団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

稚内物語

2018年10月09日 | Weblog

  Aが稚内に降り立った。サハリンのコルサコフを出て約6時間が過ぎていた。東日本海フェリーがその年の運行を始めた最初の便だった。Aはその日が来るのをカレンダーにマジックで✖をつけながら待ちわびていた。アントノフAn-24には金輪際乗りたくなかった。アントノフAn-24が世界で商業運行されているのは、サハリンとアフガニスタンだけだと聞いていた。恐ろしい飛行機で乗っている間、生きた心地がしなかった。飛行機大好き人間だったAは、飛行機恐怖症になった。残るは船しかなかった。稚内―コルサコフ間のフェリーは東日本海フェリーが運航していた。船の中は日本だった。ユジノサハリンスクで冬を過ごしたAは、ずっと閉塞感でうつ状態だった。

 Aの妻は外務省の医務官だった。うつ状態のAに稚内へ行って気分転換してくるよう勧めた。Aは喜んでその案に飛びついた。ネットで稚内の宿を探した。いくつかの宿にメールで予約を入れようとした。しかしどこも満室だった。6月から北海道の観光シーズンが始まっていた。満室をわびる一軒の宿からメールで他のホテルを紹介してきた。そこに決めた。これがAと宿のおじさんとの出会いだった。港からタクシーに乗った。宿の名前は『プチホテルJoy』だった。2階建ての小さなホテルだった。宿のカウンターにいたのは、ずんぐりむっくりのまるでプロレスラーのような初老の男性だった。3日間の滞在だった。Aは狂ったように買い物をした。飛行機なら20kgしか荷物は持っていけないが、フェリーは200kgまで無料で運べた。サハリンで溜まった閉塞感は、買い物と稚内の美味い海産物料理で春の雪解けのように消えていった。Aはジョイのおじさんとの会話も楽しんだ。おじさんを気に入った。再会を誓ってサハリンに戻った。Aは、サハリンにいた間に、5回フェリーで稚内を訪れた。妻の休暇で稚内のプチホテル・ジョイを起点にゴルフをしたりレンタカーで北海道北部を観光した。Aは、ジョイのおじさんと仲良くなった。ジョイのおじさんと話すことがサハリンのうっぷんを忘れさせた。東京から取り寄せた150kgのウーキングマシンを港まで自分の車で運んでくれた。心臓バイパス手術をして半年も経っていないAのためにジョイのおじさんは、宿泊するたびに荷物をすべてAのためにフロントから部屋へ、サハリンへ戻る日は部屋からタクシーまで運んでくれた。

 Aの妻が外務省をやめて日本の病院の勤務医に戻った。その年からAは毎年ふるさとの巨峰とりんごをジョイのおじさんに送った。以来再会することはなかったが年賀状は途切れたことはなかった。

 Aは私である。昨日稚内から宅急便が届いた。差出人がジョイのおじさんでなく奥さんの名前だった。稚内の魚の干物の上に封書が入っていた。考えてはいけない、そんな馬鹿な、いけないそんなこと考えては、自分を叱りつけながら慌てて封を切った。「稚内の秋も深まり朝夕めっきり冷え込む頃になりました。今年も主人の大好きな立派な葡萄をありがとうございました。早速主人の仏前の供えさせて頂きました。実は三年前に肝硬変が見つかり治療していました。けれども今年の三月二十八日に帰らぬ人となりました。毎年送って頂いた葡萄を二人で美味しく頂いた事を思い出すと涙があふれて参ります。本当に長きにわたりありがとうございました。どうぞお体ご自愛くださいますように。今まで頂いたご縁に心より感謝申し上げます。」

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« カマキリと祈り | トップ | 結婚記念日 »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事