団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

年金事務所 予約でいっぱい?

2023年12月29日 | Weblog

  年金事務所から葉書が届いた。私の年金が増額されるとの知らせだった。私の妻は、まだ働いている。私たち夫婦は、世間一般の夫婦と違う。外で妻が働いていて、私が家で主夫をしている。妻と私は、年齢が干支で一回り違っている。私は、すでに年金を受給している。自営業だったので、国民年金だけしかない。先日、北野武さんが、自分の年金の額が国民年金だけで額を知った時、気絶しそうになったとか。私の受給額は、北野武さんより若干少ない。

  働いている妻が、65歳を過ぎた。“老齢基礎年金への加算金に関する手続きのお知らせ”の葉書が届いた。支給を受けるためには、「国民年金老齢基礎年金額加算開始事由該当届」を提出する必要があるとのことだった。年金は、すべて受給者側からの請求手続きが必要である。妻が、葉書に記された必要書類を集めてくれた。28日、年末年始休暇の前だったが、有給休暇をとって、年金事務所に出向くことにした。葉書には、郵送でも良いとあったが、私たちの過去の年金手続きの経験から、直接窓口で、係の人と手続きした方が良いと分かっていた。妻が、電話で年金事務所に問い合わせてくれた。電話で応対した男性職員は、不親切な人だったそうだ。まず予約を取るように言われた。今なら予約が取れるのは、1月下旬だと言われた。妻が「直接事務所に行って、手続きできるか」と尋ねた。男性職員は、「来ていただいても、相当長い時間待つようになります」と言ったそうだ。以前年金事務所に行った時、相当な時間待たされた。

  妻はすでに有給休暇をとってしまった。私は、提案した。待っても良いから、朝早く事務所に行って、待てばいいのでそうしようと。半日にくらい待ってもいいと覚悟した。

  28日朝、いつものように5時に起きて、朝食をとって、7時前に家を出た。事務所は、車で1時間半くらい離れた所にある。道が空いていたので、事務所には8時前に到着した。駐車場には1台しかとまっていなかった。玄関のドアの前に妻が並んだ。事務所が開くのは、8時30分である。男性職員が言った通りなら、すでに予約の人や私たちと同じく予約なしで来る人が相当数並んでいてもいいはず。でも私たち以外に人はいない。親切な女性職員が中で待つように言ってくれた。

  8時30分になった。予約の人どころか誰一人年金事務所に入ってくる人がいない。係の女性が来た。ブースは、たくさんあったが、待合室の隅の書類などを記載する机で、立ったままの応対だった。妻が用意した書類を点検して、私の免許証での本人確認をした。問題なく書類が受理された。9時近かった。まだ誰も事務所に入って来ていなかった。駐車場に行くと十数台とまれるところにあったのは2台だけだった。おそらくうちの車の他の車は、年金事務所の車であろう。

  妻の電話に応対した男性職員の応対は、何だったのであろう。年末で仕事納めも近いので、来ようとする人を拒みたかったのか。いずれにせよ、適切な対応でなかったことは、事実である。でも私たちの計画がうまくいって、無事書類が受理されたので由としたい。

  いろいろあった年だったが、こうして残るところ、あと3日になった。3年以上にわたるコロナ禍、いつ感染するかの恐怖でウツになったが、命を失うことなく生き抜くことができ、また新年を迎えられそうである。


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2023年12月27日 | Weblog

上田に暮らしていた時、国際交流の一環として、南アジアからの若者の一団がやって来た。冬だった。珍しく上田市内にも雪が積もった。上田は、雪の積雪量が少ない。日本海からの湿った空気が菅平近辺で山にぶつかる。菅平には、雪がたくさん積もる。菅平は、スキー場として有名である。上田市内も雪に覆われた。宿舎で目を覚ました南アジアの若者たちは、生まれて初めて本物の雪を見た。フィリピンから来ていた女性が、泣いていた。雪に感激したらしい。雪がこんなに綺麗で冷たいと感激していた。幼い頃から、絵本や本で雪の事は知っていたけれど、本物は、想像を超えていたという。

 私は、子供の頃から冬には雪が降るのが、当たり前と思っていた。雪の降る夜、全ての音が雪に吸い込まれたような静けさが、好きだった。まるで音のない深い海に沈んでいるような気がした。朝、雪がやんで、太陽の光が雪にあたってキラキラ光る景色も美しかった。かあちゃんと雪かきをした。かあちゃんは、裏の一人暮らしの山浦のおばあちゃんの家まで雪かきをしてあげていた。雪かきは、重労働だ。終わると、かあちゃんも私も、体から湯気がでた。

 高校の途中からカナダに渡った。全寮制の高校で大平原の真っただ中にあった。入学式があった9月に雪が降った。卒業式が行われた6月にも雪が降った。そこの雪は、粉雪で雪合戦の雪のボールを作ることができなかった。気温は、マイナス20℃が普通。酷い日は、マイナス40℃の日もあった。寮の窓の外に張り出した板が冷凍庫替わりに使えた。大平原に降る雪は、積もらない。風が強く、雪を吹き飛ばして、吹き溜まりをたくさん作る。道路にできた吹き溜まりに、よく車が突っ込んで動けなくなっていた。雪が乾燥していて砂のようになっていたので、運転して滑るという事はなかった。ただ少しでも雪が融けて、それが凍った場所では、スリップ事故が起こった。

 日本に帰国して結婚。二人の子供が生まれた。しかし離婚して二人の子供を引き取り育てた。子供が大学を卒業する頃、出会いがあった。再婚した。相手の母親は、新潟の豪雪地帯の出身だ。出産の時、母親は、新潟に戻った。無事出産した。父親が長野県から新潟の母親の実家に向かった。カンジキを履かされて歩いた。黒い線のようなモノがあった。案内していた母親の父親が、「それ電線だから踏まないように」と言った。妻の父親は、びっくりしたと同時に恐ろしくなったという。家に着くと、玄関が二階にあった。冬の雪がある間、二階の玄関から出入りしたという。

 再婚した妻と海外5ヵ国で13年間暮らした。ほとんど雪が降らない国だった。しかし最後が、ロシアのサハリンだった。私が留学していたカナダと同じような気候だった。インフラは、カナダとは比較にならないほど悪かった。

 今、私たち夫婦は、終の棲家として湘南の温かな地に暮らす。雪はほとんど降らない。1年中何らかの花が咲いている温暖な地である。

 ニュースや天気予報で日本の各地での大雪警報などと聞くと、雪国で暮らす人々の苦労を思う。同時に雪を見て触って泣いたフィリピンの若い女性を思い出す。


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大往生

2023年12月25日 | Weblog

  私の母が亡くなった。98歳だった。母の母親と同じ様に大往生であった。老健施設に入所していた。前の日まで普通に生活できていた。朝、施設の人が部屋に行くと息をしていなかったそうだ。母の母親は、89歳の時、前の晩、一緒に暮らしていた叔父の家族に「おやすみ」と言って寝室に入った。次の朝、いつも自分で寝室から出てくるのに、時間になっても出てこなかった。布団の中で息を引き取っていた。ピンピンコロリ。死ぬ直前まで元気で暮らして、死ぬときは、コロリと息を引きとれる。多くの人の願う死に方である。場所によっては、ピンピンコロリの願掛けができる寺があると聞いている。私もそう死ねるよう、長野県佐久市にある成田山薬師寺の“ぴんころ地蔵”にわざわざ祈願に訪れたことがある。

 母は継母である。私の産みの母親は、私が4歳の時、お産の途中で赤子と一緒に亡くなった。4人の子供が残された。父が一人で近所の人たちに助けられながら子供の面倒をみた。私は、最初に東京の父親の姉の家族に、その後新潟県直江津の母親の妹の家族に預けられた。長野県の家に戻ると、新しい母親という人が家にいた。後で聞いた話だと、産みの母親の母親が、母の未婚だった妹に姉の4人の子供が不憫なので父に嫁ぐよう命じたそうだ。産みの母親の妹だった。私の二人の妹は、すでに「おかあちゃん」と呼んでいた。私の5歳年上の姉が私に厳命した。「あの人は“おばちゃん”絶対に“おかあちゃん”って呼ぶんじゃないよ」 私と姉は、長い間“おばちゃん”と呼んでいた。

 私が初めておばちゃんを「かあちゃん」と呼んだ日を覚えている。小学校1年生の時だった。雨が降った日、小学校の玄関に傘と長靴を持った人が立っていた。それを見て、私は咄嗟に「かあちゃん」と言った。

 かあちゃんは、強い人だった。とうちゃんと喧嘩も絶えなかった。だいたい子育ての事でもめていた。かあちゃんは、「死に別れより、生き別れ」と言っていた。死に別れは、その人の良い所が神格化されて、どんどんいい人になる。生き別れは、嫌いで悪い点がどんどん誇張されるから未練もなくなるというのだ。後に私自身が経験することになった。

 かあちゃんは、努力家だった。かあちゃんの母親は、9人子を産んだ。かあちゃんは、四女だった。かあちゃんの後に男の子が4人と妹が1人生まれた。尋常小学校に2年も行かないうちに、子守のために学校へ行けなくなった。かあちゃんは、漢字を習うことができなかった。かあちゃんは、私が小学校で習って来た漢字を教えてくれと私に頼んだ。チラシの裏を糸で束ねて、ノートを作った。私にとって、これは復習になった。ずっと私の国語の漢字テストは良い点だった。かあちゃんは、その後、本をたくさん読むようになった。私や妹が学校の図書館から借りて着た本を喜んで読んだ。

 子供たちが大きくなって手がかからなくなると、かあちゃんは、父親と別居した。工場で働いた。工場のプレスの機械で指先を潰した。会社にプレスの機械の安全性を高める提言をした。会社は、その提案で機械の特許をとった。かあちゃんは、会社から表彰され報奨金をもらった。別居は、3年続いた。子供たちが、父親に謝らせて、再び一緒に住むようになった。父親は、見栄っ張りだった。稼ぎも悪かった。

 かあちゃんは、金に関しても凄かった。少ない収入の中から貯金を続けた。貯金も利子を増やすために、郵便貯金と信金の口座に金を移動させることまでやった。一定の額が貯まると、10年定期にした。工場勤務の後、かあちゃんは、私が結婚した相手の父親が経営する結婚式場と食堂で皿洗いとして勤めた。私が離婚しても、年金の事があるから辞めないとそこで働き続けた。職場で、いろいろ言われ嫌がらせもあったが、かあちゃんは、居続けた。

 そんな爪に火を点すようなかあちゃんの生き方を、父ちゃん似だったのか、4人の子供の誰も受け継ぐことはなった。

 離婚した私のアパートに休みの日は、1時間かけて自転車で来て、部屋を掃除して便所の便器をピカピカに磨いて掃除してくれた。いつも「二人の子供を育てることがお前のやるべきこと」と力づけてくれた。

 父が死んだ。火葬場で焼かれる父を見ながら、かあちゃんが言った。「死ぬと人間皆平等になるね。クリスチャンでも創価学会でも、大学出た人も小学校にも満足に行ってなくても、偉い政治家も普通の人も、金持ちも貧乏人も、皆同じ火葬場の炉で焼かれてしまう。凄いことだね。結局人間は、違って生まれて、異なる人生を送るけれど、最後は皆同じなんだね。次は私の番だね」 偉い哲学者の言葉のように聞こえた。

 親不孝な息子だったけれど、多くの事を学んだ。炎天下、二人で屋根のトタンにペンキを塗ったこと、便所の汲み取り料を節約するために、二人で汲み取りをして、畑にまいたこと、カナダへ留学の出発の日、自転車の後ろの荷台にトランクを縛って載せて、二人で公園の脇の坂道を駅まで話しながら歩いて行ったこと、かあちゃんが父親と喧嘩した後、私を連れて高峰秀子の映画『喜びも悲しみも幾年月』を観て帰りにカツ丼を二人で食べたこと。

 明日かあちゃんは荼毘にふされる。かあちゃんが言っていた通りに「最後は皆同じ」になる。良かったね。そして「次はこの私」の番。少しでもかあちゃんのように生きようと、最後まで努力したい。


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電池交換

2023年12月21日 | Weblog

  駐車場に入るのにも出るのにも、リモコンでシャッターを開け閉めしなければならない。朝妻を駅に送るために駐車場から車を出す。車もリモコンで離れた所からでもドアの開閉ができる。車にドアにカギを差して、開けなくてもいい。なんと便利な時代だ。車に乗り込む。シートベルトを着用する。車の中からリモコンを操作して、駐車場の出入り口のシャッターを開けようとする。開かない。シャッターに反応がない。仕方がないので、シートべルトを外して、リモコンを手にドアを開けて、車から降りる。シャッターに向かって、2,3歩で開くときもある。酷い時は、ほとんどシャッターの前まで歩いて行かなければならない。車に戻ると、助手席に鎮座まします妻が、「リモコンを向ける角度がいけないんじゃない。もっと水平にしなきゃ。もっと上なの。もっと下に。」とのたまう。毎朝の恒例となっていた。

 電池を替えてみることにした。まず電池の型番などを調べなければ。リモコンを顔に近づけて調べる。字が小さい。電池交換の仕方も、蓋の開け方も書いてない。仕方がないのでネットで“万歩計 電池交換 蓋開け方”と入れた。何やら小さいツメを押して、凹みに指を入れ引き出すとあった。ツメと言ったって、1ミリ2ミリのモノ。手の爪は切ったばかりで、爪は無いに等しい。それにこの間隔でツメと凹みを同時に操作するのは、至難の業。ピンセットを使って爪を押さえ、凹みに指をかけ、引き出した。電池を発見。何だか金かダイヤモンドを掘り当てた感じがした。老眼鏡をかける。老眼鏡でもよく見えない。虫メガネを探す。ない。どこだ。あった。焦点が合わない。見えた。CR2032。電池を買い置きしてある引き出しを開けて探す。ない。買いに行かなければならない。散歩途中にあるドラッグストアで買うことにした。散歩の身支度を整え、電池を買う金をポケットに入れた。万歩計の電池もついでにチェック。電池切れの知らせが出ていた。ラッキー。一緒に買ってきて交換しよう。調べると同じ型の電池だった。

 家の中には電池で動く機器がたくさんある。テレビのリモコン、エアコンのリモコン、トイレのウォシュレットの操作パネル、パソコンのマウス、パソコンのキーボードなどなど。他にも充電式の電池も、充電しなければ使えなくなる。記憶力が抜群で、いちいちすべての機器の電池交換した日時を覚えていられれば良いのだが、なにせ脳が弱くなってきて、自分の事でさえきちんと覚えていられない。備えあれば憂いなしは、私に適用されない。備えがないので憂えてばかり。日進月歩の社会であっても、電池という分野においての発展進展は、遅い気がする。電気を飛ばす研究が進んでいるそうだ。電池を搭載しなくても、電気機器を使うことができる時代が来るかもしれない。

 私が生きているうちに電池がいらない時代が来ればいい。それまでは、こまめに機器の電池容量をチェックするしかない。便利この上ない電気機器のお陰で、以前はとてつもない手間と時間をかけていた事でも、数分数時間で済むよういなった。せめて電池の交換時に日時をメモしておくぐらいの手間は惜しまないようにしたい。ただ問題は、私の脳がそのメモをどこに書いて置いたかを覚えていられない事だ。


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露天風呂騒動

2023年12月19日 | Weblog

 友人夫婦が、先週末我が家に来てくれた。客人が家に泊まるのは、4年ぶりである。友人夫婦から以前ハカラメ(セイロンベンケイ 別名:トウロウソウ)という珍しい植物をもらった。友人宅ではすでに70センチくらいになったという。私も鉢に園芸店で買った栽培土を入れ4鉢にハカラメのもらった葉を置いた。名前の通り、じきにその葉から芽が出て来た。大事に見守った。芽がでてから1カ月経った。鉢に栄養剤を差し込み、水も霧吹きで優しく与えた。3センチくらいにまでなったが、それ以上伸びなかった。友人はすでに幾鉢も育苗に成功していると聞いていた。そこで私は、一鉢譲ってもらうことにした。鉢を持ってきてもらうので、車で来てくれることになった。途中の駅まで私たちが電車で行き、合流することになった。ランチを一緒にして、その後、日帰り温泉へ行った。

 友人と私、私の妻と彼の妻、男湯と女湯の入り口の前で分かれた。時間を決めたわけではなかった。ただあがったら、2階の休憩室に集合と決めた。温泉に行く前の会話で、友人は、「温泉、嫌いではないが、長く入っていることができない。入ってせいぜい5分くらいかな」と言っていた。私も子どもの頃から、“烏の行水”と言われていた。面倒くさがりで、服を脱ぐのが嫌だった。湯から上がって、体を拭いて、また服を着ることに抵抗と疑問があった。妻はそういう私の入浴時間を知っていた。

  大きな風呂に温泉が並々。人はまばらだった。外に露天風呂があった。その日は、12月としては、異常に気温が上がっていた。友人と露天風呂に入った。目の前に山が見え、温泉の脇のモミジの樹の葉も綺麗に紅葉していた。温泉は、41℃と表示に出ていた。体のほとんどはお湯の中。私たちの首から上は、気持ち良い外気。二人の会話が弾んだ。“5分”はすでに過ぎていた。

  温泉に浸かりながら、今年の夏の暑さを語り、コロナ禍の恨みつらみを話した。まだガスも電気もなかった昔、人々にとって、地面から自然に湧き出す熱い温泉が、どれほどありがたい事であったかをも話した。「長くて5分」の友人と「烏の行水」の私。「出ようか」とどちらかともなく言って露天風呂から出た。脱衣所で着替えて休憩室へ上がって行った。

  休憩室は、広い畳の部屋だった。見回しても、私の妻も彼の妻もいない。妻は、長湯なのでまだ温泉を楽しんでいるのだろうと勝手に思い込んだ。どこの日帰り温泉の休憩室も同じで、必ず湯疲れした人たちが、座布団を集めて、寝転がっている。私もそうしたかった。畳が苦手。立ったり座ったりがひと仕事である。座卓に手をついて、「よっコラショ」の掛け声とともに畳に座り込んだ。

  座った場所から階段から上がって来る男性が見えた。その後ろに私の妻が上がって来た。何やら妻が男性に話している。妻が休憩室の私の所にやってきた。「心配したよ。倒れているのかと思って、受付へ行って男湯へ行って、呼び出してもらったの。ああ、よかった。」

 小一時間入っていたらしい。長い間、時間を忘れるなんていう事がなかった。友と温泉に浸かって語り合うことができる日は、もう来ないかもしれないと思っていた。妻には、心配かけたけれど、忘れられない露天風呂騒動であった。


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子を持たない選択

2023年12月15日 | Weblog

  再婚した今の妻に、時々グサッと突き刺さることを言われる。「あなたには2人も子どもがいる」 妻は、自分に子供がいないことを、やはり気にしているのだろうか。妻は、子供の頃から自分のDNAは残さないと決めていたという。私は最初の結婚で二人の子供の父親になった。計画的に子を持ったというより、事の成り行きとでも言ったらいいのか。離婚してその二人を私が育てた。

 日本は、少子化が国の存亡を揺るがしかねない事態に追い込まれている。現政権も少子化対策を重視しているが、状況を変えられるような政策は出されていない。40年ほど前、ロケット博士の糸川英夫氏の講演会で、博士は「この先、日本の人口は、今の半分になって豊かな暮らしやすい国になる」というような事を言った。当時私は、人口が減ると日本は良くなると信じた。カナダ留学時代、まわりの現地の人から頻繁に「日本は、国が小さいのに人口密度が世界で最も高いんだって、ギュウギュウ詰の東京の電車みたいな所で、皆どうやって生活しているの?」などと言われた。何か人口密度が高いことが悪いことのような言われ方に、私は落ち込んだ。

 カナダから長野県に帰って暮らした。高校の同窓生の多くが地元を離れていた。東京一極集中が加速していた。長野県のような農業主体なところは、嫁不足が深刻な問題になっていた。結婚相手を海外から迎い入れることも多くなった。

  第二次世界大戦の前、私の母方の祖母は、9人、父方の祖母は5人の子供を産んだ。私の両親は、4人。5人目の出産で、母と赤ちゃんが死んだ。後に母の妹が継母になった。継母は、「もし私が子供を産んでいれば、家族の中が複雑になると思ったので、あえて子供を産むことはしないようにした」と語った。その先見性と強い意志は、私のような軟弱で、行き当たりばったりで生きてきた者にとって、眩しい程気高く見える。

  妻が子供を産まなかったせいもあるが、私たち夫婦の周りには、子供がいない夫婦が多くいる。夫婦二人の問題なので、理由は聞かない。子供が欲しくても恵まれないこともあるだろうし、あえて子供を持たない夫婦もいるだろう。私の姪にも結婚しなかった者もいる。結婚したくてもできなかった姪もいるし、自分から独身を決めている姪もいる。

  妻の母親がある時、私たちに「子供を産めば。私が育てるから」と言った。私たちの結婚にあれだけ大反対した人が。変わってくれたことは、嬉しい。でも私は、離婚後子供二人を育てた、長男に続いて長女が大学を卒業して、毎月の仕送りをしなくてもよくなった初めての月、通帳にしっかり残高があった。それを見て、膝から崩れ落ちるのではないかという気持ちになった。奴隷だった人が、自由人になれた気持ちって、こんなだったかもしれない。

  再びあの苦しい仕送りは、もうできない。やる気も起こらない。世間には、血のつながらない他人の子を養子にして育てる立派な人もいる。やはり私は、寛容でもなく度量の小さい人間である。二人の子供を自立させたことで放免して欲しい。

  なるようにしかならない。ただ、今は、お布施集めに夢中の新興宗教が、その財力で「産めよ 増やせよ 地に満ちよ」と言って、信者数を増やすために出産を勧める方針を出さないことを願うのみ。


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今年の漢字『税』

2023年12月13日 | Weblog

  今年の漢字が『税』に決まった。

 アメリカ大リーグ元エンジェルスの大谷翔平選手がロスアンジェルスドジャースと10年7億ドルで契約が成立したという。日本人選手が、プロスポーツ史上最高額の契約となった。7億ドル(日本円1015億円)は、私にとって天文学的な金額である。彼が支払う税金が凄い。アメリカ連邦政府への税金が37%、カリフォルニア州の州税が13.3%、米国の公共医療保険制度のメディケアに2.35%、そして、州の傷害保険に1.1%」という内訳になっており、約53.75%が税金になる模様だ。年俸で7000万ドルとすると、1年で3763万ドルの税金を支払うことになる。日本円に換算すると年間約55億円だ。この数字を見て、日本の創価学会の年間お布施金の額が1000億円超えだったことを思い出した。1年間で1000億円。10年の大谷選手の1015億円には53.75%の税金がかかるが、宗教法人には税金がかからない。1年の総額と10年間の総額がほぼ同額。かたや53.75%の課税で、もう一方は無税。大谷選手の契約金に驚くより、驚く相手が違うのではないか。

 国民の三大義務は、納税・勤労・教育と言われている。日本の芸能界きっての稼ぎ頭であるのは、北野武さんである。その北野さんがテレビで「1カ月6万円だもん。めまいがして倒れた」と言った。おそらく北野さんは、自分が支払ってきた税金の額に対して年金がたったこれだけかと言いたかったのではと推測する。

  長くアメリカの商社の駐在員として勤めた知人は、アメリカからも年金が入るので助かると言っている。日本在住のイタリア人の友人も本国からの年金支給が始まって、最近の円安で年金が増えたと喜んでいる。私も自営業だったので、北野さんと同じで国民年金だけの支給である。国民に納税・勤労・教育の三大義務があるなら、政府にだって国民に三大義務に対して当初立法までして決めた事項履行の義務があるのでは。それなのに支給年齢を遅らせたり、支給額を減額したり、年金の中から税を徴収したりでは納得がいかない。やることが姑息で行き当たりばったり過ぎる。

  ふるさと納税は、納税者が、日本の税金の中で唯一使途を指定できる点で評価している。国民は、納税しても自分の税が、何に使われているのか知ることができない。国会議員の政治資金パーティにみる国会議員の偽善などを知ると、情けなくなる。特に谷川弥一議員(82歳)のような厚顔無恥で旧パラが国会議員でいられる不思議。

  大谷翔平選手が、どれほど税金をとられても、野球少年のままで野球に打ち込む姿は、美しい。彼がどれほど稼ごうが、妬む気にはならない。ただ怪我することなく、これからの選手生活を全うして欲しい。


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キノコ

2023年12月11日 | Weblog

  先々週のBS日本テレビの『イタリアの小さな村』(毎週土曜日午後6時放送)でカラーショ村が取り上げられた。そこに住む村人がくぼ地の草原でキノコを採っていた。白いシメジに似たキノコをカゴいっぱい採った。村に戻った彼は、キノコを友人達におすそ分けした。友人の一人が「これは毒キノコか?何か魂胆があるな」と尋ねた。もちろん冗談だ。これを見て、どこの国でも毒キノコの心配があるのだとあらためて思った。

 ユーゴスラビア(現セルビア)のベオグラードに暮らした。当時NATOの経済封鎖を受けていた。人々の生活は、経済封鎖の影響で貧しかった。しかし農業大国なので食料は、十分あった。市場には豊富な野菜果物が売られていた。秋になると市場や道路端でロマーノ(以前はジプシーと呼ばれていた)がキノコを売っていた。キノコ好きの私は、買おうと思った。しかしユーゴ人の友達は、「彼らからキノコを買うのは危険だ。彼らから買ってキノコを食べて死んだ人がたくさんいる」と言った。私もかつて上田市のキノコ名人がやっていたスナックで赤テング茸の煮物を食べてひどい目に遭ったことがある。

 ネパール、セネガル、ユーゴスラビア、チュニジア、ロシア住んだ国々のどこでも食べられるキノコを探した。ネパールでは、もしかしたら松茸を採れるかもと期待した。あちこち山に入って探したが、松茸どころかキノコ一本も見つけられなかった。ブータンに行った人からお土産に立派な松茸をもらって食べたのがネパールでの最初で最後のキノコだった。チュニジアにも松茸が出ると聞いたので、キノコ探しに行った。松茸はなかった。でもナポレオンが好きだったというタマゴ茸やアンズ茸を採ることができた。ロシアのサハリンはキノコ天国だった。松茸があるとここでも聞いたが、松茸でなくヤマドリタケの一種だった。サハリンで私の釣りや山菜取りやキノコ狩りの師匠だったリンさんのお陰で、サハリンではキノコ狩りを思う存分楽しめた。

 終の棲家と住む町は、海に面している。山もあるが、ここの人たちがキノコ狩りをするとは聞いていない。店にも野生のキノコは出てこない。仕方がないので毎年長野県から松茸を取り寄せるのだが、今年は、その商店にホームページには「準備中」と記されたままシーズンが終わってしまった。仕方がないので、スーパーでカナダ産や中国産の松茸を買った。

 私は、松茸を鮨に握って食べる。松茸を薄く切って、両側に醤油をつけて火で軽く炙る。それをすし飯でなくて、握ったご飯に載せる。細く切った海苔で巻く。これが私の秋の行事になった。これを食べると「今年も秋になった」と感じる。

 今年、国産の松茸を口にできなかったが、イタリアのポルチーニを手に入れることができた。同じ店で中国産の黒トリフも買うことができた。松茸とポルチーニ。(イタリア ヴェニス 市場で売られていたキノコ) これが私の好きなキノコである。ポルチーニは、オリーブオイルで焼いて、塩だけで食す。薄くスライスしてスパゲッティと絡めれば、最高のご馳走になる。

 散歩の途中で川原の切株に白いキノコを発見。食べることができるのか、できないのかは判断がつかない。いままでにいったいどれくらいの人がキノコの毒で命を落としたのか。過去の犠牲で今、私たちが食べられるか否か知ってきている。それでも毎年ニュースでキノコ中毒の事故が報じられる。散歩しながら、キノコの、そして人類の長い歴史に想いをよせた。


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里芋の煮っころがし

2023年12月07日 | Weblog

  埼玉県に住む友人が里芋を送ってくれた。手紙が入っていた。「…小生、これでいいのかと思案しながら相も変わらず百姓仕事(?)。八十歳の峠をこすとさすがに息切れします。今年もサトイモができました。ほんのすこしばかりお送りします。暑い夏の日も水やりに精を出しました。雨不足で小振りですがご賞味いただければ幸いです。…」 友人は、技術者として勤めていた自動車の部品製造会社を定年退職してから家庭菜園を始めた。

 発泡スチロールの容器の中に新聞紙に包まれた里芋が入っていた。私は、里芋よりジャガイモが好きなので、里芋をわざわざ買って調理することはない。子供の頃、肉が食べたいのに、里芋の煮っころがしやカボチャなどの煮物ばかり食べさせられた。それも里芋を敬遠する理由かもしれない。しかし妻は、ジャガイモは嫌いだが、里芋は好きだ。友人が今年のあの猛暑の中、せっせと水やりに励んで、大事に育てた里芋だ。今夜は、妻の好きな里芋の煮っころがしをつくることに決めた。そうは言っても、私は、ネトネトして皮の剥きにくい里芋をうまく下処理する自信がない。包丁でローストビーフを切る時、誤って指先を数ミリ切り落としてから、包丁を使う時は、緊張する。里芋を友人が包んでくれた新聞紙を台に広げた。一番使いやすい包丁で1個ずつ皮を剥いた。やはり滑る。里芋を持つ手と包丁を握る手の連動がずれる。最近コキロクの脳と体の各所との連携がうまくいかない。あぶなっかしい手付きで皮を剥き終わった。包丁の先が、指に触ったが、切れることはなかった。

 さあこれから里芋を煮る。まるで友人が里芋を送ってくれるのを見越していたように、つい最近電気圧力なべを買ったばかりだった。以前海外で圧力なべを使っていて、鍋が暴発して怪我をしそうになって以来、圧力鍋を使うのをやめていた。当時、ガスを使っていたので、さらに危険だった。今住む家は、オール電化でガスの使用はできない。すでにカボチャや肉じゃがを作ってみたが、中々の出来だった。安全性も改善されていて、安心感があった。里芋を圧力鍋で煮てみた。煮崩れることもなく、中までしっかり煮えていて、美味しかった。夜、帰宅した妻と晩酌を始めた。妻に友人が送ってくれた里芋の煮っころがしを食べてもらった。「美味しい」の一言を聞いて、嬉しくなった。友人に手紙を書いた。

 昔、冬になると、近所の八百屋鈴木でおじさんが桶に里芋を入れて洗っていた。交差する2本の長い棒の一番下の開いたところに板がはってあった。交差した棒の一番上を手で持って、里芋と水が入った桶の中で棒を回す。里芋と洗い棒の板がこすれて音が出る。「キュッキュッゴシュゴッシュ」。今なら電動の機械で、簡単に里芋も洗うことができる。店では、洗ってきれいに皮も剥かれた里芋が真空パックに入れられて売っている。そして圧力鍋で短い時間に調理も可能になった。里芋に関わる環境も大きく変わった。肉肉、肉が食べたい、という時期も終わって、コキロクは、素朴な食べ物も抵抗なく受け入れられるようになった。何よりも、里芋を苦労して育てて、収穫して冷蔵便で送ってくれる友人の気遣いを想うことができるよういなった。敬遠していた里芋だが、友人の汗と時間を感じながら、味わって食べた。

 いろいろ心配不安がつきない毎日だが、里芋は、温かい友の存在を伝えてくれた。


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新しい3年日記新しいカレンダー

2023年12月05日 | Weblog

  3年間書き続けた日記帳がいよいよ最後の1カ月となった。3年前、新しい日記帳を買う時ずいぶん迷った。10年日記、5年日記、3年日記、1年日記か。願いは10年日記だったが、内心「10年は無理じゃねぇ、86歳までなんて。5年か自信がない。なら1年。何か辛いな、準備ができてない。なら3年だ」で手を打った。こうして税込み1980円の3年卓上日誌を買って来た。

 たった8行の日記である。万歩計の数字、天気、気温、郵便物、メール、宅急便、体重、脚点、体操、歯磨きについての記載。8行がこれで大方埋まる。書くことで毎日やらなければならない事から逃げられない。習慣化する。こうして結婚以来ずっとどこにいても日記は、続けた。小学校中学校、ずっと何をやっても言葉通りの『三日坊主』だった。長い休みの最後の日は、最悪だった。特に日記は、過去の事をまとめて書くのは至難の業だった。小学校5年の時の担任教師は、厳しかったので、休み明け、日記が間に合わず、具合が悪いと言って、ずる休みした。今でも夢でうなされる程、どうしても記憶から消せない苦い思い出だ。離婚という予定も予測もしなかった人生の失態が、私の人間としての改造の起点となった。二人の子供を育てるためにガムシャラに働いた。3年間毎日、禅寺へ坐禅に通った。長男を全寮制の高校へ、長女をアメリカへ留学させた。学費生活費の仕送りのために4つの仕事を持った。長い苦しい13年間だった。やり遂げた。そして運命的な出会いがあった。二人の子供も大学を卒業した。再婚できた。私は誓った。生涯日記を書き続けようと。再婚して32年になる。日記を書き続けている。3日坊主だった私がである。離婚という大事件が、子育てという大事業が私を変えた。とにもかくにも親子3人路頭に迷うこともなく、それぞれが家庭を持って、普通の暮らしができている。

 コロナ禍で大変な3年間を過ごした。その間もずっと日記は書き続けた。私の人生で最も貴重な記録になった。なぜなら誰もこのような長い隔離された時間を経験したことがないからである。離婚もコロナ禍も、きっと私を人間的にさらに向上させてくれたと信じたい。

 新しいカレンダー、行きつけの店や、通販の会社から送られてくる。まだ日本の景気が良かった頃、使いきれないほど、多くのカレンダーや日めくりの処分に困った。景気が悪くなってからは、カレンダーの数が、丁度よい数にまで減った。

 コキロクは、こぼす・落とす・つまずく・忘れる・聴こえない・言葉が出ない・かがめない・目が疲れる・寝つきが悪い・昼間急に眠くなる・本を長時間読めない・電話が鳴るのと電話で話すのが恐い・入れ歯を入れるのを忘れる・良いアイデアが浮かんでも数秒で消える。忘れないように、カレンダーに赤いマジックで予定を書いておく。病院関係の予定が多い。友人が来てくれる日は、特別に大きく太く日にちの数字を丸で囲む。

 日記は、過ぎ去った時間の事を記録して、カレンダーには、これから起こることである予定を書き込む。日記に書かれることと、カレンダーに書かれた予定の中心に私がいる。12月に入って、妻の誕生日カードに書いた。「最後の最後まで…」 いつか最後が来る。日記は残る。カレンダーはいらなくなる。ちょっと寂しい。


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