団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

炎天下の草取り

2015年07月31日 | Weblog

  「言うまいと思えど 今日の暑さかな」作者不詳

 日中はほとんど一人で過ごすので、言いたくても誰かに「暑い」と言うこともできない。猛暑日が続いている。その上、この暑い時に私は普通に歩けない。杖を使って一歩一歩ゆっくり歩く。杖のおかげで左脚に全体重をかけなくても済む。これだけでもずいぶん痛みが違う。それでも右足の足裏が地に着くと激痛がはしる。また痛風かなと思ったが、妻の見立てでは違うという。以前にも同じような症状がでて10日もすると自然に痛みが消えた。今回もそうであることを願う。

 暑い日中に外に出ると歩みが遅い私は、太陽の光をこれでもかと受けることになる。熱中症には水分の補給とうるさく言われ水分をたくさん摂るせいか汗の出方が半端ではない。そんな私が黙らされた光景にぶつかった。私が入居している集合住宅の樹木や芝を管理している造園会社がある。その従業員かあるいはアルバイトなのか女性が地に這いつくばうように芝生の雑草取りをしていた。

 気温は優に30度を超えている。3人ともよく農家の女性が被っているつばの広い作業用の帽子なので顔は見えない。庇からは虫除けの網が垂れていた。長袖の割烹着に腕には手甲、手に軍手。腰には蚊取り線香を入れたホルダー。日陰はない。年齢もわからない。ただ一生懸命に働いているのは嫌でもわかる。こんな暑い日にこんな過酷な仕事、それも女性が。私は短パンに速乾性のTシャツ。杖は付いているが男に分類上仕分けられる。

 高校野球で炎天下、甲子園めざして球児たちがはつらつとプレーするのはわかる。頑強な男たちが建築現場や土木工事現場で働くのもわかる。天候がどうであれ、職業によってはどんな悪条件の中でも働かなくてはならない。生活するためには仕方がない。この世の中決して平等でも公平でもない。ブルーカラーとホワイトカラー、そしてそれぞれの中にも消しがたい偏見が存在する。私は真摯に生きる人たちを尊敬する。だったら私もそう生きたらいいと思う。ずっと自分の人生において過酷な肉体労働から逃げた。十代でカナダへ渡る前、アメリカ人宣教師の施設でこき使われた。便所の汲み取り、乳牛の世話、大工仕事なんでもやった。もう2度と騙されないと思った。父親の職人としての仕事の過酷さにも抵抗を感じた。跡を継ぐ気は全くなかった。今では肉体労働できない言い訳がある。私は健常者でない。どんな生命保険にも加入を認められない。当たり前のことだ。だから感謝するしかない。

 普段の歩みの5分の1の速度で進む。一人の女性が私に気が付いた。表情を見てはとれない。声が聞こえた。「こんにちは」 私も答えた。「こんちわ」 他の二人の女性も「こんにちは」と元気に答えてくれた。私は言葉を探す。以前先輩から「ご苦労様」は上から目線の表現だと注意された。「ご苦労様」をひっこめた。では何と言えば。「お疲れさまです」 まだ仕事をはじめたばかりの時にはおかしい。「暑いですね」 もうすぐクーラーを効かした自分の書斎に戻ろうとしている私が炎天下で作業する女性に使える言葉か。何も言えなかった。不甲斐ないことこの上ない。

 涼しい書斎での作業を終えて買い物のために夕方外へ出た。午前中3人の女性が草を取っていた芝生が綺麗になっていた。世界で芝生が一番手入れされているという英国にも負けないと芝生だと私は見惚れた。2020年の東京オリンピックのメインスタジアム建設が白紙に戻され、迷走している。スタジアムは並でもいいから、スタジアムの地面にはえる日本のおばちゃんたちが手入れした立派な芝生を世界に見てもらえたらいい。日本の女性ならいい仕事をやり遂げる。男性も精一杯応援しよう。


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義母骨折入院

2015年07月29日 | Weblog

  23日木曜日田舎で一人暮らししている義母が転倒した。救急車で病院に運ばれ24日午前中に手術すると連絡が妻に入った。24日勤務先から田舎に妻一人で行くことになった。日中病院での激務に耐え、その上自分の母親の入院。このところの猛暑で妻は疲労困憊の状態だったので帰郷は心配だった。

 案の定、23日の夜妻は7時に到着して夜遅くまで家の中を妹夫婦と一緒に片づけた。翌日も一人で片づけた。重要書類や通帳印鑑をまとめ、これからしなければならない手続きの準備をする。冷蔵庫の中などを整理しておかないと夏なので腐ってしまう。老人の一人暮らしの冷蔵庫の中は悪夢だと妻は言った。その上、物を捨てられない義母の家の中は大変な状態らしい。

 本当は私も妻と一緒に行って手伝いたいのだが、行かない言い訳は数えられないくらい心にゴロゴロ転がっている。正直妻の母親との関係は良くない。チュニジアの砂漠にいるサソリのはく製を売るチュニジア人の若者が「義理の母にサソリを」と日本語で言うのを聞いた。私の心にもそんな気持ちがないとは言えない。

 義母は頑固な人である。すでにとても一人では暮らせない健康状態で介護支援認定度なのに誰の言うことにも耳をかさずにいた。私たちの住む町の有料介護施設への入所を勧めたが義母は頑として拒否した。家への執着が強く自分が住む家から絶対に出ないと言い張っていた。とうとう皆が心配していた事態が起こってしまった。入院は最低1箇月。その後状況によってはリハビリで更に数箇月。当然彼女が絶対出ないと言い張っていた家には当分帰ることができない。帰れたとしても手術した不自由な脚で一人暮らしはもう無理かもしれない。

 私は家に一人残された。義母もこんな毎日だったのかなとテレビのスイッチを入れた。画面に大きな字のテロップ。「複雑性悲嘆」 TBSを観るはずではなかったが、「複雑性悲嘆って何?」とチャンネルをそのままにしておいた。番組は『爆報THEフライデー 夫ロスと闘う芸能人妻』だった。一人で食べる夕食はわびしい。テレビの番組を観ていて更に食欲を失くした。「複雑性悲嘆」とは悲しみがいつまでも終わらない症状だという。私の心を見透かされたような番組内容であった。

  年齢も離れていて、妻は健康で私は病気を持ち、すでに心臓バイパス手術を受けている。私が妻より長生きすることは考えられない。となると妻は一人残される。日頃私は一人残される妻を案じている。その番組は何も解決策も与えてはくれなかった。私自身でその対策を熟慮して時間をかけて準備していくしかない。大したことはできないだろうが。

  翌日の朝、一人で起き、一人で朝食を摂った。集合住宅の玄関前に引っ越し業者のトラックがとまった。そういえば私たちがここへ越して来た時、すでにここに住んでいた夫婦がここを出る日だった。挨拶を交わす程度の付き合いしかなかった。引っ越すと挨拶を受けてもいない。引っ越し作業の告知が張り出されていただけだった。しかし私は窓から一方的にでも見送ろうと夫妻の登場を待った。現れなかった。すでに本人たちはいないようだった。おそらく老後を過ごす施設に入居したのかもしれない。もしそうならば、なんと冷静な決断であろうか。人生の節目節目で自分なりに線を引くことは、できそうでなかなかできることではない。多くの場合、執着、依怙地、怨念、欲、人目に判断が狂わされる。

  私の父がすい臓がんで家から1時間ほど離れた大きな病院へ入院する前、父は家の周りを一周していた。あの姿が忘れらない。その後3週間もしないうちに他界した。

  家は確かに人にとって大切な場所である。それなのに誰にとっても永遠にいられる場所ではない。人は何も持たないで生まれ、何も持たないで死んでゆく。この事実は、理解することが簡単なようだが納得するには入念な準備と覚悟が必要だ。

 妻がボロボロになって帰宅した。私にできることは少ないが、せめてこの人を大事にしたい、最期まで。


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ヤマセミ カワセミ 宮ケ瀬ダム

2015年07月27日 | Weblog

  以前、私は鮎釣りが趣味の知人に私の家の近くでカワセミを見たと話した。彼は釣りも好きだが野鳥にも詳しいと知っているからである。手柄話のように自慢する私に彼が言った。「確かにカワセミも綺麗な鳥だけれど、ヤマセミには敵わない」 私は冗談だと思った。カワセミは聞いたことがあるけれど、ヤマセミとは。セミがつけば何でもいいんかいと。私はヤマセミの存在を知らなかった。

 ついに私にもヤマセミを見る機会が訪れた。釣りで山奥に入ることもないし、登山もハイキングも縁がない。海老名に暮らす友人夫婦が花火大会を観るために我が家に泊まった。友人夫婦が訪ねてくれると一緒にドライブするのが恒例となった。私は感じることがあって自家用車を大きなものからリースの小さな車にした。遠乗りはもうできない。友人夫婦は少し前にハイブリット車に替えた。馬力のある良い車である。すでに十国峠、三島、最乗寺、小田原文学館へと連れて行ってもらった。

 今回は厚木市の宮ケ瀬ダムへ連れて行ってもらった。退職してから友人夫婦は以前できなかった近隣巡りを丹念にしている。私が思う最高の旅は、良い案内人が同行する旅である。その点でも友人夫婦は非の打ち所がない。車を提供してもらい、運転してもらえ、ガイドしてもらえる。夫婦とも博識でユーモアたっぷり。

 外気温はうなぎのぼりの日だった。ハイブリット車内は快適に自動調整されていた。ダムと聞いていたが想像とはまったく違うダムだった。厚木市内から2,30分の山の中に忽然と姿を現した空間は人造地形だ。このダムの水でほぼ神奈川県内の必要水量を確保で来ていると言うから凄い。水、山、木、緑。自然に人間の手が入っているのに何だか優しい。それは設計から建設に至るまでの配慮熟慮が醸し出す理念なのであろう。

 普段は駐車場に車をとめることさえままならぬほど混雑するという。時間が早かったせいか、すんなり入れた。駐車場はダム建設で水没した集落の住民が営む食堂、土産物屋、宿泊施設が立ち並ぶ一画に隣接していた。そこを抜けると高台に出る。ダム湖は山並みに沿って曲がりくねっているので全体を見渡すことはできない。それほど広い。高台からダム湖の水際までの空間がいい。幅50メートルぐらいの階段が一気に5,60メートル下の芝生に覆われた広場に到達する。それは英国のバースで見た広場によく似ていた。気に入った。4人で熱い陽ざしの中、水際まで歩いた。吊り橋があった。観光船の船着場もある。クリスマスになると日本一大きなクリスマスツリーに電飾されるという樹齢100年を超えるモミの木。知らなかった。休眠中だった私の好奇心の塊に火がついた。中から外から温度が急上昇した。

 涼しさを求めて資料展示館の宮ケ瀬ビジターセンターに入った。涼しかったけれども閑散としていた。その空気から大して期待はできない御座なりの展示しかないだろうと私の脳は決めつけた。私の欠点である。2階の展示室で私はヤマセミのはく製を見つけた。一人興奮した。他の3人は特に興味を示さなかった。『撮影禁止』の張り紙はどこにもない。私は写真を撮った。ご丁寧なことにヤマセミの隣にカワセミのはく製もあった。私は踊り出したい気持ちを押さえてシャッターをきった。両セミが並んでいる。何という幸せ。

 友人夫婦のお蔭で今回も思ってもみなかったヤマセミとの出会いができた。はく製であっても、その美しさは十分に私を圧倒した。感動。百聞は一見に如かず。


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東芝不正経理

2015年07月23日 | Weblog

  またかと思った。東芝の7年間にわたっての不正経理が発覚した。大企業、それも大企業であればあるほど社会的責任は重い。ましてや国際企業となれば、日本国内だけの問題ではなくなる。

 それにしても不可解である。7年もの間どうして不正が発覚しなかったのか。東芝ほどの会社には当然会計監査法人が入っている。企業が自身で会計を監査していたらやりたい放題できてしまう。そうさせないために会社は外部に会計監査を委託しなければならない。そして毎年株主総会で会計報告をして承認を得る。私が以前経営していた会社でさえ税理士に税務署への申告を委託していた。税理士は元税務署署員の人で年間30万円近く払っていたと思う。正直驚いた。なぜなら彼は毎年「今年はどのくらい税金払うことにしましょうか」と私に尋ねた。このような会計の操作が日本全国で展開されているのが当たり前なのだと知らされた。

 会計は数字の世界である。かつて英国の宰相デズレイは「ウソに三つある。いいウソ、悪いウソ、そして数字」と看破した。私の親は、私たち四人の子供に挨拶すること、他人に迷惑をかけないこと、ウソをつかないことを厳しく躾けてくれた。でも社会に出るとウソが蔓延していて時々なにが真実でなにがウソかわからなくなった。それはいまでも同じである。

 最近私は思うことがある。それはテレビのCMは提供する企業の営業実態や企業風土を色濃く反映しているのではないかということだ。塩野七生著『海の都の物語 ヴェネッィア共和国の1千年』の25ページに「国づくりとは、その国の民族の性格の反映である」とある。これを「会社づくりとは、その会社の性格の反映である」「家庭づくりとは、その家族の性格の反映である」と言い換えられる。テレビCMは世相を反映もするが、会社の内部も反映するが私の持論である。私の大好きなTBS日曜日午後6時からの『世界遺産』は、提供がソニーからキヤノンに変わった。ソニーが番組を提供していた時のCMは観ていられなかった。キヤノンに変わった途端にCMが良くなった。最近トヨタのCMが心配になってきた。特にレクサスのCMはほとんどソニーのCMレベルに近づきつつある。東芝がライバルと位置づける日立のCMも好感が持てる。東芝はなぜかCMに力を注いでいないと思われる。

 東芝の社長で経団連会長だった土光敏夫さんを私は尊敬している。彼は「知恵を出せ、それが出来ぬ者は汗をかけ、それが出来ぬ者は去れ!」と言った。この7年間社長だった3人はこの土光さんの言葉を曲解して「知恵を出せ」を「悪知恵を出せ」としてしまった。墓の中で土光さんはさぞかし怒っていることだろう。

 この東芝問題が発覚した経緯が少し見えて来た。週刊ダイヤモンドが以前「証券取引等監視委員会に届いた内部通報がきっかけで発覚」と報道したということを知った。私の疑問が解けて来た。東芝の監査法人は7年間不正を見抜けなかったことになる。内部通報ということは、東芝の社内のだれかが告発したことになる。これが派閥闘争でなく、真に東芝を正そうとの英断だったことを願う。

 気になるテレビCMがある。セキュリティソフトの『FFRIプロアクティブセキュリティ』 のCM。いかつい白人男性が何台ものパソコンとモニターの前に座っている。ハッキングで他人のネットバンキング口座に侵入して、まんまと預金を引き出す。残高をゼロにしてしまう最後にハッキングに成功してせせら笑うハッカーの画面にテロップ:“恐いのは、お利口で悪い奴。” 私はこのCMをお気に入りの東芝のレグザの大画面で観ている。東芝もこんな垢抜けたCMを流せる会社に生まれ変わって欲しい。


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花火観る7組夫婦連なるベランダ手すり

2015年07月21日 | Weblog

  19日日曜日、夜8時からの花火パーティの準備に朝3時半から取り掛かった。別に3時半に起きようと思って起きたわけではない。目が覚めてしまったのだ。

 数日前の私の誕生日に孫たちからカードが届いた。中学生になる孫の英語学習をノートを作って手伝いをしている。彼のカードの封筒の中に期末テストの結果が入っていた。前回より下がっていた。サッカーに時間を取られてノートを活用できていないようだ。まるで自分が受けたテストのように凹んだ。毎日を能天気に暮らす私を久しぶりに深く悩ませることになった。

 花火パーティには私たち夫婦の他に6組の夫婦を招いていた。5時にいつものように妻が起床してきた。軽めに朝食を食べながら一日のスケジュールを立てた。午前中、掃除をしたり宿泊する2組の夫妻のための寝室に布団を運び込んだりしていた。朝から雲行きが悪く風が強く吹いていた。こんな天気だと花火中止かなと心配になった。一応友人たちには花火中止でもパーティは決行と伝えてある。午後は買い物と調理をした。そうして悩みを忙しさで紛らわせようと努めた。

 料理に使う湯葉を買いに豆腐屋へ行った。店の主人に「今夜の花火、こんなに風が強くて大丈夫ですかね」と尋ねた。「えっ、今夜花火あるんですか。知らなかったな」に私は「またやちゃったの」と内心悔いた。あわてん坊で早とちりで注意散漫。ありもしない花火大会を勝手にデッチあげ、何も知らない友人夫婦に声をかけ集めてしまった。「あ~ぁ、みんなになんて言って詫びればいいの」 今までの孫の英語のテスト結果の凹みの上に更に漬物石級の重みが2個積み重なった。

 不安が不安を産んだ。よく考えれば、花火大会の確認はネットで調べたのと駅に小さな立て看板を見たと言うだけである。いくら友人たちに花火中止になっても集まって飲もう、とは言ってあるが、そもそも花火大会はなかったなどということになれば、私の痴呆症が一段と悪化したとなる。自分でも自覚しているが、やはり私は普通の社会生活ができなくなってきているのか。花火大会は8月3日月曜日にも予定されている。そちらの花火大会はにぎやかな夏祭りの後なので開催の主旨がはっきりしている。2回、それも間隔が短いのはおかしい。いつの間にか孫のテストのことより花火大会があるのかないのかの心配が向いていた。

 花火大会はあった。私の勝手な想像ではなかった。全員がそろい飲み食べ話した。そして8時ちょうどに花火が打ち上った。私は安堵した。7組の夫婦がベランダの柵に一列に並んだ。14人中私を含めて7人は医学が今ほど進んでいなかったらすでに鬼籍に入っていてもおかしくない大病を患って手術を受けている。花火に映し出される14人の影。それぞれの目は花火に釘付け。きっとそれぞれがそれぞれの想いにふけっているに違いない。無言が続いた。私は隣にいた大学教授で中高一貫校の校長を務めたこともある友に孫のテストのことを囁くように話した。

 彼は言った。「孫は勉強をしてテスト受けた?」「ううん。サッカーの練習に夢中・・・」「勉強してなければ、テストはできない。大丈夫。そういう子はサッカーと同じくらい勉強すれば間違いなく勉強もできる」 その時空一面に3尺玉の大輪が開く。続いて「ドッガァーン」と腹に響く大音響。私の心配、不安は大音響とともに消えた。花火も消えていた。

  孫の英語の期末テストの設問の中に『あなたが将来何になりたいか英語で書きなさい』があった。孫の答え:I want to be a professional soccer player. 配点3点 で満点の3点だった。


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雨宿り

2015年07月17日 | Weblog

  7月に入って梅雨と台風が重なり雨の日が多くなった。16日の朝、いつものように6時45分に車で妻を駅に送った。妻は「行って来ます」と助手席のドアを元気よく閉めた。駅の改札の前に人だかりができていた。「まさか」と嫌な予感。しばらく車を停めていた。妻が車に戻り乗り込んできた。「運転見合わせだって。家を出る前にネットで調べたら“平常運転”とあったのに。新幹線は大丈夫みたい」 私は隣の新幹線停車駅まで車で送ることになった。新幹線駅からの帰途、隣の駅まで行く路線バスとすれ違った。臨時バスが出たらしく2台連なっていた。普段、数人しか乗客が乗っていないバスが通勤通学の人でギュウギュウ詰めの満員だった。運転見合わせは午後まで続いた。

 子どもの頃、私は夕立が好きだった。雨に濡れることを厭わなかった。ザーッと降ってパッと止む。時にはピカっと光1,2と数えると耳をつんざくような雷が鳴る。増水した水が側溝から溢れ、道路が水浸しになる。長靴にまで水が入り込む。それでも歩き回る。側溝に落ちるかもしれないという危険は、ドキドキハラハラの冒険遊びだった。普段とは違う別の世界に魅せられた。母親を困らせるほど着衣を濡らし着替えがなくなったこともあった。

  最近夕立という言葉さえ聞かなくなった。ゲリラ豪雨などという甚大な被害をもたらす恐ろしい降雨などが幅を利かす。すっかり気候が変わってしまった。夕立は優しさを持った夏の風物詩であった。雨宿りをしていれば、やがて止む。それは確信であって、それを裏切られることがなかった。雨宿りは楽しかった。近所の遊び友達がいつも一緒だった。雨を避けて寄り添った体と体の距離が近かった。雨音に負けないような大きな声ではしゃいだ。夕立の止み方も良かった。今か今かと待つ子どもたちの期待を知るかのようにピタっと止む。時には大きな虹が巨大な錦帯橋のアーチのように空に描かれた。

  時代は変わった。自然も変わった。16日の午前中、文房具屋へ車で出かけた。駐車場から道路に出た途端、物凄い雨になった。ワイパーを最強にしても間に合わない。前がよく見えない。車の屋根を叩く雨音は、まるでビー玉のでかいのが何千個も天から落ちて来たようだった。すくんだ。車を路肩に止めた。家に引き返そうかとも思ったが待ってみた。車の中の雨宿り。これは珍しいことだ。子どもの頃の夕立を思い出した。しかしあの頃のすぐに止むという確信はなかった。それでも5分くらいで嘘のように雨は止んだ。

  買い物を終えて家に戻った。リモコンで駐車場のゲートを上げている時、ふと集合住宅の壁面に目が行った。カラスアゲハが石垣の上にチョコンと止まっていた。「雨宿りか」と私はゲートが開く間、じっと見ていた。先日NHKの『ダーウインが行く』で日本の国蝶“オオムラサキ”が特集された。オオムラサキはとても強い蝶で樹木の樹液争いでもスズメバチやカブトムシなどの強敵と互角に戦っていた。カラスアゲハも強いのかどうかは知らない。でもこの雨で羽を叩き落されないように雨宿りしているようにしか見えなかった。雨が小降りになるとカラスアゲハは元気よく飛び立った。

  2020年の新国立競技場の建設費問題が姦しい。そもそもオリンピックは出場選手がスポーツで競い合う場である。まず出場選手ありき。選手がベストコンディションで競技に臨めることを最優先にするべきである。古代ギリシャのオリンピックは野外で、その上全裸で競った。全裸は無理としても野外でもいい。競技場に雨が降ったらみんなで仲良く雨宿りする。もうそんな悠長なことは言っていられないのか。何しろ競技に出場しない国内外のお偉いさんたちには、利権の雨が降り注ぐのだから。利権の雨を目の前にして、雨宿りなどする人はいない。


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宮古島と石垣島のマンゴー

2015年07月15日 | Weblog

  先週テレビで台風9号が宮古島を直撃するとニュースが伝えた。画面には宮古島のマンゴー農家の温室が映し出された。農家の女性が話す「マンゴーは少しでも傷がつくと出荷できなくなる弱い果物なので台風による被害が心配です。今までの苦労が一瞬で失われてしまいます」

 我が家に友人から頂いたマンゴーが3つある。宮古島と石垣島のマンゴーである。テレビのニュースでマンゴー農家がどれほど細心の注意を払って育てているか知った。友人はまず職場で宮古島のマンゴーをもらった。家に帰ると石垣島の知人からマンゴーが届いていた。物事がダブることはよくある。残念なことに友人の奥さんはマンゴーアレルギーであった。娘さんも同じくアレルギーを持つ。友人はがんばって2個食べた。そこで食いしん坊の私を思い浮かべてくれた。何という名誉であろう。「食べてもらえるか」とメールが来た合点承知の助と二つ返事で引き受けた。二人の中間地点で会うことになった。

 友が「さてどうしよう」となった時、私のことを思い浮かべてもらえただけでも嬉しい。思い浮かべた後、わざわざメールで尋ねてくれた。当日奥さんに車で駅まで送ってもらい、電車で約一時間かけて来てくれる。マンゴー農家が育て出荷した手間、友人の気遣いとここまでしてくれる手間を考えると感慨もひとしおである。

 私たち夫婦にとってマンゴーは特別な果物だ。結婚してまもなく妻の任地のネパール・カトマンズに暮らした。生活インフラが悪く飲料水不足、停電に悩まされた。それでも時間が経つにつれて、ネパールならではの発見が増えた。マルダハ・マンゴーとの遭遇である。市場好きの私はほぼ毎日市場へ通った。初めて緑色のマンゴーを見た時、そのうち黄色くなるだろうと買わなかった。やがてマンゴーは市場から消えた。旬が終わったのである。今でもこの半年の損失は大きいと後悔している。友人からネパールのマルダハ・マンゴーはずっと緑色だと教えてられた。初めて緑色のマンゴーを口にした時の感動!千疋屋と水信と紀伊国屋が一度に私の口の中で開店したような衝撃であった。マンゴーは2シーズン堪能できた。

 妻はネパールからアフリカのセネガルへ転勤になった。ネパールを出発する日、最後のマルダハ・マンゴーを食べ、もうこんなに美味なマンゴーは食べられないと思った。ところがセネガルもフルーツ天国だった。マンゴーはもちろん、パパイヤもすばらしかった。マンゴーとパパイヤは一年を通して市場で買えた。

 長野県で生まれ育ってリンゴ、柿ぐらいしか知らなかった。バナナやメロンはよほどの重い病気にならないと縁がなかった。病気の時はすりおろしたリンゴと決まっていた。それでも不満はなかった。長野県を出て、どこにもそこにしかない美味しいモノがあると知った。

 友が運んでくれたマンゴーは美味だった。洗練された上品な甘さでしばし楽園に浮遊した。世の中、新聞の記事もテレビのニュースも不安と妄想を掻き立てるだけ。そんな世間に背を向けて、私はいつしか海、山、川、鳥、虫、樹木、草花を見るようになった。食べ物にも快楽を求める。野菜、魚介類、果物を口に入れ、命をいただく。宮古島のマンゴーも石垣島のマンゴーにも政治も思想もない。あるのは種の保存に他の生物に協力を要請誘惑するために全身全霊を注ぎ込んだ結果としての種を包む魅惑にあふれる果実だけである。

   世の中一見難しいことばかりのようだ。ギリシャ問題、国会の安全保障関連法案、オリンピック会場となる総工費2520億円の国立競技場問題。しかしマンゴーさえできることを人間はできないでいる。それは50-50の単純な取引である。借りたら返す。何かいただいたり、してもらったら、お礼を言う。支出は収入の範囲内。

 私は、種までしゃぶって完食した後、マンゴー、友人、生産者に「ありがとう」と手を合わせた。


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夫婦船

2015年07月13日 | Weblog

  長野県で生まれ育った者にとって、海は憧れと羨望の対象である。私のようにただ憧れて海を見ているだけで終わっている者と実際に逞しく海に出る者には大きな違いがある。夫婦船とあえて題をつけたがヨットのことである。11日土曜日私たち夫婦は友人夫婦に招かれてヨットでセーリングをさせてもらった。同じ長野県生まれでも友人はただ海を見て喜んでいる私とは違う。10日間雨の日が続き台風が3つ発生して天気はずっと悪かった。住む町にある海岸を通る有料道路にはこのところずっと「高波警報」が表示されていた。11日はうって変わって朝から快晴だった。気温も30度を超すと天気予報が出ていた。

 招待されたのは2箇月ほど前だった。どんなお呼ばれにもダボハゼのように喰いつく私は、今回も考えることもなくパブロフの犬なみの反応で快諾した。不安は日ごとに増し、当日が近づくにつれ天候の悪さを“天の助け”と感じていた。連絡メールが9日に入った。ヨット経験が40年を超す友人は「今週の土曜日ですが、取あえず晴れとの天気予報なので、予定通りセーリングに出かけたいと思います。台風が3つ来ていて11号の動きが気になりますが土曜日の時点では小笠原の南に位置するようですのでほぼ影響は無いと思います」

 天気予報の読み方が違う。覚悟を決めた。妻に頼まれた日焼け止めを買いに行った。妻は酔い止めを用意した。11日の朝、信じられないほど晴れ渡り青空を久しぶりに見た。家を出る前に妻に日焼け止めを入念に塗ってもらった。酔い止めも服用した。有料道路の入り口の「高波警報」は「高波注意報」に変わっていた。

 友人がヨットを停泊させているヨットハーバーへ行き、友人夫妻に会った。いつも会っていたのは家の中だった。カンカン照りの太陽の下、赤銅色に日焼けした二人に圧倒された。普段から太陽の光を避けている我ら夫婦はオーブンに入れられる前のパン生地のようだった。すでに出航の準備を終えていた。出発した。操舵輪をつかむ夫、狭いすき間を身軽に駆け巡りロープを扱う妻。二人は会社のヨットクラブで知り合った。40年以上夫婦でヨットに乗ってきた。二人の連係はまさに夫婦船そのままである。3月にはオーストラリアでヨットを楽しみ、数か月前に20日間かけて九州瀬戸内海をヨットで回った。2年前に奥さんが定年退職した後、二人はヨット三昧である。

 エンジンを始動させて港から海原へ出た。風が弱いと言っていたがだんだん帆を張っても帆走できそうな風が出て来た。夫は舵をとり、妻は独楽鼠のように船上をあちこちして帆を上げる。ヨットを操作するのは重労働である。二人とも筋肉だけでその上に丈夫な皮膚が覆っている。鍛え抜かれた体である。揺れる船上での二人の息の逢った動きに見惚れていた。やがてヨットは風を帆にいっぱい受けて波の上を滑走するように進んだ。「ヨットはこうなるとほとんどやることがなくなる」 4人そろって腰かけてゆっくり話すことができた。

 今回、酔い止めの薬が効いたのか4時間以上船に乗っていたのに船酔いすることはなかった。ただ強い陽ざしを浴びたせいで後半、眠気に襲われ船内のソファに横になった。波の揺れが揺りかごのように気持ちよかった。横たわりながらデッキ上の3人の話声が子守唄のようだった。夫婦は二人で荒れた海を航行する夫婦船のようだ。最後の日が来るまでお互いを信じ、助け合ってヨットを操船前進する友人夫婦のように生きようと自分に言い聞かせながら眠ってしまった。

 


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500円玉

2015年07月09日 | Weblog

  女優の野際陽子さんが500円玉貯金を33年間続けてグランドピアノを買ったとネットのニュースで知った。芸能人と言えば派手な金遣いや生活を思い浮かべていたが、何か堅実さを感じ好感が持てた。

 私は日本の500円玉が好きだ。アメリカの西部劇でガンマンがバーに入って酒を注文する。カウンターの上を1ドル銀貨が滑り店主の手に渡る。子供心にカッコイイ思った。当時の日本の硬貨は小さかった。1982年に500円玉は初お目見得した。大きさといい、存在感のある重さ、何より500円というちょうどいい価値観使用感にほれた。一時期韓国の500ウオン硬貨(日本円約55円)が持ち込まれ、自販機や市中に出回った。日本で使えば10倍なったのだから。いったいどれほどの損失を被ったものか。500円玉は使用禁止にされたり、厄介者扱いされた。財務省が重い腰を上げ、不正使用できない新500円玉を発行して、やっと復権をはたした。

 私は孫を持つ身になって500円玉に重宝している。誕生日祝い、お年玉には年齢の数字の枚数を贈る。4歳なら4枚。1歳の誕生日に『10万円貯まる本』株式会社テンヨー 1200円(税抜き)を500円玉1枚と一緒に与える。1歳の孫には何も理解できない。私は孫に服も玩具も買わない。昔、豊臣秀吉の家来の曽呂利新左エ門が秀吉から褒美をもらえることになった。何が良いかと尋ねられ「初めは一粒。その後は毎日、前日にもらったコメの2倍の米をいただきたい」と申し出た。秀吉ははじめこの申し出を「何のこれしき」と受け入れたが後に途方もない量になることに気が付かされ、この褒美を取りやめ謝ったという。私は資産家ではない。しかし孫たちには「塵も積もれば山となる」「継続は力なり」は実践して身につけて欲しい習慣である。

 私自身は金を使うのは上手いが貯めるのはだめだ。貯金箱は数えられないほど持ったが、これ以上金を入れられないというまで貯めたことは一度もない。貯金通帳も同じことだ。やっとすべての欲が信じられないくらい沈静化した。他人を羨ましいとか妬む気持ちも和らいだ。買いたいとか手に入れたいというモノはほとんどない。あそこに行きたいという抑えがたい衝動もなくなってしまった。毎日、家内安全無病息災を念じる。

 日課を順番にこなす。ほとんど毎日同じ繰り返しである。これを規則正しい生活と呼ぶなら私の生活はそうであろう。痴呆症の気配を強く感じる。頭の中から理論とか定義とか法則の類は、脱兎のごとく消えた。だから日課を一つひとつこなすことに努める。たいした間違いをおかさないで済む。ものを書いていても浮かんだ言葉が一瞬で消える。一瞬にして消えた言葉を思い出そうともがく。アからンまで復唱してキッカケをつかもうとするが、なかなか成功しない。5,6分で大抵諦める。諦め方が板についてきた。2日後に突然浮かび上がるように言葉が戻る。メモに書き留める。この喜びが私の背中を押す。

 500円玉は私の人生に似合う。小銭入れに500円玉があると何だか嬉しい。孫たちの年齢が上がってきて、必要な500円玉の数が多くなる。貯めなければと思いつつ、まだあと3ヶ月あるからと手を出してしまう。野際陽子さんは偉い。

(写真:500円玉と1ドル銀貨)


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雨粒・涙・水飛沫

2015年07月07日 | Weblog

  6日は一日中雨だった。朝、窓ガラスを叩くように雨粒が当たりガラスに筋を描いて流れ落ちていた。8時に女子ワールドカップサッカー・カナダ大会の決勝戦日本対アメリカがキックオフされた。開始2分にアメリカの見事な先制シュートが決まりあれよあれよという間に4対0。今回の日本の選手の中で私は宇津木選手のプレーに注目していた。しかし宇津木選手の動きにキレもサエもなかった。今までの日本の試合すべてをアメリカは徹底的に分析でもしていたのであろうか。宇津木選手は前半20分過ぎから動きがよくなった。手を固く握って腕を振り回して応援した。結局5対2で負けた。全身から力が抜け虚脱状態になった。ティッシュで目の周りを拭いた。しかし爽やかでもあった。今回の世界大会が昔十代だった私が学んだカナダで開催されたことも理由の一つ。エドモントンにもバンクーバーにも思い出はたくさんある。

 私はカナダという白人の世界で青春を過ごした。嫌な思いもした。スポーツ、特にサッカーはよく代理戦争だと言われる。私も過去の嫌な経験の敵討ちを日本女子チームに過度に期待していたのかもしれない。相手国チームに平均身長が7センチとか5センチ低いなどと身体的な差をものともせずに巧みで大胆なパスワークで果敢に相手ゴールを狙う姿に過去の若かりし自分を重ねた。

 かつて北海道や樺太の極寒の地を探検した間宮林蔵は日本人が外に出て行けないのは食べ物のせいだと言った。環境の悪い寒冷地で生き抜くには動物性のタンパク質や脂肪が必要なのに日本人の間宮には携行食としての干し飯しかなかったのだ。私もサハリン(旧樺太)に住んだ時、市場で豚の背脂の塩漬けで一番値段が高いのが脂だけの真っ白な部分だと知り驚いた。マイナス40度の寒さに耐えて生き抜くには、良質な脂が必要なのである。

 今回の女子ワールドカップサッカー大会、長年肉と乳製品を摂り続けてきた国々のチーム相手にやっと百数十年前の明治維新を境に肉や乳製品を食べ始めた日本は戦った。日本は身体的には劣っていても、運動神経や知的ゲーム展開では負けていない。平均身長が低くて体が小さくても決勝戦まで勝ち進めたのもスポーツの痛快な醍醐味である。日本人の食生活も変わってきた。まだ時間はかかるだろうが、これからも身体的な改善は進むに違いない。千年を超す貧しく質素な食生活をあっという間に変えたからといって、体質が変わるわけがない。まだまだ日本は国際試合で身体的な不利な条件を背負って戦っていかねばならない。そのために日本人は知恵を絞り努力を重ねる。

 6日の午前中にいろいろなニュースがあった。ギリシャの国民投票でギリシャ国民はEUの緊縮財政勧告にNoを表明。世界文化遺産では一旦日韓の外相会談で双方の文化遺産への登録に協力すると決めたにも関わらずユネスコの文化遺産会議で韓国は従来通りの態度を取った。大分県で10人家族の家が火事になり4人の子供が焼死した。父親の放火だった。

 重苦しい気分に押しつぶされそうになった。こんな時は散歩だ。私は傘をさして家を出た。海の近くの国道の歩道を歩いていた。突然、車に水飛沫を全身に浴びさかけられた。ずぶ濡れ。笑った。私は声を出して笑った。目が覚めた。何が起きても生きていたら前に進むしかない。「風呂に入ろう」と私は傘もささずに家に向かった。


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