、っていうような感じ。
それがまだチャワンテが亡くなってから続いています。
ここ3か月ずーっと24時間チャワンテがいる部屋のエアコンはつけっぱなしでした。
それをようやく昨日切りました。
表へ回ってみると、室外機がシン、としている。
いつも「ビビビビ・・」と音をたて続けて、その前に来ると寒いから、そこは足早に立ち去るようにしていた。
そこから音がしない。
音を立てない室外機を初めて目にします。(※去年の9月というちょうどエアコンをかけなくても良いような時期に引っ越してきたので、まさに冬になってからチャワンテのために24時間エアコンをつけっぱなしにしてからは、初めてシンとした室外機を見たわけです)
不思議な物体を見るような気がします。
ただそれだけのことが耐えられなくて涙します。



特に人間の動向を気にせず、われ関せず、で寝ていることが多かったチャワンテ。(まぁ、お年ですから仕方がないですが)
抱っこが大嫌いだったチャワンテ。(野良猫時代のトラウマかららしいですが)
そのくせ、自分から要求してくるときは“おねだり”というような甘い声では鳴かず、「ぎゃー」というような威嚇にも似た上からだったチャワンテ。(最後のへんは「にゃあ」と鳴いていましたから、これは声帯の問題でもなんでもなかったわけですね)
なんかこうしてチャワンテのことを思い出しても、可愛らしいところなんて何1つなかったような気がするんだけど、「居る」と「いない」のとでは大違い。
そう、ただいてくれるだけでよかったんだ・・・
ただいつもそこに居る、という安心感。
それがどれだけ私を支えてくれていたか・・・。
チャワンテが亡くなってみて、ほんとうにそのことがしみじみと私を襲います。



そして、改めて自分がチャワンテに対して抱く思いが、
「ただいてくれるだけでよかったんだよ」
という気持ちであることを揺るぎなく確認できたのと同じように、“わたし”という存在だってそうに決まっている、ということもまた、揺るぎなく確認できたような気がしたのでした。
なんか大きなことを成し遂げられるわけではない。
誰かのために居なくてはならないほど大きな存在なわけでもない。
でも、確実に“わたし”はいたほうがいい。
存在したほうがいい。
それはなぜなら“わたし”だから。
この世を、この地球を形成している成分が「100」で完璧なものとなっているのだとしたら、“わたし”が欠けてしまったら、それは「99.999・・・」(このあとどれだけの「9」が続くかはわかりませんが)の不完全なものとなってしまう。
不完全なものとなってしまったとき、その代わりは誰にもできない。
だってそれは“わたし”だったんだから。
“わたし”以外の存在が“わたし”にはなれないんだから。
そんなことがしみじみとわかったような気がしました。
そして、そんなことを教えてくれたチャワンテがとても愛しい。



それと同様に、何もかもが私にとって必要な経験なのだと心から思えるので、すべての経験が愛おしい。
例えば、チャワンテがいよいよダメかなぁ・・となってきたときには1日にチャワンテの部屋を覗く頻度が増え、まぁ、放っておけばなんとか自分で水は飲めましたが、かがむのがしんどそうに見えたので、チャワンテが水を飲みたそうにすれば、「はいはい」と口元の高さまでボウルを捧げ持ってやるようにしていました。
あまりに暖房をつけっぱなしなので乾燥しきってるだろう、と床置き型の加湿器をつけるのだけれど、それとて上手に部屋全体がどの場所も同じ湿度になるわけではないだろう、と置き場所を少しずつ変えたりする。
「このメーカーのレトルトパウチのスープならちょっとなめた!」
となれば、どこで売っているのかを調べ、遠くのホームセンターまででも買いに出かけた。
それらのすべてのチャワンテの世話は私の役割でした。
ダーリンは、頼んで
「あれ、買ってきて」
とか言えば買ってきてくれましたが、基本、身体を使ってチャワンテの世話を買って出る、というようなことはいっさいしませんでした。
それを当初は、口に出しこそはしませんでしたが、不満に思っていた時期もありました。
(なにさ、何もかも私にやらせて!)と。



でも、途中から考えが変わりました。
チャワンテがゆっくりと、しかし着実に衰えて死に向かっていくありさまを見せ続けてくれていることによって私に与えてくれている気付き、これはどんな宝物よりも貴いものだ、という気がしたからです。
毎日、介護、介助している者にしか見えてこないものがある。
こんな大きな学びの学校が自分の家のなかにあるというのに、それに手を出さないなんて勿体ないことよ、私はそれを全部やらせてもらえちゃってなんてありがたい、と思うようになったのでした。
これは決して強がりじゃありませんよ。
ほんとに心からそう思いました。
(そして、今後のために言っておきますが、人間に対してはそうは思わないと思います・・)
そういう意味では、私は父が死んだときより、今回チャワンテが死んだほうが参っています。
父とは生活を共にしていたわけではないから、自分が介護や介助をしていたわけではなかったから、ということに尽きます。(そりゃ、交代で病院には毎日通いましたが、あくまで私メインではなかった。母でした)
だから、今になってみて、私は母が父が亡くなったあと、どれほどの大きな虚無感、喪失感に襲われたであろうかを身に染みて感じました。
すごいなぁ、それをよく乗り切ったなぁ、母は、と。
亡くなったあとだって、ちょっとの間はなるべく気にかけて一緒の時間をつくったほうがいいよなぁ、なんてしてあげなかったものなぁ。
ひとつひとつがチャワンテのおかげで気付かされることばかりです。












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