少し前になりますが、テレビで地上波初登場というウィル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」を見ました。
その日はダーリンともどもゴルフに行き、何十年ぶりかに18Hすべてを乗用カートなしで歩きとおしたので、泥のように疲れ、帰ったら今日は早く寝ようね、と言っていたのですが、見ていたら引き込まれてしまって結局最後まで見てしまいました。
この映画は、人も動物もあるウィルスに感染してしまい、感染せずに唯一(少なくともニューヨークでは唯一)生き残ったウィル・スミスが懸命に生き延びよう、とするお話です。
私はこの映画を見ながら、(やっぱり、アメリカってすごいな。)と思いました。
エンターテインメントとしての割り切り方が、です。
街は現在のニューヨークが舞台です。CGを駆使しているのでしょうが、無人の廃墟と化した街が隅々まで手を抜かずに描かれていました。
駐車されたままになっている埃をかぶった車。アスファルトの裂け目から草がぼうぼうに生えてくる様子。あちらこちらの建物が破壊され、鉄筋が倒れ掛かってきている部分・・・
これらを見ると都市は正常に機能しているからこそ都市なのであって、いったんその機能を停止すると無残な、それはそれは無残な姿をさらすことになるのだな、と思いました。
きっと、廃村になった村を見るより悲惨・・・ そこには少なくとも大自然が残されるけれど都市はすべてを失うだけ。
こう言うところを見ると、もし日本が、東京が、大阪が、名古屋が、都市の機能を失ったら、と考えるだけでもぞっとします。
そこにウィルスに感染して、もはや凶暴な化け物になりさがったヒトがいるのです。もう「人間」とは呼べないような、「ヒト科に属する生物」としかいいようのない化け物が。
頭髪は抜け落ち、皮膚は薄くなり、青白い血管が全身に浮き出ている。
瞳孔は開き、そこには凶暴性以外の感情は読み取れない。
そして妙に運動能力だけは高くなっているようで、二十日ねずみのように動きは早く、バッタのようにピョンピョン飛び上がり、スパイダーマンのように建物にへばりつける。
彼らは光を浴びると死んでしまうので、日中はどこかの薄暗い建物の中に潜んでいる。そして夜になると獲物を求めて街をさまよう。
この世界観は、もはやオカルトかサスペンス、ホラーです。
私は何がアメリカがすごいと思ったか、と言うと、日本でもし、ウィルスで日本中が死滅したら、という仮定の映画をつくったとしたら、それは「社会派映画」となることでしょう。あくまで「今」の私たちが握っている情報のなかで起こりえる映画。「知っている」世界観。
だけど、アメリカが作ると社会派でもなく、かといってオカルトチックやホラーにまで傾くことはない、たぶん、彼らに言わせると「エンターテインメント」と割り切った映画ができあがる。
リアルな部分はよりリアルに。
ありえないものはありえないように飛びぬけた存在として。
「ありえない」と決め付けることはできないのかもしれませんが、(そう、お笑いの子羊エルマーのように「ありえない~、だけどもありえるぅ。」と思っていないといけないのかも、ですね。)まぁ、過去に見つからなかったようなウィルスに人々が感染しても、ほんの何分か何時間で、この映画に登場するようなヒト科の化け物にまでいきなりなってしまう、という可能性は低いでしょう。
それをまた、「この今われわれが住んでいるニューヨークの街で・・」という設定がリアルさを増して、アメリカ人が見たら、もっと恐怖を感じられたことでしょうね。
私たち日本人がその舞台が新宿だったら、渋谷だったら・・と考えると、あの映画はもっと怖いものとして見ることができたかもしれません。でも、「そこまでリアルにしちゃ、駄目だろう~」というへんな温情というか、理性が働くのが日本の映画人、という気がしました。
それとも逆に日本人は想像力が豊かだから、そんな映画つくったら、ほんとにパニックになっちゃうから、とか?
私は、「アイ・アム・レジェンド」を見ていて、ひとつ、気になったことがあったのです。それは「いったんウィルスに感染して人間らしさを失ったヒトを虫けら同然のように映画のなかで扱っていること」について、です。
ウィル・スミスは、街に出て、たまたままだ生き残ったヒト科化け物が襲おうとすると小気味よいほどバンバンと機関銃をぶっとばします。ゾンビと違って彼らは撃たれれば死ぬのですが、なんだかそんなに簡単に殺していいの?と思ってしまいました。
もちろん、殺さなければこちらが殺される、という状況なのですからいたし方がないのですが、完全にこの時点では見ているほうもウィル・スミスの視点となり、「危ない! やらないとやられるぞ。早く殺しちゃえ。」みたいな気分になっています。そう言う気分にさせるところがまた、アメリカがエンターテインメントと割り切った、という部分なんでしょうけれど。
また、ウィル・スミスは化学者なので、化け物と化したヒトを生きたまま捕まえてマウスで実験した血清が効くかどうかをそのヒトに注射します。
その場では効かなかったので、「ええい、くそっ!」と言ってそのヒトは担架に乗せられたままの状態で放ったらかしにします。ベルトで暴れないように手足を固定されたままのヒトは人間の尊厳をうしなった状態で放ったらかし。もはや手厚く葬ってやろう、という対象ではないようです。
これもそれでいいの?とチラと思ってしまいました。
映画ではそのヒト科化け物があまりにも凶暴な表情をしているので、可哀相、という気持ちが起きにくいわけですが、いったい私たちは、何を、どれほど失ったらもはや“人間”とは呼べない、と思って虫けらのように人間を扱うことを何とも思わなくなるのでしょう?
感情? でも、感情を失う病気ならすでにありますよね。
見た目? 確かにそれまでの人間とあまりに違った外見や身体能力を見せられると怖いかもしれませんが、少したてば慣れるようにも思います。
医学で問題になっているように脳死かどうか? それはあまりにも生体反応だけの話のような気がします。
私もそんな状態に置かれてみないとわかりませんが、最後の最後でそれが“人間”と呼べるような生き物なのかどうか、は「魂が決める」のだ、という気がします。
でも、魂と精神はどう違うのでしょう?
また、「魂」だけの存在となれば、よけいに人間でも犬でも草でも命あるもので
同じ物質界の次元に住んでいるものならもう一緒じゃないの?という気もします。
難しいですね。
「精神」という日本語を英語にすると「スピリチュアル」になるので、余計に問題をややこしくしている気がします。
通常、「スピリチュアルに造詣が深い人」とか「スピリチュアル界では・・」とか言うときには魂のレベルのことを言っていますよね。これはほんとうは「ソウル界」とか言わないといけないんでしょうね。
でも、ふと思ったのは、「精神」というのは、「肉体」という対比語があって生きる言葉、というか使われる言葉のような気がします。
でも、「魂」はあくまでも「魂」。
肉体でも精神でもない。それらを両方とも包み込んだ存在ともいえる。
この問題を理解する鍵ともなるものが、カバラの「生命の木」だと思います。
それぞれの風、水、火、地の世界は精神の世界、魂の世界、感情の世界、肉体の世界でもあるからです。
カバラは求道してもしても、それが正解なのかどうかわからない、ということもあって、興味はあってもなかなか一人で勉強を続ける、ということができにくいものですが、今一度、改めて興味を持ちました。
生命の木はオーラソーマのゴールデンスレッドの出し方にも関係してくることですし、もう少し自分でも調べてみようかな、という新たな勉強意欲がわいてきました。
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