アンチエイジングという言葉がある。妻も所属する抗加齢学会なるものもある。加齢つまり老化に抗う医学を研究しているらしい。その成果も多くの分野にでてきている。不老長寿は人間の夢である。
私も若かった時、三島由紀夫ばりに49歳を受け入れたくない、自分の老いざまをさらしたくない、とうそぶいた。ところが2.0を誇った目の視力が落ちた。まず近視。そして老眼。メガネをかける自分を想像できなかった。次に年齢が進むにつれてあちこち不具合が出てきた。顏にシミが増え、フスベが盛り上がり、髪の毛が薄くなり、脚がもたつく。徐々にではあるが、抗うこともなく老いを受け入れ始めた。49歳の壁も何もなかったように白旗立てて全面無条件降伏して受け入れた。
ある時を境に物忘れがひどくなった。特に外出してから家の玄関のカギを掛けたのかが分からなくなった。結局外出するたびに何度も家まで戻って確認した。不安でたまらなかった。最近変化が現れた。まず「カギを掛けたかどうか」を気にしない。記憶がなくてもこの十数年間の繰り返しで、首からつるしたカギでカギかけ動作を自覚しなくてもする。外出して何をするために出てきたかが最重要課題として、脳は私に認識させようとしてくれる。カギの心配は消えた。
書斎からトイレへ向かう時、大時計を見て、「そうだネジを巻かねば」と思う。トイレを終え書斎に戻る。「ネジ」は完全消失。次の日、同じことが起こる。以前なら凹んでしまっていた。今は違う。気にならない。何度でもできるまで挑戦する。メモが大きな助けとなる。頭の中の記憶は、パソコンへ移動させている。えらい時代になったものだ。
良いことも増えた。読書である。量は集中力の低下で減ったが、相変わらず読書は私の貴重な娯楽である。加えて以前読んだ本でも新たな感動をもって読める。「もうこれ読んだ」なんて決して思わない。映画もそうである。「もうこれ観た」なんて生意気なことを言わない。ありがたく新作のように観る。泣くときは泣き、笑う時は笑い、怒るときは怒り、驚くときは驚く。
私は老いを恐れていた。身体能力や機能の低下を遅くしたり改善するよう努力もした。しかしやめた。悪いことばかりではない。もう家のカギの心配も消えた。本はすべて新刊と思え、映画は常に封切りに戻った。身の回りには問題山積み。徐々にその問題の存在すら薄らいでくる。新たなエイジングのステージに突入した。“肯加齢”と名付けよう。