ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

映画「記憶にございません」を観て 2

2019-09-18 09:01:58 | 映画
<neW !>

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 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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今日も映画「記憶にございません」を観ての感想、というか気付きでございます。
この映画のタイトルどおり、もし自分が何かのアクシデントによって全くこれまでの記憶を失うということがあり、それを機にそれまでの人格とは全く別の人格として生きることも可能だ、となったとき、「あなたはどんな人格で第二の人生を生きたいですか?」というのが、この映画が発信している1つのメッセージだと思います。



実際に、黒田という総理は、記憶を失うまでは歴史のなかで最低の総理と言われていました。
「ひとりよがり」「カネに汚い」「頭は悪い」「国民の立場でものごとを考えていない」「恫喝する」などの理由により、支持率は2%台というありえない設定となっています。
それが記憶を喪失することによってまったく別人格の人間となってしまうのです。
こういうことが記憶喪失によって実際にありえることなのかどうか、私にはよくわかりません。
その人の根底をなしているものとしてはそうそう変わりようがないのでは、と思うのですが・・。
映画では、小学生とか中学生とかの昔のことは思い出せても、とくに最近のこと、政治家になってからのことがからきし思い出せない、ということでした。
これはわかります。
昔の記憶ほどコンプリートされているけれども、近いことほど逆に思いだせない、ということが多いらしい、ということについては聞いたことがありましたから。



そして、映画では黒田がもともととても才能があったこと、できたことなどについても全部忘れている、出来ない、ということになっていましたが、これについてはいささか現実とは違うのでは? と思いました。
たとえば、記憶をなくす以前の黒田総理はゴルフがとてもうまかった、とされていますが、記憶をなくしてからは、クラブの握り方さえどうすればいいのかわかりません。
これはむしろ、自分がどうしてこれについてはこんなにうまいんだろう?というほど出来るというほうが現実には多そうな気がしますが、そうではありませんでした。



ま、それはいいですが、「記憶をなくしたとしたら」、という前提です。
あるいは「記憶をなくしたというフリができるのであれば」、という前提でもいいです。
もしそういう事態になったとしたら、しめしめ、自分はこういう点においてそれを生かして生まれ変われるぞ、と思うことがありますか? という質問でした。
あなたならその機会を生かして、今の人生を変えたいと思うことはありますか?
例えば黒田のように自分の仕事の方針が違ったな、と思ったらそれを180度急に変えることは難しいのだけれども、「私は以前の自分を覚えてないからそれができちゃうもんね~」と仕事の方針を変える?
子どもへの接し方を変える?
人間関係を変える?
うん、これくらいは使えるかもしれませんね。
イヤだけれども、しがらみだけで仲良さそうなふりをしてこなくてはいけなかった人に、
「ごめんなさいね~ わたし、記憶をなくしちゃってるものですから。どちらさまでしたっけ?」
とすっとぼけて付き合いを断ち切るのに使う、とか。
相当好奇心による噂の種にはされるでしょうけれどもね。



見終ったあと、今回は珍しく一緒に観にいったダーリンに聞いてみました。
「ね、あなただったら何か記憶を失ったら、それまでの自分とは変えたい、と思うものある?」
するとダーリンはこう言いました。
「う~ん、記憶だけ失くしたって自分を取り巻く環境は何も変わらないんだろ? だったら同じことだな」
ま、そうですけどね・・
私なら記憶を失くしたらなら、いっさいをリセットしてみたいかな。
映画では黒田は自分の妻も息子さえも覚えていないわけですが、彼らに一生懸命優しく接しようとします。
私はそれは無理だ、と思いました。
だってその日知り合った赤の他人としか思えないでしょうから。
これがあなたの夫ですよ、と言われたって、あぁ、そうですか、と慣れた様子で一緒に生活をするなんて出来ない。
だからひとまず1人になって、その時点での自分が興味がある、という仕事をして、興味があるというものに囲まれて再スタートするしかない、って思うかなぁ。
そしてそれらを、それまでの私を良く知っている人たちの証言と突き合わせて、どれくらい私が、私らしさというものを引き続き持っているのか、あ、そこにはたいしてこだわっていなかったのね、ということがあるのか、そういうことを確かめてみたい。



でも、実際には相当戸惑い、その戸惑いのなかから抜け出せないだろうなぁ、と思います。
だって、「記憶」がない、ということは自分の歴史を失っただけではなく、自分そのものがふわふわと、この世に本当に生きている人間なんだろうか? というところまで疑ってしまう気がするからです。
すると性格も自然と臆病になり、すべてに疑りやすくなり、簡単に周囲に心を開けるようにはならないと思う。



ただね、「もし」という前提で「自分にいっさいの記憶がなかったらどうするか?」
という質問を自分自身に投げかけてみた時、
「だったら、こういうことがしてみたいな」
というものが浮かんできたとしたら、それは今のままでは本当にできないことなのか? という問いかけをしてみるきっかけにはなりますよね。
たいていのことは今のままでもやろうとすれば簡単にできることなのだ、ということに気付くものです。



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