団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

リモコン操作名手

2018年09月27日 | Weblog

 『マスコミ 偽善者列伝』(加地伸行著 飛鳥新社 1389円+税)を購入して読んだ。コキイチ(古稀+1)は、失われた集中力、もともとそんなものは私にはなかったかもしれないが、のために読書がしんどい。久しぶりに一気読みした。以前加地さんの連載随筆『古典個展』を楽しく読んでいた。

 序章で「老生―――今やまさに老残の身。金はなし、他人は相手にしてくれず、行くところもなし。長生きすれば恥多し。やむをえず、コップ一杯のビールで、朝から晩までテレビを観ては、登場人物の発言を罵倒しておるわ。……読者諸公よ、他人についての悪口を聞くのは楽しいことでござるぞ。……」と加地さんは言う。ビール以外は私の日常。「面白そう」と私は投げ出すことなく完読。加地さんに全て賛成とは言えない。日本は言論の自由を認めている。最近の『新潮45』の杉田水脈国会議員関連の記事で新潮社は『新潮45』を休刊すると発表した。これには違和感を持った。

 カナダへ留学して初めてDebate(討議)の講義を受けた。その時私は日本人に足りない教育は“これだ”と思った。討議の題は「広島・長崎の原爆投下は是か非か」であった。最初“是”の学生は次の日“非”に替わって討論する。『新潮45』は、一方的にこの討議から逃げてしまった。紙上で堂々と意見を言い合うべきだった。今すぐ結論が出なくても討議を進めてゆけば、いつか解決の日を迎える。性急で感情的になれば、喧嘩で終わる。

 NHK総合テレビ番組『チコちゃんに叱られる』で人間の脳は、何か判断する時、目からの情報に83.0%耳11.0%、鼻3.5%、舌1.0%、手1.5%頼ると知った。テレビの影響力の大きさに納得がゆく。

 コキイチの私も加地さんではないが、テレビを観る時間が年齢を重ねるごとに多くなる。それは外出が減り世間との接触がなくなったのでテレビが社会の窓になったからだろう。そのままテレビを観ているとNHK以外観たくもない宣伝にイライラさせられるので私はニュース番組以外、録画を観る。我が家のテレビは2週間放送済みの6チャンネルの録画が観られる。便利である。何が便利って嫌な宣伝はリモコンで飛ばすことができる。お陰で“オシメ、ナプキン、痔の薬、世田谷食品、富山常備薬、過払い金、宗教新聞”など西部劇に出てくる2丁拳銃の使い手のようにリモコンを操作して観ないで済ませる。

 我が家のテレビを観るには、4つのリモコンを操作しなければならない。妻はいまだに操作できない。私の加齢であらゆる機械操作にうとくなってきている。それでも嫌いな人物、宣伝をリモコンでバッタバッタと切り捨てる。それがしたいばかりに複雑な操作をおぼえる。いい気分。その気分を詳しく分析してくれるのが加地さんの『マスコミ 偽善者列伝』である。読み終わって、久しぶりに痛快であった。

 一時テレビに愛想をつかしてラジオを聴いた。しかし高嶋秀武さん佐藤優さんなど出演者がどんどん交代してしまった。今は好きなラジオ番組は少ない。録画のテレビ放送、アマゾン、ネットフレックス、有料ケーブルテレビから選んでテレビを観る。私は観ていて聴いていて、メモを取りたくなる、そんな番組が好きだ。以前歌謡番組を敬遠していたが、最近歌に専念している歌手が歌う歌詞に感動することが多い。歌手は歌うだけの人が多い。歌詞も変わらない。調べも変わらない。だから安心できる。そう今のテレビは、何でも屋ばかり。自分の本職に一所懸命が良い。日本のテレビにもっと多くの一所懸命な本職に機会が与えられることを願う。


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大坂なおみと両親の国際結婚

2018年09月25日 | Weblog

  マルコメ味噌のテレビCMが胸を打つ。実写でなく漫画だ。畳屋の娘が、ある日イタリア人の婚約者を連れて実家に帰省する。結婚する報告のため。しかし父親は、認めない。二人はイタリアで結婚式を挙げた。そこへ父親がはるばる日本からやってくる。言葉も通じないなか、父親はマルコメ味噌の即席みそ汁を作ってイタリア人花婿の親族に配る。

 このCMは、国際結婚に対する日本人の受け止め方を表している。かつてセネガルに住んでいた時、日本企業の現地事務所で働く日本女性に会った。彼女はソ連のパトリス・ルムンバ名称民族友好大学(現ロシア諸民族友好大学)へ留学中にセネガルから留学していた男性と結婚した。二人は大学卒業後セネガルで暮らした。離婚して日本女性は一人で二人の女の子を育てた。その女性から聞いた話がある。彼女がセネガル人男性の婚約者と日本の両親に会いに行った。両親は猛反対。失意の中、二人はセネガルに戻った。父親は洋服の仕立て屋だった。後にセネガルへ夫のために父親は自分で仕立てた背広を送ってきた。採寸もせず父親は男性を目で見ただけで背広を仕立てた。背広は男性にピッタリだったという。マルコメのCMを観るたびにセネガルの日本女性を思い出す。彼女の娘二人は、フランスのソルボンヌ大学を卒業した。

 私が英会話教室をやっていた時、医療関係の仕事をしていた女性が英会話を教えて欲しいと私を訪ねてきた。彼女は結婚しない、と決めていたが、外国人との子供を欲しいと言った。そのために貯金した。アメリカへ1年間行って子供を作る。だから英語を習うと言った。強い目的意識がみるみる英語を上達させた。彼女はアメリカへ旅立った。そして2年後赤ちゃんと一緒に私を訪ねてくれた。私は日本女性のたくましさ、強さに敬服している。

 テニスのアメリカオープンで優勝した大坂なおみが日本での東レ・パンパシフィックオープンに出るために日本へ来た。マスコミは大騒ぎ。勝てば官軍。過去はチャラ。都合の良い時だけ良き理解者の振りができる。大坂なおみはまだ二重国籍者であって日本だけの国籍に決めたわけではない。週刊誌などの記事によれば、大坂なおみの両親(父親はハイチ系アメリカ人、母親は北海道根室出身の日本人)も結婚後、母親の父親は10年間絶交状態だったという。日本は変わったのか。まだまだ国際結婚、特に肌の色への偏見差別は根強く残っている。

 私は海外に暮らして感心したのは、国際結婚した日本女性のたくましさである。日本人男性が国際結婚して奥さんの母国に暮らす人にも出会ったが、海外では圧倒的に現地の男性と結婚した日本女性の方が多かった。

 日本国内でも陸上の短距離走者ケンブリッジ飛鳥やサニブラウン・ハキーム、バスケットボールの八村塁、野球のオコエ瑠偉、万波中正など続々と国際結婚した両親の子供達が活躍している。日本国内のみならず海外にも多くの国際結婚した子弟が活躍している。日本のような島国で閉鎖的な国の単一民族の純血を標榜する国民も変化を見せてきている。進化論的な見地に立てば、純血種などもうとっくに消えている。

 カナダの学校で学んでいた時、インディアンの同級生が神話を教えてくれた。昔、神様は土を焼くことによって、人間を作った。白人は生焼け。黒人は焼きすぎて、丁度よい焼き具合だったのがインディアン。私は「日本人が属する黄色人種はどうやってできたの?」と尋ねた。彼は笑って「白と黒とインディアンを混ぜると黄色になるんじゃない」と答えた。素晴らしい発想である。国際結婚には、多くの困難がひそむ。しかし両親もその子供達も世界をつなぐ架け橋となりつつある。ご都合主義で勝ち負けの結果に一喜一憂するだけでなく、普段から静かに自然に共存したいものである。


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樹木希林と北林谷栄

2018年09月21日 | Weblog

  役者という職業はいいなと思った。なぜなら役者はいろいろな人間の役をこなせる。私は最初、蒸気機関車の運転手になりたかった。次はバスの運転手。学校の先生。医者。建築家。作家と変わり、結局、塾の教師で終わった。優柔不断な性格は、一方で夢ばかりみている移り気でもあった。その点、役者は配役さえされれば、どんな人の演技でもできると思っていた。自分で選択するのではなく、与えられた役で蒸気機関車の機関手、バスの運転手、医者、建築家、作家なんでもござれだ。しかしやがて北林谷栄と樹木希林のように若い時から老女役を主に演じる役者の演技力に出会って、役者の見方が変わった。

 映画好きだった父の影響で幼い頃から父に連れられ映画館へ行った。映画館から帰ると亡き実母に観た映画の話を上手にできたと聞いた。実母が亡くなったのは私が4歳の時だった。だとすれば、どうやら4歳以前は案外記憶力があったのかもしれない。

 父親は演技にうるさく、あの役者はここが良い、この役者はあそこが悪いと批評していた。その影響を私も受け継いだようだ。

 現在の日本のテレビドラマに出演する役者で好きな役者はいない。私はイタリア映画、フランス映画が好きでよく観る。便利な時代である。ケーブルテレビの“ムービープラス”、最近では“アマゾンプライム”や“ネットフリックス”で映画も現地のテレビドラマを観ることができる。映画館へも良さそうな映画を選んで観に行く。外国映画多いが樹木希林が出演する映画は観たいと思う。しかしいつも観終わるとがっかりする。樹木希林の演技ばかりがすごくて周りの役者がかすんでしまうからである。主演者や脇役の演技に訴えるものが欠けている。日本にも良い役者は大勢いる。配役担当や監督の力量だと思うが、もっと観客が物語に自然に溶け込めるような役者を使って欲しい。あの役者の子供だからなどのコネや忖度ばかりが前面にでているのが現状である。これでは良い映画は作れない。

 父は宇野重吉をよく凄い役者だと褒めていた。宇野重吉が登場すると場面の空気が変わると、父は言った。私にはただの老人にしか見えなかった。だんだん目が肥えてきて演技が見えるようになってきた。北林谷栄は宇野重吉や滝沢修と劇団民芸を立ち上げた。宇野重吉と北林谷栄は盟友であった。北林谷栄の出演した映画『にあんちゃん』『キクとイサム』は、小学校の時、引率されて鑑賞した。映画の中の北林谷栄演じる老婆は、似てもつかないが私の祖母を思わせた。『阿弥陀堂だより』の北林谷栄は、私の継母に見えた。それが北林谷栄の凄さであると思う。観る者を映画の中に引きずり込む力である。北林谷栄と樹木希林は共演したことがある。映画『大誘拐RAINBOW KIDS』1991年作品。

 樹木希林が亡くなった。私にとって北林谷栄に次ぐ役者だった。演技もであるが、彼女の生き方、特に死生観に同感した。「自分が生きたいということが他人の迷惑にならないように」は胸を打った。

 どうやら芸能界では「世界で最も美しい顔100人」など見栄えや外見だけの芸能人一派と演技力で役者をする派があるようだ。私はもちろん後者を支持する。あの美形の歌姫、安室奈美恵さんがインタビューで「芸能人なんて何もできませんから」と言って引退した。これも見事。老婆を演じた樹木希林にも北林谷栄にも侘茶の精神である「美は不完全の中に存在する」を私は感じるのだがおかしいだろうか。近いうちに『大誘拐RAINBOW KIDS』をDVDで観る。


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砂漠と苔

2018年09月19日 | Weblog

  アフリカのセネガルで生まれて初めて砂漠に行った。もう20年近く前のことである。その規模に、その砂だけの荒涼さに圧倒された。自分はここに居ることはできないと感じた。

 9月9日から11日まで友人夫婦と福井県滋賀県を巡る旅をした。10日に私の妻の希望で勝山市にある県立恐竜博物館と平泉寺白山神社を訪れた。まず恐竜博物館で度肝を抜かれた。その後平泉寺白山神社へ向かった。苔庭が有名だと妻が言っていたが、私は京都の西芳寺を思い浮かべていた。ところが百聞は一見に如かず。まったく違った。平泉寺白山神社は遺跡であった。その面積に驚いた。総面積は15万平方メートルあるという。両側に樹齢千年と言われる杉やブナが並ぶ。総延長は1.5キロというから驚いた。友人の妻はナビに従って車を運転していた。ナビは、融通が利かない。でもそれがかえって良かった。普通、相互交通ができない狭い道なので、車が通らない。まさに何百年も時間をさかのぼったようだった。平泉寺白山神社の歴史が凄い。717年に開山されかつて、東西1.2キロ、南北1キロもの範囲に、南谷3600坊、北谷2400坊、48社、36堂、6000坊の院坊を備え、僧兵8000人を抱える巨大な宗教都市を形成したという。その形跡がほとんどない。残った寺や建物も改修されないままだった。

 苔も手入れをしているというより自然のままという感じで、大きな樹木の根元に広がっていた。観光客は私たちだけ。土産物屋や茶屋も数軒、入り口にあっただけ。石畳や石の階段を本堂に向かって進んだ。

 多くの観光客でざわついていた恐竜博物館から静寂の平泉寺白山神社に足を踏み入れた。深呼吸した。肺の中が洗われるように感じた。鼻に洗浄された空気の香りが通った。目に入る緑色の苔、太い幹の樹木の森。ここにかつて巨大宗教都市があった事実。

 私はセネガルで見た砂漠、チュニジアで見た古代ローマ遺跡を訪ねた時を思い出した。私は自分を異教徒であり外国人だと感じた。日本に帰りたいとさえ思った。砂塵が目に入る。のどがいがらっぽくなる。砂漠に畏敬を感じ、そこに生きる人々を称賛できたが、自分がここで生きることはできないと思った。

 生まれて初めて自分が葬られても良いと思う場所を見つけた。以前和歌山県の高野山へ行った。そこには墓の博覧会のように多くの著名人、企業の墓があった。私は冷静にそれらの墓を巡り、首を垂れた。しかし私はあそこに自分の亡骸を埋葬して欲しいとまったく思わなかった。平泉寺白山神社でここならと思った。墓はいらない。焼却したらその灰を苔の下や太い樹木の根元に置いて欲しい。

 平泉寺白山神社は現在、過去のような繁栄も栄華もない。そこがいい。すべて苔や樹木が覆い隠している。その片隅に私もいさせてもらえたら嬉しいと思った。友人夫妻のおかげで思わぬ素晴らしい旅ができた。

 妻に平泉寺白山神社の苔に私の遺灰を置いてくれと頼んだ。妻は言った。「やってほしいことはすべてきちんと文章にして、手続き書類と費用をちゃんと準備しておいてね」 私はあっという間に現実に戻された。簡単には死ねない。


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恐竜と私

2018年09月13日 | Weblog

 今から55年前私はカナダのアルバータ州のドラムヘラーという町を訪れた。友人一家が昼食に招かれ、私も同行した。大平原の中の小さな町だった。アルバータ州の田舎町はどこも似ている。アメリカの西部劇映画に出てくる開拓時代の町のようだった。ドラムヘラーもそういう町だと私は期待を持っていなかった。行って驚いた。普通アルバータ州はどこへ行っても麦畑ばかりなのに、未開拓の原野が丘陵をなしていた。その地域は“ミッドランド”と呼ばれていたが、友人は“バッドランド”だと言っていた。ドラムヘラー在住の友人の友人がその“バッドランド”を案内してくれた。何とそこには恐竜の化石がゴロゴロ転がっていた。恐竜の卵まで転がっていた。その辺はどこを掘っても化石が出てくると言っていた。

 9月9日からコキイチ(古稀+1=71歳)友達夫婦と私たち夫婦の4人は、彼らの車で福井県を訪れた。友人が福井で用事があり行くので一緒に福井を巡ろうと声をかけてくれた。有難いことである。私の妻は以前から福井の恐竜博物館へ行きたいと言っていた。なぜかは尋ねていない。妻が恐竜に興味を持っているなどと想像すらしたことがない。福井の恐竜博物館の休館日まで調べて旅行の日程を変更させるほど妻は真剣だった。

 行って驚いた福井の恐竜博物館は、カナダのドラムヘラーにあるロイヤル・ティレル古生物博物館と姉妹館契約を結んでいるという。ロイヤル・ティレル博物館は、1985年に開館している。私がドラムヘラーを訪れた20年後である。

 私は落ち込んだ。自分はどうしてこんなに運から見放されているのだろうかと。当時ドラムヘラーは何らかの規制がかかっていただろうが、個人所有の土地に規制はなかった。案内してくれた友人の友人は、私に何回も恐竜の卵の化石を持っていきなさいと勧めてくれた。私は恐竜にまったく興味がなかった。もしあの時恐竜の卵の化石を日本へ持ち帰っていたら…。私の人生には「…たら、…れば」が目立つ。

 留学したカナダの学校は、アイスホッケーやカーリングが盛んだった。アイスホッケーはあまりにも激しいスポーツだったので可能性はゼロだったが、当時カーリングは女性や年寄りのスポーツと言われていた。カーリングを本気でやっていたならば、オリンピックの日本カーリングチームを率いて、「監督、そーだね~」とか女性選手に言われていたかも。

 まだ専門学者にしか注目されていなかったドラムヘラーでコツコツと恐竜のコツ(骨)を集め研究していたら、今頃は福井恐竜博物館の館長になれていたかも…。「…たら、…れば」は無限の夢の続きとなる。

 福井恐竜博物館で目を輝かせて2億5千年前の恐竜時代にどっぷり浸かっていた妻の横で、私はたった55年前のドラムヘラーの回顧にふけっていた。あの時恐竜の卵の化石を持ち帰っていれば、ここに展示され、寄贈者の名前が入れられていたかも…。いやさもしい私のことだから、テレビ東京の「開運、なんでも鑑定団」にでも出品して金銭に換えていたかも。

 いずれにしても私がカナダから恐竜の卵の化石を持ち帰らなかったことは、正しいことだった。福井県立恐竜博物館もロイヤル・ティレル古生物博物館も人類の宝である。私ごとき者の出番はない。それがわかっただけでもよしとしたい。


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サマータイム

2018年09月08日 | Weblog

 お詫び:都合で9月11日(火)の投稿を本日に変更します。

 夏時間で忘れられない失敗がある。アフリカのセネガルに住んでいたが、妻がパリの会議に出席するために出張した。私は同行してネパールにいた時一緒だったTさんに会うためにオランダのハーグへひとりで電車に乗って行った。土曜日だった。Tさんとは日曜日の午前10時にハーグの駅で会う約束だった。その頃はまだ腕時計をしていた。10時にハーグ駅に行った。会う場所としていた喫茶店にTさんがいた。でもとても不機嫌そうだった。彼は言った。「約束、10時でしたよね」私は自分の腕時計を見た。9時55分だった。私の腑に落ちないという態度に語気を強め、「今日から夏時間って知っていました?」

 オランダでは3月の最終日曜日の深夜2時に時計を1時間遅らせる夏時間制度がある。私はそのことを失念していた。Tさんは待つのが嫌いな人で限界は10分と公言していた。Tさんは機嫌を直してハーグの町を案内してくれ有名なオランダ料理の店で昼食までご馳走してくれた。ネパールの思い出話に花を咲かせて楽しい時間を過ごした。でも私の心には大きな失敗として深い傷が残った。

 夏時間はカナダへ留学していた時に経験済みだった。カナダでは3月の第2日曜日の午前2時に実施された。3月といえば、まだ雪が降る真冬であった。6月の中旬まで雪が降るところだった。日の出は午前9時過ぎで、日の入りは午後3時頃。夏なんてまだまだ先の3月から11月まで夏時間は続く。最初の学校は全寮制だったので、夏時間になり、時計が1時間進んでも寮内のベルで起床就寝時間が知らされたので、何とか生活できた。カナダで夏時間に戸惑うことなく受け入れられたのは、朝夕の明るさ暗さと夏休みの長さだった気がする。夏は朝3時に夜が明け夜の10時ころまで明るく、冬は午後3時に陽が沈み、朝10時に朝日が昇る。時間が1時間早くなろうが遅くなろうが大した違いを感じない。

 日本政府は2020年のオリンピックにそなえて夏時間の導入を検討し始めた。やめておきなさい。こういう付け焼刃的な変更は混乱を招くだけ。そんな折、EUでは夏時間をやめようという機運が出てきたという。なんでも欧米の真似をするのが良いことという時代は終わっている。ましてや今やITやAIの時代である。これらの変更は経費がかかり、思わぬ問題が起こりかねない。もし日本政府にこれだけの変更を実行できるだけの力量があるならば、日本政府がなさねばならない他の案件はいくらでもある。現政権の中で誰がこのような思い付き行き当たりばったりの案を作成発表するのかは知らない。どのような変更も10年、20年いや100年先のことまで考えることなく決定されてはならない。今回の台風21号で関西空港の防波堤、北海道の大地震での大停電、お得意の「想定外」を連発して頭を下げればよいものではない。想定外を見据えて準備検討するのが専門職がなさなければならないことであろう。

 私の好きなグループ、サーカスが歌う『ミスターサマータイム』の最後のフレーズに「♪ミスターサマータイム さがさないであの頃の私を ミスターサマータイム あれは遠い夏の日の幻♪」(作詞 ピエール・ドラノエミッツエル・フュガ 日本語詞 竜 真知子)がある。夏時間を探さない。夏時間は夏の日のま・ぼ・ろ・し。


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猛暑豪雨台風地震

2018年09月07日 | Weblog

  震度7。また大地震が発生した。今度は北海道である。地震に遭うたびに小学生だった時、ブツブツ独り言を言っていた乞食のおじさんを思い出す。おじさんは矢出沢川にかかる橋の下で寝起きして缶カラを使って小さな火を焚き煮炊きしていた。近所の子供達はおじさんが食べ物を見つけに町を歩き回るとき、ゾロゾロついて行った。おじさんはいつも「地震が来て、地面が割れてみんなそこに飲み込まれて死んでしまうんだ。もうすぐだ。みんな死んでしまう」と言っていた。私はちょうどその頃、死にとてつもなく恐怖を持っていた。夜、柱時計が「カッチカッチカッチ」と音をたて、夜汽車が「シュシュポッポシュッシュポッポ ボーッ」の走る音や汽笛の音を聞いて、時に限りがあっていつかは死ぬ。あらゆる音が聞こえなくなるのだと恐れ、眠れなかった。そこへおじさんの地震に関するブツブツ語りである。夜布団に入るのが恐くてたまらなかった。

  あれからすでに60年近くが経った。今年コキイチ(古稀+1歳)を迎えた。子供の時の死に対する恐怖はずっと軽くなった。2001年に糖尿病の合併症の狭心症で心臓バイパス手術を受けた。手術前『辞世帖』を書いた。それが言うならば生前葬となった。手術は1回目が失敗したが他の病院で再手術を受け今も生きていられる。助けてくれた医師が言った。「もう大丈夫ですよ。いただいた命大切に生きてください」 私は思った。「これからの人生はオマケ、感謝して生きよう」 54歳で死んだと思えば、死への恐怖はずっと軽くなった。

  猛暑でこの夏は家にこもって身を潜めるような生活を続けている。恐ろしい殺人事件や関係者などの怠慢で拘置所から凶悪な容疑者が逃亡して見つけることができないなどが続いた。その残忍さ愚かさお粗末さに対して、私は勝手に怒っていた。猛暑の中ゲリラ豪雨があり台風も来た。自然が容赦なく襲う。自然災害は人間がしでかす事故事件と規模が違う。私は怒るのでなく、ただその圧倒的な脅威に恐れおののく。

  今回の北海道の地震、厚真町などの丘陵地帯の山崩れの規模は、恐怖以外の何もでもない。また地震によって北海道の全域で停電になり生活に大きな支障をきたしている。現在の生活は電気なしでは考えられない。私たち夫婦は、ネパールやセネガルでほぼ毎日停電や水道の断水を経験した。それが当たり前なら生き抜く知恵や耐性が出てくる。日本はその点恵まれすぎていて、電気水道などの生活や産業の社会基盤は、正常な状態が恒常化していて、それがなくなると途方にくれてしまう。でも私たち人類は、この地球上で幾多の危機を乗り越え今につなげられてきた。昔を教訓にすれば、前進できる。

  私は小心者である。東日本大震災の時も数週間鬱状態に陥った。テレビの画像が観られなかった。観ると涙ばかりが出た。そんな時私はモヤシを買ってきてハサミで根を切り、下ごしらえした。無心になれた。今回私はトイレの便器を掃除して磨いた。それだけでは気が晴れなかったので、汚れていた湯沸かしポットを綺麗にした。真剣に金属磨きの布で擦った。食器用洗剤も使った。それでもこびりついた汚れは落ちなかった。ダスキンの“天然石けん入りスチールウールたわし”の『S.O.S』も使った。一時間でピカピカ。少し楽になった。夕方帰宅した妻が湯沸かしポットを見て言った。「凄い、ピカピカだ」 私の顏がほころんだ。


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台風21号と通勤妻と隠居

2018年09月05日 | Weblog

  9月4日火曜日午後4時頃、妻からメール。「新幹線が止まっているので在来線で帰ります。」 嫌な予感がした。2011年3月の東日本大震災。妻はあの日結局帰宅できず職場に残った。私は家に一人でいた。家の中に散乱した壊れたモノを集めた。崩れた書籍をもとに戻して時間を過ごした。考えずにいようと思えば思うほど、もしこのまま妻と別々な場所で死んだら…などと妄想した。

 妻が4時間かけて在来線でいつもの私が車で送り迎えしている最寄り駅にたどり着いた。平常なら在来線でも1時間半で着く。妻が乗った在来線の電車はあちこちの駅で運転を見合わせ20分30分と停車したという。特に河川にかかる鉄橋の前で強風を避けるために停車した時は恐かったと話した。私は妻が無事に戻ってきたくれたことでガクッとしてしまい、彼女の声を聞き取れなかった。

 家に入っていつもより2時間遅い夕食が始まった。隠居の私は一日中何度も同じ報道を目にしている。妻は違う。妻にとって9時のNHKニュースは一日の総まとめになる。台風21号の被害状況に目がくぎづけになる。トラックが強風で横倒しにされた。大きなタンカーが関西空港の連絡橋に激突した。私には妻が何を思っているか分かる気がした。でも私は言葉に出さない。新幹線であろうが在来線であろうが、絶対に安全であることはない。いつ自分が乗った新幹線や在来線の電車が事故事件災害に遭うか誰にも分らない。妻は公共交通機関を利用して通勤する。私は家に残って隠居している。立場は違うが、どちらにもお互いを心配する種がある。妻は時々私からメールがないと電話してくることがある。妻は私が意識を失って家の中で倒れているのではないかと心配だったから、と言う。ただ家に残っている私にも年齢による健康問題が常時付きまとう。

 台風21号はすでに熱帯低気圧に変わって、日本海を北上して行った。自然災害は恐ろしい。最悪の事態を想定して事前に避難退避することも大きな災害に遭うたびに改善進歩されてきている。それでも犠牲者は出てしまう。

 私たち夫婦もできればいつも一緒にいられればと思うが、生きてゆくには現状維持しかない。だからこそ一緒にいる時を大切にしたい。家で4時間妄想に身を任せた後、やっと駅で出迎えた時、言葉にならない感動が台風のように私を通り抜けた


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ケフィアと暗い道

2018年09月03日 | Weblog

 数日前、テレビのニュースで「干し柿など加工食品のオーナーになると利息が得られるとうたって多額の資金を集めた通信販売会社「ケフィア事業振興会」(東京都千代田区、鏑木(かぶらき)秀弥社長)が、オーナーに対する支払いを遅延しているとして、消費者庁は31日、消費者安全法に基づき事業者名を公表した。支払い遅延による同法の適用は初めて。ケフィアは消費者庁に対し、未払い分は全国で約2万人、約340億円に上ると説明。遅延理由としてシステム故障や解約による資金減少を挙げているという。」と放送された。

  「ケフィア?」 どこかで聴いたな~。私は毎日「この顔どこかで見たな~はて何という名だったっけ?」「これと同じような話、確か本で読んだな~誰の何ていう本だったかな~」などと自分の記憶に対峙している。井上陽水の『夢の中へ』ではないけれど「♪探し物は何ですか?………探すのをやめた時、見つかる事もよくある話で……♪」の夢と現実を行きつ戻りつする。探し物は見つかった時の喜びが大きい。記憶がよみがえった時は、もっと嬉しい。

  私は「ケフィア」を思い出した。解決のきっかけは、「メープルシロップ」だった。以前「ケフィア」という会社でメープルシロップを買った。買った理由は、「カナダ大使館」が関わっていると私が受け取ったからである。カナダと聞くと私は自己制御不能状態になってしまう。思い入れが強い。カナダの学校へ留学する以前、留学ビザを得るために東京のカナダ大使館へ何度か軽井沢から通ったことか。そんなことから私は一方的にカナダ大使館に想いを寄せてしまう。もし私が物事に論理的に対応できるなら、カナダ大使館に「ケイファとの関係」を問い合わせたであろう。届いたケフィアのメープルシロップには、カビのようなものが表面にあり捨てた。私は執念深い。期待を裏切られると相手を無視する。ケフィアからその後モノを買ったことはない。今回の訳の分からないネズミ講まがいのオーナー制度やらの勧誘の郵便物も一度も封を開けることなく裁断機で粉砕していた。

  私はメープルシロップが好きだ。カナダに、『Pigs in blanket』(毛布にくるまった豚)というパンケーキが有名なチェーン店『The original House of Pancakes』があって、そこでパンケーキを食べるのが何よりの楽しみだった。毛布にくるまった豚も好きだったが、普通のパンケーキにたっぷりメープルシロップをかけて添えられたカリカリのベーコンと食べる朝食セットが忘れられない。

  カナダ大使館がどうのこうのの宣伝文句にまんまと騙された私は、その後メープルシロップは近くの成城石井でカナダ産のモノをずっと買っている。友人の娘さんがカナダに嫁いでいて年に数回帰国するたびにメープルシロップをお土産に持ってきてくれる。成城石井のメープルシロップにも友人の娘さんからいただくメープルシロップにもビンの中に白い浮遊物を見つけたことはない。

  オーナー制度に加入した約2万人の340億円もの未払金がどうなるのかわからない。おそらく全額返済とはならないであろう。この手のうまい話の結末は、いつもうら悲しい。騙す側と騙される側。毎年こう言った投資話でどれだけの人の虎の子が消えてしまうのか。気をつけよう、甘い言葉(うまい儲け話)と暗い道。


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