団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

期日前投票 参議院議員

2016年06月29日 | Weblog

  7月10日に予定があり参議院議員選挙に行くことができない。妻と先週期日前投票に出かけた。

 午前8時30分から投票できると選挙ハガキにあった。近所の期日前投票は市役所の分所でできるが週日なので妻が行けない。18日土曜日にわざわざ市役所まで出かけた。

 市役所は最近建て替えられて新しくなった。投票所は旧庁舎にある福祉センターだった。駐車場に車を止めて“投票所→”の張り紙を頼りに進んだ。エレベーターの前に来た。ドアに“M2で降りてください”の張り紙。「M2って何のこと?」「中2階かな。押せば着くわ」ドアが開いた。降りる。そこは壁が3面と1箇所が空間。3面の壁にそれぞれ鉄製の頑丈そうなドアがある。不思議な国のアリスになったようだ。私たちは話すこともなく同時に空間を選んだ。投票所らしさはどこにも見られなかった。数十メートル先が工事中でガードマンらしき男性が立っていた。「期日前投票所・・・」と言いかけただけで男性は黙って先の赤い誘導棒を“投票所→”の張り紙に向けた。“投票所→”は全部で5枚あった。結局投票所に到達する前に市役所の敷地外周を3分の2ほど回った。

 やっとたどり着いた投票所は砂漠のオアシスに感じた。たくさんの市役所職員と選挙立ち合い人が並んでいた。最初の机に座る女性職員にハガキを見せる。我が家は妻が“世帯主”である。逆玉の主夫、髪結いの主夫は扶養者である。選挙ハガキにはそう記述されている。当然妻が私の先に並ぶ。妻は手続きが順調に済み投票用紙をもらって書き込みブースにいた。コンピューターのような機械を前に女性がキーボードを操作していたが何か不具合が生じたようだ。そばに立っていた男性職員が立ったまま女性に代わってキーボードを叩いた。二人の職員の形相に緊張が走った。ブースから妻が「どうかしたの?」と音無しの口の形で尋ねた。私は手のひらを上に両肩を上げた。耳に「世帯主・・・」の男性の囁き声。良く私に起こることがまた起こったようだ。ほぼ100%そう99.9%は夫婦間において男性が世帯主だと決めつける。真相はわからない。知りたくもない。投票するために来たのだから投票できればそれでよい。

 投票用紙を受け取ってブースで候補者の名前を書きこんだ。投票箱に用紙を入れた。次に比例代表。投票を終えて駐車場に向かった。私たち夫婦は選挙で誰に入れたとお互い告白したことが結婚して23年で一度もない。聞きもしない。自ら言うこともない。とても良いことだと思う。夫婦家族が政治信条において一体となることができるとは私には思えない。現在の選挙は組織票が一番の武器となる。政治思想、信条、宗教、所属組合や協会や会社。今回の選挙から18歳に選挙年齢が引き下げられた。心配なのは親たちが18歳の政治的に無垢な若者に特定候補者を親という立場を使って強制することだ。個人的に知ることもない候補者を組織強化の目的を達成するために支持する。今回の選挙でもますます組織票を固めようと各組織が動いているに違いない。私たちは夫婦間でさえ個人の選挙権に立ち入らないでいる。その自由さが心地よく感じる。

 世帯主が誰だということも気にしない。たぶん私が投票する候補者は当選しない。その候補者は私が投票したことさえ知ることはない。選挙に参加するたびに思う。誰にも知られることはないが、選挙って何だか真の自分という存在に向き合える気がする。近い将来日本は政党以外の特定の組織に支配されるかもしれない。危機を感じる。それを回避できるのも1票の力だと信じる。英国でのEU離脱を決めた国民投票で直前まで残留が優勢だった。結果は大方の予想を裏切った。油断と怠慢と軽視は歴史を変える魔力を秘めている。私は私の1票をこれからも大切に最後の選挙まで行使する。


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99.9% 嵐・松本潤主演

2016年06月27日 | Weblog

  テレビドラマ『99.9%』 アメリカ・テレビドラマ『クリミナル・マインド』 単行本『道徳感情はなぜ人を誤らせるか』(管賀江留郎著 洋泉社 2500円+税)が見事に私の頭の中でまるで列車の連結器が「ガッシャ~ン」と音をたてて組み合わさるようにつながった。

  テレビドラマ『99.9%』が6月19日で最終回を迎えた。視聴率はテレビドラマ低迷の中、毎回16%台を保っていた。そんな高視聴率番組が期せずして打ち切りとなった。謎を感じた。私が『99.9%』を好んで観たのはそのドラマが刑事事件をめぐって検察と刑事専門弁護士との法廷での闘いを事細かに描いているからである。日本の刑事事件における裁判有罪率は、99.9%という世界一の有罪率を表している。このドラマは残された0.1%の逆転劇である。痛快この上ない。検察は悪者にされている。日頃日本に現存する数々の“聖域”にやりきれなさを感じている。聖域に足を踏み入れる者は、見えない力でいつの間にか排除される。今回も私はその見えない力を感じたのである。

  『道徳感情はなぜ人を誤らせるか』は私の日頃の鬱憤を晴らしてくれた力作である。本編は527ページの大作である。本を持って読んでいると腕が痛くなる。しかしどんなに重くても読みだしたら止められない。著者プロフィールにこんなことが書いてある:管賀江留郎(かんが えるろう)[妻はこの本を手に取って著者の名を 『え、かんがえるろう=かんがえるだろう だって面白いペンネームね』と言った。さすが。私には考えつかなかった]少年犯罪データベース主宰。書庫に籠って、ただひたすらに古い文献を読み続ける日々を送っている。

  初めてこの本を手に取った時、帯の文章がマユツバに感じた。著者プロフィールを読んで思い直して2500円と高価で分厚いが買うことに決めた。読みだした。もう止まらない。テレビドラマと違って一週間またされることがない。読み続ける。妻が中断する。できるだけ早く妻の用事を済ませる。本に戻る、の連続である。527ページを2日で読み終わった。今はこれと思う文章に線を入れ、そのページにポストイットの付箋を貼って読み直している。

  『99.9%』のドラマを観る。『道徳感情はなぜ人を誤らせるか』の中に似た記述を探す。『クリミナル・マインド』のドラマの録画を観る。『道徳感情はなぜ人を誤らせるか』に戻る、を繰り返す。このところの倦怠感は吹き飛んで忙しい毎日である。

  今回の英国のEU残留か離脱かの国民投票の結果も『道徳感情はなぜ人を誤らせるか』的に分析すれば理解できる気がする。『道徳感情はなぜ人を誤らせるか』の帯もあながち誇大ではない。

  活字中毒の妻にも読んでもらう。久しぶりに友人たちに押しつけがましく本を贈りたくなっている。それにしても「書庫に籠って、ただひたすらに古い文献を読み続ける日々を送っている」管賀江留郎のような作家が日本にいることが嬉しい。まだまだ聖域が強く残る日本だが立ち向かう勇気ある人々を讃えたい。99.9%聖域、虚であっても0.1%の真実を明かそうとする執念に平伏す。たとえ短期間であれむさぼるように活字を追い、読んだ内容をドラマと結びつけることができることで人心地がついた。人間が文字を持てて、テレビが発明されて良かった。本があって良かった。私が文字を読めるようになれて良かったとつくづく思う。


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運転免許証の更新

2016年06月23日 | Weblog

  5年に一度の運転免許証の更新に13日の月曜日出かけた。現在の居住地から指定された免許センターへ行くのは2度目になる。初めて行った時もずいぶん道に迷って苦労した。今回も前回と同じところで間違えた。それでも受け付け開始時間の8時30分前に到着できた。

 すでにゴールド免許は違反で剥奪されていた。普段は忘れているが警察の施設に入り、警察関係者に接すると、違反した日のことがよみがえり機嫌が悪くなった。「運転免許証更新のご案内」のハガキに“最終違反 平成24年2月6日 通行禁止”とあった。免許証の色はゴールドから青になった。講習時間は1時間である。ただ有効期間は5年になっていた。私はもうじき69歳になる。自分ではなんとなく今回の更新は以前と違って期間も検査も高齢者対応になると思っていた。認知症検査も当然含まれていると覚悟していた。さすが行政の規則は線引きが明確である。70歳から75歳までは高齢者講習だけで75歳以上から講習予備検査という認知症の検査が課される。今回はセーフ。次回の5年後平成33年も73歳で認知症検査は免れそうだ。しかしこれだけ高齢者の交通事故率が上がると先のことはわからない。

 それにしてもよくもまあ免許証更新にこれだけの人員を配置して手続きを煩雑なものにできると感心させられる。私は運転免許証をカナダで取得した。カナダには運転免許証の更新はなかった。車検という制度もなかった。日本の役所はあの手この手で国民市民から金銭を巻き上げるのに長けている。更新手数料2500円講習手数料800円の計3300円を納めるために並んで印紙を購入する。窓口の女性に“交通安全協会”への入会を勧められた。5年で2000円だそうだ。断った。

 1時間の講習を受けた。最近はどこでもいつでも居眠りできるようになった。講習を受けているうちに眠ってしまわないか心配だった。定番の悲惨な交通事故の現場写真を見て眠気はすっとんだ。集中力がなくなっているのでどうこの1時間を乗り切るかの憂いはなくなった。しかし薄くなった尻のせいか、折りたたみ椅子のクッションの薄さのせいか尻が痛くなった。結構真面目に講習を受けることができ自分でもびっくりした。

 来月69歳になる。運転免許証の更新は5年後である。日記は5年日記を3年に変えた。父親は72歳で逝った。運転免許証は69歳で返納した。母親は追突され鞭打ち症で長く苦しみ50歳後半に返納した。それを知っているので私もいつか運転免許証を返納する予定だ。車はすでにいつでも返却できるようにとリースにした。運転に自信がなくなった。特に車庫入れなどのバックが以前のようにできなくなった。節約して運転免許証を返納しても外出する時はタクシーを使えるように蓄えを増やそうとしている。自家用車を使わなくても生活できる手立てを考えている。

 テレビのCMではいかに年齢より若くいられるかみられるかを競わせるような年寄り向けのものが多い。幸せな健康に恵まれている人々だと思う。昨日鳩山邦夫さんが急死された。67歳だった。最近の鳩山さんの映像は激ヤセして風貌も歳相応に見えた。免許証の更新制度そのものに批判的だが、これからの5年を考える良い機会を与えられたと感謝する。


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ミラーレス解禁 チュニジアではずっと前からミラーレス

2016年06月21日 | Weblog

  国土交通省は、自動車のバックミラーやサイドミラーの代わりに、車外カメラと室内モニターを備えた「ミラーレス車」の製造を解禁した、というニュースが流れた。「遅い、遅い。チュニジアなんて15年前にすでにミラーレスでサイドミラーはなかったぜ」と私はチュニジアに住んだ時のことを思い出した。

  旧ユーゴスラビアのベオグラードから北アフリカのチュニジアのチュニスへ妻が転勤した。イタリアのジェノバからチュニジア船籍のフェリーでベオグラードで使っていた2台の車と一緒にチュニジアへ向かった。車をフェリーに積み込む時、アラブ文化の洗礼を受けた。フェリーの積み込み口に出稼ぎに来ていたチュニジア人が積めるだけのヨーロッパで購入した家具雑貨食料品を車内や屋根の上に積みこんだ車が殺到した。その光景はネパールでも見た。首都カトマンズからテライ地方を経てインドへ至る峠道でのことだった。上下2車線の道路なのだが、むりやり追い抜こうと空いていれば上下どちらからも車が割り込む。やがて全ての車が道幅いっぱいにまるでスーパーのソラマメのビニール袋詰め放題の結末のような状況に陥る。通行は完全にストップする。人々は口角泡を飛ばして道を開けろと言い争う。混沌、カオス。それで一巻の終わりではない。ネパールやアラブでは混沌やカオスは、時間をゆっくりかけて氷が融けるように最後には手品のようにほぐれる。ジェノバの港でのフェリーの乗り込みも絶望的な状況が2時間ほどで解け、船は出港した。

  翌朝チェニスに到着した。チェニスの道路を走る車の大半にサイドミラーがなかった。所変われば品変わる。私はチェニスの車は何らかの理由でサイドミラーを必要としていないのだと早ガッテンした。現実はサイドミラーが要らないのではなく、他の車に接触されてサイドミラーがもぎ取られたのである。チュニジアにおいて“線”も“法規”も超えるためにあった。交通規則は警察の都合であって、運転者の間に制約も仁義も存在しないと私には思われた。空いていれば前進あるのみ。やがて私の車も数回サイドミラーを他のにじり寄る車にもぎ取られた。当て逃げなのに警察が介入することはなかった。チュニジアの運転手の心の中ではミラーレスを容認していてもぎ取られることを覚悟していたようである。そんなチュニジアの交通事情に度肝を抜かれた私だが、エジプトからチュニスに来た客人が「チュニジア人の運転はおとなしい、カイロはもの酷いですよ」に言葉を失った。カイロへ行く機会はあったが、決断がつかず、とうとうピラミッドを見ることはなかった。

  海外暮らしを終えて、日本に帰国して日本人の細かさに抵抗と感心を持った。スーパーなどの駐車場でほとんどの車が線をきちんと意識して見事にバランスよくキレイに駐車している。車の手入れも良くサイドミラーがもぎ取られたまま走っている車など見たこともない。サイドミラーが車体より少し外に出ているのが運転上邪魔に感じることはある。チュニジアではサイドミラーは他の車との危険な衝突を避けるためにあえて失うことで損をして、重大事故を回避して得を取っているかのようである。それはまるで昆虫の触覚や猫のヒゲの働きと同じである。アラブのおおらかな知恵なのか。ちょっと車がこすられただけでも警察を呼び、保険で修理する日本とはあきらかに文化が違う。

  技術革新が進む。新しい方式が次から次と導入される。その新方式も取り入れる国々の文化によっていろいろな変化をとげる。ミラーレス解禁がどんな風にそれぞれの文化圏で受け入れられてゆくのか興味深々である。車の装備ではあとワイパーに開発の必要性が残されている。ワイパーは今も50年前も変わりがない。どんなワイパーが登場するのか楽しみにしている。


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れんこんもち

2016年06月17日 | Weblog

  買い物途中、和菓子コーナーで『れんこんもち』が対人販売されていた。れんこんもち?れんこんって蓮根、あの野菜のハスの根っこのこと。私は野菜のレンコンが大好物である。試食の細かく切られた羊羹のような黒い塊に爪楊枝を刺して私に渡そうとする羽織袴の女性に尋ねた。私は試食しない。差し出された小さな揺れる“れんこんもち”を丁寧に手のひらを立てて断りながら「れんこんもちってレンコンが原料なの?」と切り出した。すると、若い大学生のアルバイトらしき女性がニコリと笑って「はい、あのレンコンでできています」と答えた。5個入り、3個いり、ばら売り。1個170円。3個入りを購入。

 家に帰ってれんこんもちに添えられていた挨拶状を読んだ。「れんこんの澱粉を和三盆糖と黒糖で煉り合せた涼菓です」 翌朝朝食の後、妻が淹れてくれた新茶と一緒にいただいた。笹の葉に包まれた小さな羊羹ほどの大きさである。笹の葉は本物。上手に包んである。笹の葉は扱いにくい。まるで機械で一様に仕上げられたように見事な仕事だ。このれんこんもちを作った和菓子職人の心意気を充分感じさせられた。

 子どもの頃、近所にも和菓子屋があった。戦前父親は東京でパン工場に勤めていた。後に独立してパン屋を経営していた。徴兵されてパン屋はやめた。戦後東京の家と店舗は空爆のドサクサで人手に渡っていた。母が疎開していた故郷に戻った。戻ったのは父ばかりではなかった。東京で仲間だった人たちが和菓子店と洋菓子店を開いていた。父はよく私をその作業場に連れて行った。小さい頃から和菓子とケーキに不自由しなかった。私があまりに熱心に和菓子や洋菓子の製造過程を見つめていたので店主に「跡継ぎにおじさんの店へ来るか?」と言われ嬉しかった。

 テレビ東京に『世界!ニッポン行きたい人応援団』という私を毎回泣かせる番組がある。テレビ東京は他のテレビ局と違って好感できる番組づくりをしている。テレビ東京は日本のテレビ局としては“職人”を大切に扱う。番組づくりにそれが素直に現れている。『世界!ニッポン行きたい人応援団』は世界中から日本に憧れ来たい夢を持つ人を探して日本に招待してその夢を叶えてあげる番組である。16日の夜は日本の相撲に憧れるハンガリーの女子高校生とそろばんをポーランドで自分流に制作して小学校でそろばん教育を広めようとしている退職男性教師が紹介された。

 毎回涙なしにはこの番組を観ることができない。まずこれほどまでに日本の技術や伝統を深く学んで自己流であっても何とか形にしていること。私の父や私が子どもの頃の近所の職人たちのことを思い出させること。軽井沢でさんざんにアメリカ人宣教師や子どもたちに日本のことを馬鹿にされたこと。留学したカナダで日本人として差別されたこと。妻の海外勤務に同行して13年間日本から離れていて和菓子を夢にみたこと。などなど。

 日本を嫌い憎み恨む国がある。日本が好きで来たいと夢見る人もあちこちにいる。日本に憧れ学びたい人をテレビ東京だけに頼らずに民間の力で形にして地道に世界から一本釣りのように招いて行けば、政府や役人の行方の分からないODAよりずっと確かな結果が出せる。こうして世界中に味方と理解者を増やすことはミサイルを持ったり核武装するよりこれから先、日本の防衛につながると私は考える。世界を魅了する文化伝統が残っているうちにやらなければ手遅れになってしまう。特に後継者のいない絶滅寸前の職域に従事する組織が立ち上がって欲しい。それを民間人がふるさと納税のような制度でファンドを立ち上げ応援したらどうだろう

 新茶とれんこんもちを口に運びながら夢を描く。


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知事のお子ちゃま

2016年06月15日 | Weblog

  東京都議会で14日夕、議運委理事会に舛添都知事は自ら出向いた。そこで9月まで続投したい意向を語り、議会に協力を求めた。舛添氏は涙ながらに「最後のお願い」だと次のことを訴えた。

「子どものことを言うのはなんですが、高1の娘と中1の息子がいます。毎朝、テレビに追いかけられ、泣きながら帰って来る。妻にもカメラを回して「やめてください」とガーガーと叫んでいる映像ばかり流して「変な女」と報じられます。週刊誌やワイドショーは基本的人権を考えてもくれない。子どもも殺害予告をされている。1カ月前も今も、子どもを守るために、すぐにでも辞めたいけど、都政を混乱させないようにやってきた。マスコミに真実と違うことを言われても、訂正もしてくれない。人格的に辱められ、失う物は何もない。」

 このニュース配信をネットで読んでいて、友人Yのことを思い出した。Yは国連職員として働き定年退職した。イタリア人の奥さんとアメリカで暮らしている。彼の父親は東京大学を卒業して昔の内務省の役人だった。戦前から戦後にかけて2つの県の知事を務めた。その頃、彼はまだ小学生だった。彼は父親が知事という理由で壮絶なイジメを受けた。父親が2番目の県の知事に就任して離れた県に転校しても同じイジメを受けた。彼が言うのに本質的に日本の社会構造も日本人の精神構造も、どこでも変わらないと実感したそうだ。

 私は住む町のスーパーで別荘に来ていた都知事一家が買い物をしているのをよく見かけた。以前ブログでも書いたように知事がSPを連れてひとりで買い物をしているのも見た。もちろん知事にSPがつくのは当たり前のことであろう。しかし家族はカヤの外である。舛添都知事が涙ながら子どもを守りたいと訴えた気持は理解できる。家族は野獣の群れに野放しにされているようなものだ。今“子どもを守る”と訴えるなら、都知事に当選してからの身の処し方を初めから“子どもを守るため”にまっとうに邁進することだってできたのではないか。やはり権力は人に自分は偉いのだと勘違いさせてしまうものらしい。身から出た錆と言えばそれまでだが。

  国連に勤めたYは私に語った。「親父は役所でも家でも知事だとふんぞり返って威張っていた。何事も自分が一番で、他人の言うことを絶対に聞き入れなかった。男尊女卑もひどかった。私たち兄弟5人は全員親父が知事のため学校でイジメにあった。“知事のお子ちゃま、お坊ちゃま”と囃し立てられた。子どもは残酷だ。情け容赦がない。親父が介入できない所で狡猾に攻める。親父に話しても相手にされなかった。兄弟は皆耐えた。その後、東京大学に合格できなかった私は親父になじられ見放された。兄弟のだれひとりとして東京大学には入れなかった。私は親父が馬鹿にしていた私立大学を卒業した。日本で暮らしたくなかった。国連なら自分の理想を叶えられると猛勉強して就職したが、日本人だというだけで仕事の成果も能力も知らずに差別された。結局どこでも同じだと悟った」

 Yの父親は政治資金の私的流用を疑われたわけではない。ただ“知事のお子ちゃま”というだけでイジメられた。舛添都知事の子どもにもYが受けたイジメ以上の試練が降りかかっている。子どもを守ってやれるのは、親である。舛添要一さんは、政治屋には不向きだったと自覚して、まず多感で一番難しい時期の子どもを守ってあげて欲しい。そして立派に子どもたちを守り自立させてあげたら、再出発を計ればよい。そうできたら、まるで他人事のように舛添さんを攻撃した同じ穴のムジナ政治屋たちをさらに持ち前の論破力をパワーアップさせて日本の政治の浄化に貢献してもらいたい。


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セコさとノブレス・オブリージュ

2016年06月13日 | Weblog

 長野県の高校1年生だった時、新聞にこんな記事が出た。「東京大学に合格した男子高校生が万引き」 私はその生徒と面識があった。彼は往復4時間かかるような山の中の村から通学していた。貧しく兄弟も多い家庭の子だった。優秀だった。東京大学にストレートで受かった。合格発表の直後に彼は書店で万引きして捕まった。当然合格は取り消された。彼のその後は長い間知る由もなかった。

 今回の舛添東京都知事の政治資金の公私混同の使途疑惑を知った時、私はなぜか高校時代のあの万引きして東京大学の合格を取り消された男子生徒を思い出した。いまでもその人の顔を覚えている。私にとって衝撃的な事件であった。東京大学に合格するほど頭がいい人がなぜこんな本一冊ぐらいの万引きをしたのか。高校でひどい成績で東京大学なんて夢の夢だった私はなんてモッタイナイことだと割り切れない気持だった。週刊誌やテレビのニュースワイド番組では舛添都知事の出自、経歴をこれでもかと暴露する。そのたびに高校生の彼を舛添さんと重ねていた。

 私は舛添さんの優秀さを認める。しかし子ども時代に経験した貧しさは、その人に大きな影響を与えると私は身を持って体験した。私は舛添さんのように東京大学を出ていないが、同じくらいセコイ人間だ。私は政治資金や公金を使う側に立ったことがない。使える権限を与えられれば、持ち前のセコサであれやこれやとごまかすのは目に見えている。権力を得たらもっとも危険な類の人間だと内心どこかで自覚している。幸い68歳の今日まで、そのような立場に自分を追い込んでいない。

 私は妻の海外勤務に配偶者として同行した。赴任地では在留日本人や妻の職場の人々に「男のくせに」「髪結いの亭主」とか「逆玉」と揶揄された。地位的社会的には最下層で権力の対面にいた。私は小さな会社を経営したことはあったが、組織で働いたことがなかった。最底辺から観察した組織で働く人々、特に男性でも特段私より人間性で優れているとは思える人は少なかった。学歴、家系を自ら吹聴する人も多かったが、だから私にどうしろというのかと疑問に思った。そんな中で私の心をつかんだのは、常にノブレス・オブリージュを体現している人々だった。能ある鷹は爪隠す。こうできる人々に数は少ないが会えたのは私の喜びだった。

 生まれがどうのこうの育ちがどうのこうのと言う。舛添さんが貧しい家庭に育ったのでセコクなったと言われている。私は違うと思う。どんな家庭に生まれ育とうとも人はノブレス・オブリージュになれる。人物を出自、学歴、家系などで測るから短絡的な評価批判となる。人間は死ぬまで勉強である。大学に受かって卒業した時点で勉強は終わらない。自分を人間として成熟させる勉強は一生続く。舛添さんは優秀な人である。貧しく高貴な家系出身でもない。ただ残念なことに自身の人間性を高める勉強には手を抜いてしまった。どんなに優秀で相手を論破できても、自分の人間性を高める勉強をしていない。辞職するしないが争点になっているが、選挙で選ばれた知事である。選んだ側にも責任がある。この件をきっかけに政治屋優遇特権改革が始まることを願う。

 さて高校で万引きして大学合格を取り消された彼はどうなったか。偶然彼の消息を知った。彼は事件のあと数年後再び同じ大学を受験して入学。卒業後、外国に渡り、活躍しているとのこと。日本へは帰ってきていない。私は現在彼がノブレス・オブリージュの心境にまで自分を押し上げて生きていると信じる。


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蛍のメッセージ

2016年06月09日 | Weblog

  梅雨入りが発表された。アジサイが咲き、ひと雨ごとにその色合いを変えている。冬から春への変わり目が好きだ。葉を落としてじっと冬を耐え忍んだ樹木が、春と確認すると次から次と新芽が出てくる。植物ばかりではない。昆虫や動物も動きだす。朝はミソサザエのさえずりで目を覚ます。

 昨夜蛍が家の網戸にやってきた。10日ほど前、友人夫婦2組と私たち夫婦の6人で夕食を共にした。同じ集合住宅に住んでいる。蛍の話になった。すでに見たという。その日から毎晩注意して外を見た。もう今年は見られないかと諦めかけていた。たった1匹だったがついに今年も蛍に遭えた。居間のライトを消して真っ暗にした。妻と並んで一緒に見た。妻が息をつめてじっと見る顔が小さな蛍の光の増幅に呼応して浮かんでは消えた。やがて光を点滅させながら竹林の中に飛んでいってしまった。

 今朝妻を駅まで送って家に戻った。駐車場のシャッターが待つ間、集合住宅の前の側溝に何気なく目をやった。何やら動くものを見た。目をこすってよく見た。カニだ。沢ガニがいる。それも1匹2匹ではない。側溝は石を埋め込んで作られている。カニの色とよく似ている。だからよほど注意して見ないとカニと石の区別がつかない。冬の間石垣の中や枯れ葉の奥深くに潜んでいたに違いない。まだ動きは遅いがカニも梅雨入りを察知したようだ。

 人間社会は相も変わらず私の気持を暗くさせるような問題で溢れかえっている。冬の殺風景はそんな私を更に落ち込ませた。毎日ほとんど妻以外の人と話すことはない。このところ毎年友が一人また一人と私を出し抜いて鬼籍に名を連ねる。多くの友人知り合いと連絡が途絶えつつあることを感じる。子どもたちも孫たちを育て会社で働いている。私への気遣いはあるが中々訪ねて来ることまではできない。

 2週間前、眼科にかかった。1年に1回の糖尿病による眼底への影響の検査だ。所見は変化が見られないだった。安心した。だが白内障それに緑内障発症の芽が確認できる、と言われた。今のところ治療手術は必要ないが定期的に検診を受けることを薦められた。1週間前、東京の病院で糖尿病と整形外科の定期検診を受けた。老化は進んでいる。あちこちに問題がでてきている。記憶力は笑ってしまうほど私から無くなってきている。忘れることが常態化してきて、その勢力増強度合いが冗談のようだ。忘れるという行為が苦笑を産む。私はもともと記憶力が悪かったので、そんな自分を笑って許せる。

  私を元気づけてくれるのは自然である。植物、動物、景色、気候。教えられることが多い。いつか自分が消えても自然に同化するのだと考えると救われる。故三宅久之さんの『愛妻・納税・墓参り』ではないが『愛妻・納税』だけには自信がある。名もなく貧しく生きている。このままなら政治資金を私的流用もせず脱税もオレオレ詐欺もせずに終われそうである。

  昨夜舞い降りた蛍が「いまのままでいいんだよ。このままでいいんだよ」のメッセージをくれた気がする。小さな光の舞に私たち夫婦が大きく勇気づけられた。


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体罰?それとも虐待なの躾なの

2016年06月07日 | Weblog

 「ギャーッ クッ――」 阿鼻叫喚。 英語で何か言っているがあまりに興奮しているので聞き取れない野太い声 「バシン    バシッ    バシッ」 これは私が十代の後半カナダの高校へ入学する前に軽井沢で世話になったアメリカ人キリスト教宣教師の家庭での出来事だった。私は恐ろしさのあまり固まっていた。私の父親は私に体罰を与えたことはない。15歳の次男が悪ガキで東京のアメリカンスクールを退学させられた後軽井沢に戻ってきていた。その少年が父親の逆鱗にふれ、体罰を受けていた。ベルトで尻をぶたれた様子を聞いてしまった。

 カナダの全寮制のキリスト教の厳格な高校に編入した。たった一人の日本人ということでいろいろな家庭に招待された。ある時、学校から車で2時間ほどカナディアン・ロッキーの麓にある小さな町の家庭に週末泊まりで招待された。その家には子どもが5人いた。一番幼い3歳の男の子が食事中、母親の注意を聞かなかった。黙って見ていた父親がその子を抱きかかえて寝室に消えた。やがて何か早口で言う父親の声の後「バシンッ バシ バシ」「ギャワ――ッ ワ―ッ クワッ クワッ」の叫び泣く声。私は気分が悪くなり、食欲を失った。

 カナダの田舎町の小学校を見学した。黒板の上にクリケットのバットのような板が飾ってあった。私は案内してくれた友人にそれが何の飾りなのかを尋ねた。友人は「飾りではありません。教師が生徒にスパンク(尻打ちの罰)擂る時に使います。私もここの生徒だった時、数回お世話になりました」 なんと恐ろしい学校だと思った。

 私は留学を終えて二十代前半で日本に帰国した。若くして結婚して二人の子どもを持った。結婚生活は7年しか続かなかった。離婚した。子どもたちに虐待とも言える過酷な仕打ちを与えた。子どもの心は傷ついた。子どもは私が育てた。体罰もこれといった躾もしなかった。

 北海道・七飯町の山林で置き去りにされて6日ぶりに発見された田野岡大和君(7歳)の事件で私は上記の3つの過去の経験を繰り返し思い出していた。私はこの置き去りを躾目的の体罰だと思う。躾にはする側の説得とされる側の納得が必要である。父親は、熟慮することなく感情的に性急に置き去りにした。この事件は世界の多くの国々で大きく報道された。その報道内容にそれぞれの国の子育て事情が反映されていて興味深かった。アメリカの新聞などで、まるで日本の親の多くが子どもを躾といって実は虐待しているとの記事で私が実際に居合わせたベルトのスパンク(尻叩き)を思い出した。他人ごとではない。どこの国でも問題を抱えている。どうして他国のことになると、こうも批判的になれるのだろう。

 1990年から2004年まで再婚した妻の海外勤務に同行した。ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアで暮らした。虐待を直接見たことはない。しかし多くの貧しい国々では、子どもが学校へも行かせてもらえずに親に酷使されていた。児童就労は悲しい現実である。

 子育ては人間最大の事業である。片手間でできることではない。しかし多くの親は、忙しさや自分勝手な理由で子育てをおろそかにする。職場至上主義の父親は、子育てを母親に押し付ける。私もそうだった。親と子が時間をかけて分かり合うまで目を見て話すことがない。人間は何かに追い立てられるように手っ取り早く答えを出そうと性急になっている。それが積もり積もって取り返しのつかない結果になる。体罰は、過程をはしょった一足飛びでせっかちな行動である。一億総活躍社会より、まず余裕ある子育てができる一億総子育て支援社会を目指そう。

 人間は進化した動物である。「身体だけでなく、ひとのこころも進化によってデザインされた」 《新潮新書 『言ってはいけない 残酷すぎる真実』 橘 玲著 780円税別》とある。進化の過程のどこかでデザインが間違ってきている。まだ訂正は可能である。進化した人間の強みは、原因を突き止めて改善する知恵と勇気があることだ。そうできれば、虐待や間違った体罰をきっと効果ある躾にデザインできる。


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コーヒー 珈琲

2016年06月03日 | Weblog

  私は嗜好品オンチである。もちろん本物の音楽的な音痴でもある。音楽はさておき嗜好品と私の関係を振り返ってみたい。

 嗜好品は辞書に「栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物。酒・茶・コーヒー・タバコの類」とある。私は酒・茶・コーヒー・タバコのどれひとつとも仲良くなれなかった。美味いと感じたことがない。嗜好品を楽しめる人々を尊敬する。

 なぜ私は酒・茶・コーヒー・タバコどれひとつ楽しめないのだろう。父親の影響かもしれない。父は毎夕食時晩酌していた。徳利一本分夏も冬も燗をして飲んでいた。父は酒も飲んでも酒乱ではなかった。外へ飲みに行って酔って帰って来たこともない。茶は良く飲んでいた。コーヒーもあの当時としては珍しく豆を買ってきて挽いて面倒くさい入れ方で砂糖を入れずに飲んでいた。父以外家族の誰も飲まなかった。タバコ、そうだ父のタバコが私を嗜好品オンチにした主因に違いない。父は明らかにニコチン中毒だった。タバコを口から離さなかった。寝床でも吸い、枕やシーツや布団を焦がしていた。私はいまでも焦げた父親の寝床を思い出せる。タバコが原因の夫婦喧嘩も絶えなかった。今にして思えば徴兵されて満州での戦争体験、その後のシベリア抑留、帰還後のゼロからの再出発、父はストレスの塊となりながらも家族のために懸命に働いていたのだろう。

 そんな父を見ていて、私は小学校の時、自分は絶対にタバコは一生吸わないと決めた。高校の時、カナダのキリスト教の全寮制の高校へ転校した。その学校ではタバコ、男女交際、コーヒーはご法度だった。コーヒーは成長期に飲むと身長を伸ばさないと言われた。若気の至りでカナダから日本に戻った頃、数回タバコを試したが、激しくむせて、具合が悪くなりそれ以来タバコに手を出していない。結婚して二人の子どもの父親となり離婚した。二人の小6、小1の子どもを男手ひとつで育てなければならなかった。ゆとりなどなかった。お茶もコーヒーも嗜むことはなかった。あそびのない車のハンドルのようなギリギリで過敏な生活を13年間送った。

 44歳で再婚した。無芸大食無趣味な私にはもったいない才能豊かでどんなに話をしていてもあきない女性である。完全な人間などいない。妻はタバコはすぱすぱ吸う、酒は歩けなくなり記憶がなくなるほど飲み、コーヒーはブラックで超ニガイ、茶は濃く渋いのを好むと私と大きく違っていた。そんな彼女だが私のたっての願いでアフリカのセネガルで禁煙をはじめ、いまではまったくタバコは吸わない。それでもコーヒーはネッスルのカプセル式コーヒーメーカーで黒の一番強いもの、日本茶も相変わらず渋くて濃いものを飲む。酒も止めると何度も誓約書を作ったが、いつの間にかまた飲んでいる。すでに結婚して24年になる。お互い歳を重ねてきた。

 朝、妻がコーヒーを入れてくれた。私用のカプセルは赤(カフェイン抜き)からクリーム色のvanilio(バニラの香り)に変えた。カフェイン入りでミルクと砂糖は今まで通り。何だか少し成熟してきたような気になった。この歳になっても変われることもまだある。コーヒーカップ片手に竹林に差し込み始めた日光を見ながらピンキーとキラーズの『恋の季節』を聴いた。ドーナッツ盤のレコードである。♪・・・夜明けのコーヒー・・・♪

 


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