ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「ねことじいちゃん」を観て

2019-05-16 09:01:11 | 映画
   オルゴナイトセラピー モニター様募集!

    4/25(木)~  初回1回に限り

   オルゴナイトを使った「オルゴナイトセラピー」をリリースします。
   それに先立ちまして、モニター様を募集いたします。
   詳しくはこちらをご覧ください。  
     ↓
    https://peraichi.com/landing_pages/view/w51w1
   
   レギュラーリリースにあたって  1セッション(60分予定)・・・・¥11000
          を、
                   1セッション(60分予定)・・・・¥ 3000
           にてご提供いたします!

   「オルゴナイトセラピー」でわかることは、

      *あなたを取り巻く今の状態(仕事、恋愛、人間関係etc.などの現状がどうなっているか)
      *あなたの将来は?
      *自分の潜在的可能性のチェック

              などです。

   <お申込み・お問い合わせは>

         chakra@aura-soma.name 坪内恵津子まで


*********************************************






「ねことじいちゃん」という映画を観てきました。
私は猫好きなわけですし、動物写真家の岩井光昭さんの初監督作品となれば観ておかなくちゃいかんだろーというわけで。



想像はしていましたが、ほんとに何気ない日常を描いたものでした。
『世界的に知られる動物写真家・岩合光昭が初めて映画監督に挑み、ねこまき原作の同名コミックを落語家の立川志の輔主演で実写映画化したヒューマンドラマ。とある小さな島に住む70歳の大吉は、2年前に妻に先立たれて以来、飼い猫のタマと2人きりで暮らしている。生まれ育ったこの島には幼なじみの巌をはじめ多くの友人や猫がおり、穏やかな日常が流れていた。東京で暮らす息子・剛はひとり暮らしの父を心配しているが、大吉もタマも自由気ままな現在の生活に満足している。しかし、親しい友人の死や大吉自身の身体の不調など、ずっと続くと思っていた日常に少しずつ変化が訪れはじめ……。ヒロインを柴咲コウが演じるほか、小林薫、田中裕子、柄本佑ら実力派俳優がそろう。』(映画.comより)
これも原作はマンガだったんですね。
最近多いですね~
映画のための脚本書き下ろしのほうが珍しいくらい。
いったんウケたものの方が大体の客足も読めるってことでしょうね。
ということは逆に言えば、映画界としては瀕死の状況ってことですね。
ガンバレ! 映画。
やっぱりいくら50インチ、60インチで4Kだの8Kだののテレビを各家庭が持っている時代になったからといって(うちは違いますけれどね)、映画館のスクリーンで、あの時間確実に缶詰になって映画だけの世界に浸りきる、っていう贅沢は家庭では味わえませんからね。



さて、観てわかったのですが、舞台は愛知県の佐久島でした。
佐久島、日間賀島、篠島・・・といったあたりは愛知県人、岐阜県人にとってはちょっとお出かけの観光スポットなので私も行ったことはあります。
けれどここ数年の佐久島はアートの島となっているようで、そうなってからは行っていません。
アートを見ようと遠くからも観光客がやってこれば、自然に休憩する場所も必要だというわけで、映画にも出てきたような古民家を改造したようなしゃれたカフェなんかもちらほら出来ているようです。
また行ってみなくちゃ。



さて、最初に「ほんとに何気ない日常を描いたものでした」と書きましたが、“何気ない日常”にもいろいろあります。
「その島の人にとっては日常にすぎないことが、都会の人間から見たらほぉ~というようなこと」
「誰もが想像がつくような何気ない日常に過ぎないけれど、映画としての深堀り具合になるほどね~と唸るようなこと」
「何気ない日常のなかにも事件は起こるということ」
・・・etc.
けれど、この作品はどれでもありませんでした。
ごく当たり前に想像がつく範囲で綴られた日常でした。
高校生のカップルの片割れが大学は東京へ行くから島を出る、という。
あるある。
そして彼らの心情がさほど描かれているわけではない。
年とった親を心配して東京に住む息子が一緒に住もうよ、と持ちかける。
あるある。
結局断るのだけれど、さほど葛藤が描かれているわけではない。
島の人間たちの濃すぎる付き合い。
あるある。
これは濃すぎるがゆえの欠点という部分についてはおばあちゃんたち同士の喧嘩が描かれている程度で、その描き方は実にコミカルで、濃すぎることによっての良い面、悪い面がシリアスに、平等に描かれているわけではない。
まぁ、こんな具合です。
それでも至るところに猫を配置するだけでこんな作品に仕上がるんだ~と変な感心をしました。



私が1番心に残っているシーンは、島の1人の女性が亡くなったときに、その老婦人が飼っていた猫をどうする? という話になったところです。
葬儀のあとの精進落としの食事の席で、実はその老婦人とひそかに淡い恋心を通わせていた男性、それが主人公のおじいちゃん大吉さんの幼馴染である巌さんですが、みながそれを知っていて
「巌さんが飼ってあげるといいよ」
と言います。
しかし、巌さんは頑として首を縦に振りません。
「俺は猫は好きじゃないんじゃ! 飼わんといったら飼わんのじゃ!」
と言うばかりです。
するとそこで1人のおばあちゃんが、
「巌さん、自分の亡くなったあとの心配までせんでいいんじゃよ。また、誰かが面倒みるから」
と言ったのです。
あ~、巌さんの真意はそこだったのか、と私もスクリーンを見ながら初めて気付きました。
それでも巌さんは結局猫を飼いません。
1人になってからぽつりと独り言をつぶやきます。
「誰かを見送ったかと思ったら、また次も見送らなくちゃならないなんてそれは辛いからイヤだよなぁ・・ たとえ猫であったってそれは同じだろ」
巌さんは優しいんですね。
だから、目先の優しさより自分がもし先に亡くなってしまったときの猫の気持ちまで考えて「飼わない」と言っている。
わかる、わかる、と思ってしまいました。



この映画のなかの島では、猫は全員(?)放し飼いです。
どの家も鍵もかけず四六時中開けっ放しにしていても、誰もよそ者なんかいやしないから大丈夫、というような島なので、猫は好き勝手にあちこちを徘徊し、餌と夜寝るときだけ飼い主のもとへ帰ってくる、という自由気ままな暮らしぶり。
でも、昔は猫といえば、みんなこうでしたね。
町中であってもあちこちに空地やら小さな原っぱやらがあったので、今のように隣近所が、
「うちの庭ばかりにお宅の猫がフンをしていく! どうにかしてくれ!」
ということもなかったように思います。(たまにはあったでしょうけれども、みんなお互いさま、という感じでした)
映画での島は漁業が盛んな島という設定のようでしたので、特に猫が誰に飼われていなくても十分に食べていけるという感じでもありましたが、猫が自由に生きて暮らして、人間とも仲良く共存していくということがいかに不可能な社会になってしまったか、ということを痛感もしました。
「ほんとに何気ない日常を描いた作品」ということを何度も強調していますが、
マジでこの作品の何気なさが貴重な資料となって映画のなかでしか見られない、「昔の日本人の暮らし」なんてキャプションがつけられて博物館行きとなるのかもしれない、と思うと寂しいを通り越してちょっとゾッとしてしまいました。



実際、この島のように「全員で猫を飼っている」という意識がそれぞれ1人1人の中にない限り、巌さんのように「自分が亡くなったあともこの猫は生きているかもしれない」と思うとおいそれと動物を飼ったりなんぞできないはずです。
私も今年のはじめに老描をなくし、1匹だけになったので寂しくもあり、もしご縁があれば(積極的に求めるつもりはない)もう1匹いてもいいな、なんてチラと思うけれども、いまの猫は長生きですからね~
自分の年齢を考えたら、出会うとしたらもうここ1,2年のうちじゃないとそれ以降は幼猫を迎えるわけにはいかないな、と考えますもん。



そして映画のなかではじいちゃんの大吉さんが心臓に激痛が走り倒れるシーンがあるのですが(事なきをえます)、そのとき薄れ行く意識のなかで大吉さんがしようとしたことは、猫のタマのために縁側から外に出られる戸を開けておいてやらねば、ということでした。
自分のことより猫のことを思うなんてじいちゃんも優しいね。
けど、これにも現実問題として考えさせられました。
もし一人暮らしで猫を飼っていて、自分が何かの拍子に室内で倒れてしまったらもう自分はそのまま死んでもいいけれども、元気な猫がただ外に出られないがゆえに飲み水も餌もなくなり餓死ということだけは避けてやりたいと思いますからね~
年を取ると、かようにいろんなことを考えておかねばならなくなるな、と身に染みたことでした。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿