団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

鎮静剤の効き目

2022年06月30日 | Weblog

  脚のカテーテル治療のための、2泊3日の入院が終わった。有給を使って休みを取った妻が、東京の病院まで迎えに来てくれた。駅から病院までは、歩いて10分くらい。どうしてあの病院が、ああも感じの悪い受付係を置いているのか分からない。入院を5回したが、毎回、受付の応対の悪さを感じた。私の性根が悪いのか。それとも今の若い女性は、皆こんなものだろうか。この病院の優しい看護師とは雲泥の差だ。何があろうとも、一刻も早く病院から抜け出したかった。刑期を終えた囚人も、きっとこんな気持ちなのだろう。

 病室も暑かったが、外はその比ではなかった。こんな日差しの強い中、妻をあまり歩かせてはいけないと、駅に向かって歩いた。駅のすぐ近くの交差点に来た。信号は赤だった。妻は、額の汗をハンカチで拭っていた。私は、汗をかいていない。妻の姿が眩しい。赤信号を無視して、道路を横切って、妻に駆け寄り抱きしめたい衝動にかられた。長い。信号が青に変わるのが長かった。やっと変わった。妻は、他の歩行者の邪魔にならぬよう、歩道の端にいた。抱きしめることはできなかった。駅に急いだ。ちょうど家に帰る方向へ向かう電車に乗ることができた。

 電車は、空いていた。この暑さで人出も少ないのだろう。良いことだ。家から東京に、ただ私を迎えに来るだけに、猛暑の中とんぼ返りをしてくれる。病院から抜け出せた喜び。妻がわざわざ迎えに来てくれたこと。暑さを忘れることができた。電車の中で、病院での話をした。途中、買い物をして帰宅した。家は良い。玄関を入って、部屋の窓を開けた。風が部屋を通り抜ける。裏山の木々を下った風のせいか、川の流れの上を通過した風なのか、気持ち良い。

 今回の治療の結果を妻に話した。担当医師からもらったカテーテル治療の画像のコピーを見てもらった。治療前と後では、全く違う。

  施術後、担当医師がコピー画像を持って説明に来てくれた。今回、私は、施術前に鎮静剤を使ってもらい施術中は眠っていた。前回、施術中、医師の話していることが気になっていた。看護師が施術を終わってから、「先生が話していることで不安に感じたのではないですか?次回はねむっている間にやってもらった方が良いですよ」と言ってくれた。今回、その看護師ではなかったが、きちんと受け継ぎされていた。眠ったまま、治療を受けた。途中の経過は、まったく分からない。約1時間の施術だったらしい。終わった、と告げられたことは薄っすら覚えているが、どうやって病室に戻ったのかは覚えていない。目が覚めたのは、夕方だった。病室でぼんやりしていた。担当医師が来て、治療について説明してくれた。

  私の目の前に置かれたコピーに、私の脚の血管が写っていた。1枚は、施術前のもの。もう1枚は、施術後のもの。「嘘でしょう!」と思い、同時に嬉しさがこみあげてきた。何度も「ありがとうございました」と医師に言った。「2週間後に結果を確かめたいので、来院してください。数日で脚が楽になったのを感じられると思います。後は、歩いて運動を今まで以上にやって、血流を保てるよう努力してください」

  眠ったままで、これほどの治療を受けられたことを感謝したい。明日からもっと歩くぞ。


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かしゃっぱ

2022年06月28日 | Weblog

  再入院の日がだんだん近づいて来た。私も妻もできるだけカテーテル施術の話を避けていた。できるだけ普段通りに生活するようにしていた。日曜日、天気予報で最高気温が30度を超すと言っていた。日中とても散歩どころではなさそうだ。妻と朝食前に散歩しておこうと外に出た。午前5時30分を過ぎていた。すでに太陽は登っていた。陽ざしは、強く肌に当たると熱かった。太陽と地球の距離から考えると、いったい太陽は、どれだけ熱量があるのかと考えてしまう。冬は、太陽の温かさを求めて、散歩は、日向を歩く。暑くなると、今度は日陰を求めるようになる。妻と川沿いの坂道を上がって行った。川の流れを見ながら、話しながら歩いた。川風が涼しく感じた。

  川沿いの道から、国道に入った。ある家の脇に小さな柏の木があった。木は小さかったが葉がたくさんついていた。今、私が住む所で柏の木を見ることはほとんどない。懐かしく思った。柏の葉の形は、独特である。私が生まれ育った長野県では、柏の葉を“かしゃっぱ”と呼んだ。もちろん方言である。この“かしゃっぱ”という方言は、茨城、千葉、新潟にもあるらしい。方言はいい。井沢八郎の「あゝ上野駅」が、自然に思い浮かぶ。

  “かしゃっぱ”と言えば、母方の祖母を思い出す。小太りだったが、足腰が丈夫だった。89歳でピンピンコロリを絵にかいたような亡くなり方だった。亡くなる前日、大好きな荒井医院の先生に高血圧の診察を受けに、2キロの道のりを歩いて往復していた。同居していた家族に「おやすみ」と言って寝室に入った。次の朝、起きてこなかった。大往生だった。私は、祖母をばあちゃんと呼んだ。ばあちゃんは、子供を9人産んで育てた。私の生母は、次女だった。次女の子である私が、4歳で母を亡くしたのを不憫がって、可愛がってくれた。だから私は、よくばあちゃんの家で過ごした。お陰でいろいろな事を経験できた。ばあちゃんは、味噌も醤油も自分で作った。邪魔だっただろうが、そばでばあちゃんの仕事するのを見ていた。ウドンを打つのも上手かった。内職というか、山に登って、“かしゃっぱ”を採るということもしていた。80歳を過ぎても小遣い稼ぎになるからと山に入った。採ってきた“かしゃっぱ”を10枚ずつに束にして、業者に売った。金額を正確には覚えていない。信じられないくらい安かったと思う。葉をキレイに揃えて、葉柄を藁で縛って束ねた。手を抜かない。芸術品のようだった。そんな完璧な仕事をするばあちゃんの手は、枯れかかった“かしゃっぱ”のようにゴワゴワだった。そのゴワゴワの手で、売れ残った“かしゃっぱ”を使ってかしわ餅を作ってくれた。餡は小豆でなく味噌餡だった。

  ばあちゃんのかしわ餅は、葉が絶品だった。何て言ったって、ばあちゃんが自分で山の中に入って、葉を摘んできたのだから。できるなら食べてしまいたいくらいだった。もちろん柏の葉は、食べられない。ここが桜餅と違う。もち米は、自分の家の田でとれたもの。味噌餡の味噌も自家製。

  先日、駅ビルの中の店でかしわ餅を見つけた。6個入りのパック。小さい。一口サイズだった。味噌餡はなかった。でもサイズは、糖尿病患者向きと解釈して購入。すべてに洗練されているが、“かしゃっぱ”がどこで採ったものかは、わからない。口に入れた。まずくはない。でもばあちゃんの“かしゃっぱ”で包んだ味噌餡のかしわ餅を口にした時のあの感動がない。

  ばあちゃんが今の私と同い年だった時、バリバリ働いていた。今の私は、74歳で、もうボロボロだ。でも医学の進歩のお陰で、ボロボロで詰まった血管をバルーンで拡張させて、ステントを埋め込んでもらっている。感謝なことだ。89歳は無理でも、もう少し生きていたいと願っている。


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親は何やってるんだろうね

2022年06月24日 | Weblog

  テレビのニュースで「18日午後5時半すぎ、石川県白山市森島町の用水路で親子二人が流され、救助されたが19日未明死亡が確認された。男の子はフェンスをよじ登り、誤って転落した」と放送された。妻と夕食をとりながらテレビのニュースを観ていた。私は「親は何をやっているんだろうね」と妻に言った。最近、こういう親の不注意による事故が多い、とも言った。通り一遍にニュースで伝えられることを、鵜呑みにしていた。ところが次の日、ネットのニュースに次のような記事を見つけた。「死亡した男の子は、弟の紙飛行機が用水路に落ちたので、それを拾おうとして、柵を乗り越え、用水路に入った。そして溺れた。それを助けようと母親が用水路に入って、結局二人とも溺れて死亡した」

 前の晩に私は、「親は何やってるんだろうね」と言った。これは恥じるべき発言であった。物事の真実も知らずに軽率な発言だった。親は、親として当然のことをなした。亡くなった男の子も、弟想いのお兄ちゃんだったのであろう。親子3人で散歩でもしていたのだろうか。用水路があるというからには、田園地帯に違いない。事故さえ起こらなければ、ほのぼのとした光景でしかない。お兄ちゃんが、弟のために作った紙飛行機なのだろう。弟が飛ばした紙飛行機が、用水路に落ちてしまった。お兄ちゃんは、咄嗟に柵をよじ登り、用水路に飛び込んだのだろう。今の時期、田んぼに水が引かれている。用水路は、水で溢れ、流れが早かった。そして溺れた。それを見ていたお母さんが、飛び込んだ。お母さんもお兄ちゃんも溺れてしまった。

 この事故で山梨県道志村のキャンプ場の女子児童が行方不明になった事件を思い出した。この時も、私は、原因が親の不注意だと、辛辣に捉えていた。自分に関係ないと、やたらに厳しくなる。言いたい放題。特にテレビは、私の口頭による罵詈雑言、思考における軽蔑中傷のはけ口となる。まるで日頃のうっ憤を晴らすかのようだ。冷静に考えれば、ニュースで知る事故事件が、自分の身に、いつ起こっても不思議でも何でもないのである。自分に火の粉が降りかからないのは、ただ運が良いだけ。

 生きて毎日の日常を繰り返していると、魔が差すことがある。常に完璧な警戒を継続することなど不可能である。先日、私がスーパーで女性のカートをぶつけられたのも、偶然である。あの時間、あの場所に私が、あの女性がいなければ起こらなかったことだ。過失に対しての責任を取れても、起こったことをなかったことにはできない。魔が差すことを回避することは、人間にはできない。

 息子の長男に難病指定の病気であると診断された時、慰める言葉もなく見舞った私に息子が「なるようにしかならないから」と言った。一種の悟りに聞こえた。どんなことが起こっても、人は生ある限り、生き続けなければならない。そうやって世の中は、続いて来た。

 私は、来週、再び入院する。74年間生きてこられた。小心者の私は、いつも些細なことでジタバタする。いつだって往生際が悪い。なるようにしかならないのなら、なるように掛けてみよう。担当医師が、「脚の治療でもっと歩くのが楽になります」と言ってくれた。そうなるよう願う。

 ビクビク、ハラハラしながら生きてきた。石川県の弟の紙飛行機を拾ってあげようとしたお兄ちゃんは偉いと思う。その彼を助けようとした母親も偉い。私は出来そうもない勇気ある行動だったと思う。ただ残された紙飛行機を飛ばした弟の今後を心配する。どうかお兄ちゃんとお母さんの分まで、二人のように優しく強く生きてほしい。

 


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へぎ蕎麦

2022年06月22日 | Weblog

  妻が珍しく通販で取り寄せて欲しいと言った。妻は、私と違って物欲が低レベルである。特に食べ物に関しては、私にマインドコントロールされているかのように要求を出してこない。その妻が、口にしたのが“へぎ蕎麦”の乾麺。先日、友人から“へぎ蕎麦”とやらをもらった。乾麺だった。友人は、美味しいものを良く知っている。その友人が届けてくれるモノへの期待は大きい。でも私は内心「乾麺、特に日本蕎麦の乾麺は、一度として、うまく茹でた経験がない。どうせまた大して美味くないだろうね」と思った。美味かった。今まで自分で茹でて食べた乾麺とは、まるで違った。妻が動いたのが良く分かった。

  私は、子供の頃から蕎麦が嫌いだった。理由は、茹でて水で洗っただけの麺に、ただ汁を付けて食べるという、あまりの素っ気なさだった。私が食に求めていたのは、白いご飯、ギラギラの油っけ、肉、魚、メチャクチャ栄養があるモノ。アメリカ映画でアメリカ人が食べているようなゴテゴテした食べ物だった。加えて蕎麦好きな父親に「蕎麦は噛まないで、喉越しに味合うモノだ」と江戸っ子のような口調で言われた。これには反抗した。学校の先生は、「よく噛んで食べろ、できれば百回以上」と教えられていた。百回は無理としても、できるだけ噛むよう心掛けていた。喉越しって、噛まないで飲み込んだら、喉詰まらせるに決まってる。ああ面倒くさいと蕎麦から遠ざかった。

 信 州上田には、蕎麦屋が多い。外食できるような経済状態ではなかった。かと言って、家で蕎麦を食べた経験もない。上田にへぎ蕎麦の店はないと思う。祖母が時々、ウドンを手打ちで作って、私を呼んで食べさせてくれた。ウドンは嫌いではなかった。

  私には、親友のKがいた。彼は私と同じ年だった。彼が69歳の時、癌で逝ってしまった。商社に勤めていた。海外勤務が多かった。妻の海外勤務に同行していた私と会える機会は、少なかった。ある時、横浜の彼が勤める会社の倉庫を訪ねた。夕方だった。「飯喰った?」と聞かれた。「まだ」と答えた。「へぎ蕎麦好き?」 私は“へぎ蕎麦”を知らない。答えに窮した。「まあ、美味いから喰ってみな」 案内された事務所のテーブルの上に、上に布巾をかけた2段に重ねられた箱があった。彼が布巾をパッと取った。箱の中に緑色っぽい蕎麦が綺麗に並べられていた。量が多い。2段重ね。きっと事務所の他の人の分もあるのだろうと思った。でもその日事務所には彼しかいなかった。えッ、これ一人分。彼は巨漢だ。相撲取りぐらい太っている。体重は、ゆうに100キロを超えている。

  私は、遠慮した。あとで鮨でも食べて帰ろうと考えた。彼は、みるみるうちに、一箱たいらげた。そして2箱目に箸をつけた。「こんな美味い蕎麦はない。海外にいて、一番食べたいと思うのがへぎ蕎麦」

  昨日、宅急便で新潟県十日町から“へぎ蕎麦”が届いた。夕方、妻が帰宅した。梱包を開けた。中にギッシリへぎ蕎麦が詰まっていた。胸にこみ上げるものがあった。Kのことを思い出した。彼が癌で入院する前、電話をくれた。「見舞いに来るな。必ず治して会いに行く。一緒に十日町にある美味いへぎ蕎麦食べに行こう」 待てど連絡は、来なかった。奥さんから訃報だけが届いた。十日町にも連れて行ってもらえなかった。約束を守らずに、Kは死んだ。定年退職したら、二人でこれをしよう、あれをしようとの約束も反故にされた。

 へぎ蕎麦が大好きだったK。やっと私も“へぎ蕎麦”の美味さが分かってきた。Kに、も一度会いたい。


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父への手紙

2022年06月20日 | Weblog

  今 年も6月19日の父の日に、二人の子供からプレゼントが、宅急便で配達日配達時間指定されて届いた。嬉しいが、やはり今年も後ろめたさは消えていない。私は、二人の子供に対して、決して良い父親ではなかった。普段、子供たちと離れて暮らしているので、罪悪感は、影をひそめている。だがこの父の日とやらが来ると、「お前は、良い父親ではなかった」という、うしろめたさが襲ってくる。同時に私自身の父親に対しても、良い息子でなかったと後悔する。

  平成元年9月5日私の父親は、長野県の佐久病院の病室で72歳の生涯を閉じた。病院のベッドの脇の引き出しから、父が入院する前に、渡した手紙が出て来た。ずっと付き添っていた妹が「何度もお兄ちゃんの手紙読んでいたよ」と言った。私は、手紙に、いかに私が親不孝であったかを書いた。そして無理に無理を重ねて金を用立てて、カナダ留学までさせてくれたことへの感謝を伝えた。

  私の父は、尋常小学校へ数年しか行かせてもらえなかった。父親を7歳で亡くした。丁稚奉公に出た。東京の製パン会社で働いていた時、同郷の母親と結婚した。私の姉が生まれるとすぐ徴兵され中国へ行った。終戦後、疎開していた上田に戻り、私が生まれた。私が4歳の時、母がお産の最中に、27歳で亡くなった。赤ちゃんと一緒に。男手で4人の子供の面倒をみた。その後、私は東京の叔母の家、直江津の叔母の家にと預けられた。母親の妹が父に嫁いできた後、上田に呼び戻された。

  そんな父の苦労を知っていたにも関わらず、私はわがままに振舞った。自分の境遇なら、どんな身勝手も許されて当たり前と思った。何という愚か者。カナダ留学から帰国すると、学歴の無い父親をうとましくさえ感じた。思いあがるにも程がある。罰当たりとは、私のような子のことだ。結婚して私も2人の子の父親になった。そして結婚9年で離婚した。離婚して二人の子育てをした。そんな私を父は支えてくれた。二人の孫を可愛がってくれた。

  私のようなダメな父親でも、子供たちは、素直に成長してくれた。二人とも、大学を卒業した。今では家庭を持ち、子供も生まれた。それぞれが家庭を大切に堅実な生き方をしている。

  子供たちが大学を卒業するまでは、私自身のことは考えないと決めていた。そうなるちょっと前、縁あって再婚することができた。離婚して14年後だった。その後、妻の仕事の関係で、海外赴任に同行した。日本を離れたことが転地療法になった。私の過去のヘドロのように、心に澱んでいた、悪い思い出、私の至らなさ、後悔、懺悔を薄めてくれた。

  妻は海外勤務を辞めて、日本に戻った。海の近くの町に終の棲家を持った。今は妻と二人、静かにその家で暮らしている。妻にも“母の日”に子供たちからプレゼントが届く。父の日の私へのプレゼントより遥かに私にとって嬉しいことである。

  私は亡き父に、妻と幸せに暮らしていることを、手紙を出せるなら、伝えたい。私は親不孝な息子だったけれど、最後の最後に、父への便せん10数枚に想いの丈を書いた手紙を渡したことが、父への最高のプレゼントあったと信じたい。


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カートで膝カックン

2022年06月16日 | Weblog

  「大丈夫ですか?」 真っ暗な井戸の底にいる私に、光が射しこむ10メートルくらい上から、女性の声が聞こえたような気がした。私は、ショッピンングカートにもたれかかっていた。何が起こったのか。

 

 5月30日、腸骨動脈の閉塞部をカテーテルで治療施術を受けた。2泊3日の入院だった。体への負担が、思っていた以上に重かった。そもそも今回の治療は、予定されていたものではなかった。最初の心臓と脚の血管の状態をカテーテルで検査中、偶然ヘソの近くの右脚に血液を送る腸骨動脈に重度な閉塞が見つかった。心臓のまわりの血管の閉塞の悪化は、なかった。両脚の膝から下の動脈の閉塞は、早い治療が必要だと診断された。私は、腸骨動脈も脚の動脈も一度に治療できるものと高をくくっていた。カテーテルのお陰で、以前は、開腹など外科的な手術でしかできないことも、患者側の負担を少なくして治療されるようになった。それでも私は、カテーテルが恐い。結局脚のカテーテル施術は、後回しにして、まず腸骨動脈の施術を5月末に受けた。

 

 14日近くのスーパーへ買い物に行った。入り口でショッピングカートを手にした。いつものカートと何か違う。いままで店専用のカゴを縦に置いていたのに、横向きになっていた。幅がある。それに前のカートより重い。私は危険だと感じた。施術後、私の脚は、施術前よりずっと痛みが増した。歩くのもトボトボ。以前のままの縦にカゴを置く、幅の狭いカートもあったので、それを使うことにした。

 

 店に入った。先日妻と買い物に来た時、妻がいつも買っているジンが品切れだった。店員が「当分入荷の予定がない」言っていたので、本当かどうか確かめようと思った。あった。たくさん並んでいた。反対方向から、女性がカゴから品物がこぼれ落ちそうなカートを押してきた。通路は、私たち2台のカートでいっぱい。女性は、ジンの反対側の棚で焼酎を見ていた。

 

 突然、私の視界が真っ赤になって、脚に激痛が走った。膝がカックンとなり、私は、カートにもたれかかった。しばらく息ができなかった。「大丈夫ですか?」の声にやっと視界が正常に戻った。ジンの私と焼酎の女性の二人が通路を塞いでいた。そこへ私の背後から別の女性がカートを私にぶつけてきたのだ。痛がる私を見て、「(カートの)先が見えなくて」と言った。そのカートは、カゴを横にして置くもので、カゴは商品でいっぱいだった。焼酎の女性は、いなくなっていた。

 

 私は、出血すると、血が止まらなくなる薬を常用している。膝の痛みだけでなく、カカトにもズキズキする痛みがあった。カートの下の突起部分が当たったらしい。カートの上部で腰をやられ、下部でカカトの2段差攻撃。出血があれば、病院へ行かなければと、通路に座って、靴を脱ぎ、靴下を下げた。幸い、出血は大したことがなく、皮膚が剥けていた。周りが、コブのように腫れていた。ふと辺りを見回すと、私にカートをぶつけた女性は、その場からいなくなっていた。

 

 買い物をしないで家に帰った。腑に落ちないので、警察に電話して私の件について質問した。故意にぶつけたのでなければ、警察は介入できないと言われた。私のようなケースは、いわゆるもらい事故ということらしい。ネットで調べると、スーパーなどでのカートの事故が多発しているとあった。駅などでのゴロゴロ引いて歩くキャリーカートの事故も多いという。

 

 夜、勤めから帰宅した妻が、私の傷を手当してくれた。「あなたは今、出血したら、血が止まらないのよ。気をつけなきゃ。お願いだから、心配させないで」 こっぴどく叱られた。どう気をつけて、妻を心配させないようにしたら良いのか、今の私には分からない。ただ私にカートぶつけた女性の顏と声が、蜘蛛の巣の糸のように私に絡みつく。

 


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添い寝

2022年06月14日 | Weblog

  519日発売の『週刊文春』に78歳の国会議員が複数の女性記者に「添い寝したら教えてあげる」とか「彼氏いるの」とか夜中に「今から来ないか」電話で誘ったと報じられた。

 “添い寝”でダビデ王が頭に浮かんだ。まさかこの議員、旧約聖書の「列王記上」1章1節から4節を地で行こうとしたのではないだろうな。身の程知らずもいいところだ。旧約聖書に次の事が書かれている。ダビデ王は歳を取り、寒気に悩まされていた。家臣たちが、王のために若い女性を探して、ダビデ王のお世話と添い寝してダビデ王を温める段取りをした。ダビデ王とこの議員を同列に扱うのは、無理、無理。次に浮かんだのが、川端康成「眠れる美女」の江口老人。議員は、ここから“添い寝”を考えついたのかもしれない。いずれにせよ78歳という年齢での、この議員のご発展ぶりに私は驚いている。

 私は、今月末のカテーテル治療入院を控えて、戦々恐々としている。担当医師は、治療すれば、今よりずっと楽になると、言ってくれる。治療を受けるに当たって、同意書に署名した。「不測の事態に対する緊急処置をうけることについて同意します」 この“不測の事態”の文字は、私の妄想をまるで映画のように映像化する。あれこれ良からぬ結果ばかりが浮かび、健康を取り戻せるプラス思考が排除させられてしまう。

 人生において、他の人と自分を比べて、悲しむのは、何も良いことがない。知ってはいるけれど、やはりこの比較の魔の領域に引きずり込まれてしまう。78歳の議員を、羨ましく思う気持ちがゼロと言えない自分がいる。

 昨日、妻が勤務先からメールをくれた。「退院の日、有給休暇をとったので、病院へ迎えに行けます」 私には妻がいる。妻は、毎晩、添い寝してくれている。結婚して30年になる。これ以上私は、何を望むのか。

 土曜日、ずっとやろうと思っていた玄関の人造石の床の掃除をついに終わらせた。まず洗剤を含ませた雑巾で妻が床を拭く。手渡された汚れた雑巾を、低い椅子に座った私がバケツの湯で注いで絞って妻に渡す。役割分担と言っても、常に妻の方が、きつい方を担当する。情けないが、私の健康上仕方がない。

 妻の海外勤務中、大きな荷物を持っての移動が多かった。心臓の手術の後、ドイツのフランクフルト空港で航空機を乗り換えなければならなかった。ターミナルが離れていた。心臓の開胸手術をしたばかりだった。妻がカートにいくつものスーツケースを乗せて押した。私は、胸の傷をかばう為に、胸をそらせて歩く。それ違う多くの外国人が私を睨みつけた。軽蔑の眼差しだった。「あれが、日本人の男だ。偉そうに妻を従えている。男の風上にも置けない野郎だ」 そんな誤解にも二人で耐えた。二人で生きてきた。

 私は夜な夜な若い女性に添い寝を請う必要はない。深夜に電話する相手もいらない。私の手が届くところに妻がいる。だから妻のために治せるところは、治してもう少し妻に添い寝してあげたい。

 


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魚の骨

2022年06月10日 | Weblog

  入院中、病院食に魚の煮つけが出た。骨に気をつけようと箸で探った。そうでなくても誤嚥が多くなった。骨が喉に刺されば大ごとだ。子供の頃、魚の骨が喉に引っかかると、親は、ご飯を丸めて噛まずに飲み込めと言った。確かにこれは効果があった。しかし今、私の年齢でこれをするのは、大変危険である。念には念を入れて骨を探る。ない!骨がない。

 

 病院に入院すると、保険請求額を増すためか、いろいろな“指導”が入る。歯医者で歯磨きの仕方の指導のように。数十年前と比べて、入院日数が短くなった。これは良いことでもあるが、弊害もある。私のように別々の治療のために間をあけて、入退院を繰り返すと、そのたびに指導が入る。薬剤師、栄養士。同じことを短期間で繰り返されると気がのらない。3回目の入院時、栄養士が来たので、こちらから質問をした。栄養士も話すことに事欠いていたのか、嬉しそうな反応を示した。「どうしてここの病院で出される魚に骨がないのですか?」 栄養士「入院患者にはお年寄りもおられるので、もともと骨を抜く処理をした魚を使っています」

 

 以前、京都の料亭の経営者の話をテレビで聞いた。「私どもの料亭には、魚の骨を抜く専門の調理人がいます。お客様に骨があるまま料理をお出しすることは絶対避けなければならないからです。その調理人は、魚のことを熟知していて、どこにどういう骨があるかまで知っています……。」 感心した。そこまで気を使う。さすが京都の高級料亭だ。

 

 ということは、病院も京都の高級料亭と同じ事をしているということか。栄養士の話を聞いていて、高級料亭の客になった気分がした。なぜなら私は、新鮮な魚をその都度、丸ごと買う。調理寸前にウロコを落とし、エラや内臓を処理する。これは面倒くさい。面倒くさいが、魚を美味しく食べるためには仕方がない。でも骨の処理は、しない。しないというより出来ない。きっとテレビによく出ている“サカナくん”なら上手くできるだろう。食べる時、自分で骨を取り除くしかない。

 

 私の父は、魚の骨を取り除く名人だった。焼いた鮎や焼いたサンマの骨抜きは、手品のように見事だった。箸で頭をおさえて、全てのヒレを除き、尾をちぎり取って、そのまま頭から骨を抜き取った。サンマも同じ要領できれいに食べられるところだけ残してくれた。1年に数回婚礼でもらった焼いた鯛の骨は、もっとも危険と言って、子供たちの分も、きれいに骨を取り除いてくれた。鯛の骨は、美味いと言って、コンガリ焼いて、晩酌のおつまみとしてボリボリ食べていた。私も鮎やサンマの骨抜きに挑戦しているが、74歳になっても父のように、きれいに骨抜きができない。

 

 留学したカナダの全寮制の学校の学食では、毎週金曜日、魚が出た。箱に詰められた皮も骨も内蔵も処理された冷凍品を調理したものだった。生徒の多くは、魚を食べたことがなかった。魚は箱に入った四角い食べ物だと思っていたと冗談のような話もあった。肉しか食べないと多くの生徒が言っていた。そういう生徒たちは、魚を馬鹿にしていた。

 

 現在、日本での魚の消費は、減る一方だという。そこで“骨抜き”加工された魚が多く流通している。問題なのは、日本で獲った魚を冷凍して、タイなどの外国に送って、安い労働力を使って、処理加工していることだ。魚の骨は、確かに喉に刺されば危険だ。特に年寄りには、命に関わる問題である。子供の頃から、魚の骨を上手に取り除けるようにするしか方法はない。危険を避けるには、骨を取り除く自信がなくなったら、刺身や魚肉ソーセージや蒲鉾やさつま揚げなどの代用食品にするのも手である。

 

 私は、まず目で骨を見つけようとする。次に箸で骨を探る。あれば箸や指で取り除く。できるだけ小さくして口に運ぶ。まず上下の唇を魚に押し当てて、骨の存在の有無を確かめる。これは一番効果的な方法だと思っている。口の中に入れたらよく噛む。舌や歯は、結構敏感に骨を感じる。まだ食い意地だけは、残っている。生意気にも、食材そのものの味わいや食感を楽しもうとまで思っている。もうしばらく、骨がついたままの魚を食べていたい。

 


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紫陽花

2022年06月08日 | Weblog

  カテーテルで下腹部に新たにステントを入れて1週間が過ぎた。退院して次の日から散歩を始めた。まだ階段や坂になると、施術前のように足を運べない。妻は「無理せずにだんだんに歩数を多くしていけばいい。今日千歩、明日二千歩ってね」と言ってくれる。あせらずに、本来最初に治療するはずだった、右脚の動脈硬化の今月末の入院に備えて、体力をつけていきたい。

 このところ雨の日が多い。気温の上下も激しい。晴れ間を見計らって、散歩に出た。歩き方は、爺さんそのもの。スピードが出ない。ふらつく感じがある。腰が曲がり気味。杖を使う程ではないが、他人が見たら、この爺さん、大丈夫かいな、と思われそう。服装も良くない。黒のジャージに黄土色のTシャツに黒のパーカー。爺臭い。どう思われようが、ここは体力をつけなければならない。

 そろそろ梅雨入りだ。道端のあちこちに紫陽花が咲き始めている。紫陽花は、好きな花である。海外で暮らしていて、日本へ帰りたいと思わせるのは、桜、紫陽花、菊だった。セネガルやチュニジアなどの砂漠で心に描く紫陽花は、天国の花のように思えた。日本人は、ウエットで外国人の多くはドライだと言われる。確かに日本は湿気が高い。それが人間性へ影響しているのかもしれない。

 紫陽花は、もともと日本固有の植物だそうだ。『額の花』という品種が、十八世紀に英国に伝わり、西洋紫陽花(hydrangea)が誕生した。Hydrangeaは、ギリシャ語で“水差し”を意味する。紫陽花の実が、西洋の水差しに似ているからだという。もっと良い名前をつけられなかったものだろうか。私にとって、水差しでは物足りない。でも紫陽花を品種改良でこれほど美しい花にしてくれたことには、感謝したい。

 紫陽花の花言葉は、色によって違う。ピンク:「元気な女性」「強い愛情」 青:「冷淡」「無情」「あなたは美しいが冷淡だ」「高慢」 紫:「謙虚」「清澄」「神秘」 白:「寛容」「ひたむきな愛情」 緑:「ひたむきな愛」 秋色:「辛抱強い愛」 紫陽花は、七変化の花とも呼ばれている。初めは緑、次第に白、藍、薄紅などに変わる。花言葉も、色の変化のたびに指す言葉が異なるのもいとおかし。

 紫陽花は、梅雨の初めに咲き始め、梅雨の終わりに散ると言われている。昨今の異常気象で、その通りにはいかないかもしれない。それでも私を楽しませてくれる紫陽花は、美しい。雨上がり、花や葉に雨の雫がついた紫陽花は、最高である。

  私は、5、6,7月と入退院を繰り返して、血管の閉塞を治療する。気持ちは、晴れない。心配で不安も大きい。体への負担もある。治療に当たってくれている医師が「この治療がうまくいけば、脚が今よりずっと楽になりますよ」と言った。信じよう。治してもらえるものなら、試す価値はある。

 傷口の下が内出血している。15センチ×10センチくらい。事前に医師から内出血すると聞いていた。最初薄紫色だったが、紫色が濃くなってきている。見ていて思った。私の体も紫陽花のようだ。そして紫の花言葉は、「神秘」 まさに人体は神秘にみちている。そして私は、「謙虚」に現実を受け入れようとしている。


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大谷翔平

2022年06月06日 | Weblog

  大谷翔平が属するエンジェルスが、6月3日敵地ニューヨークでヤンキースと対戦した。私はカテーテル治療を受け、退院したばかりだった。妻が出勤した後、YouTubeで大谷の試合を観ていた。時差の関係などで、実況放送を観られなくても、自分の都合の良い時に観ることができる。便利な時代である。

 You Tubeでは、大谷翔平が出場する試合を数多く流している。私は、現場の様子をそのまま伝える番組が好きだ。アナウンサーや解説者も出てこない。観客のざわめき、打者がボールをバットに当てた音。何度も同じものを見ていると、最初の画面に更新された番組が表示される。コキシロウには、優しいシステムである。

 このところエンジェルスは、絶不調。大谷も去年ほどの活躍がない。試合は、敵地ヤンキーススタジアム。ヤンキースのファンは、えげつないヤジで有名である。NHKテレビの実況だと、ヤジなどまず聴くことができない。私は、どんなヤジが飛ぶのかと耳をそばだてていた。

 7回大谷がバッターボックスに入った。カウントは1ストライクノーボール。突如、甲子園球場の阪神タイガースのファンが歌う“六甲おろし”のような大音響が巻き起こった。「Overrated!」 その日ヤンキーススタジアムには、3万3476人の観客。Overratedって「過大評価され過ぎ」のような意味。日本でだったら、「お前なんて大したことねよ!」「騒がれてるかって、調子に乗るなよ!」となるか。なるほどえげつない。日本の宝の大谷になんという失礼なヤジ。しかしここは冷静に。ここで腹を立てたら、相手の思う壺。

  これを聴いていて、一気に私は、50数年前のカナダ留学中の出来事の中へ引き戻された。学校の学年別野球大会で私は、セカンド打順7番で出場していた。ヤンキースタジアムほどではなかったが各学年の応援ヤジは凄かった。私が打席に立つと、どこからともなく「Jap!」「Jap Go Home!」「Remember Pearl Harbor!」のヤジ。応援席は、静まり返った。クスクスと笑う人々、そして批判的な表情で笑った人たちをにらむ人たち。私は、意外と冷静だった。渦巻く怒りが視線に集中していた。投手の手を離れたボールの球筋が見えた。バットに日本国民としての思いを込めて降った。打球は、セカンドベースをライナーで超えてセンターへ転がった。私のヒットに私の学年の応援席は、大騒ぎになった。

 大谷翔平、松井秀喜、イチロー、野茂、田中将大。野球選手に限らず、海外で活躍すれば、多かれ少なかれ、心ない差別や偏見にさらされる。その経験が、その人を更に発奮させてたかみに向かう人もいる。大谷翔平もそういう一人になって欲しい。

 ヤジといえば、日本の国会でも相変わらず盛んである。えげつないヤジも多い。ヤジは悪いことばかりではない。相手への正当な批評批判を投げつけるには、それなりの観察や調査が必要だ。日本のテレビの衰退の大きな原因は、テレビは一方通行で、視聴者から画面に投げつけられるヤジや罵声が、テレビ局や出演者に届かないことだ。

 大谷翔平に投げられた「Overrated!」は、それだけ彼がヤンキースファンに恐れられている証拠とも言える。ヤジは、誹謗中傷でもあるが、反面それは相手への恐怖でもあり畏敬でもあるのではないか。私は、大谷をこれからもfair rating(正当な評価)していく。


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