団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

運転免許証の書き換え

2011年08月30日 | Weblog

 7月が誕生月なので5年ぶりの自動車運転免許証の書き換えを迎えた。毎回、交通安全協会とやらへの入会を勧誘されるが、今回も断った。

日本の役所は、実に巧妙にあれこれと名目を作って金を集める。免許証はいまでこそ5年に一回の書き換えだが以前は2年に一回だった。こうして、あれやこれやと金を集めるのも、利権である。見事としか言いようがない。日本の役所のこの才能は世界一ではなかろうか。本来義務教育とは、全ての費用を国家が負担するからこそ義務教育と呼べる。しかし実際は、やれ給食費だ、学年費だ、PTA会費だ、修学旅行積み立て金だと毎月保護者に相当な負担を強いる。義務教育にいまほど金がかからないなら、子ども手当てなどいらないはずだ。運転免許証、旅券、車検、NHK受信料、高速道路通行料などなど実に多種多様な徴収が公然とまかり通っている。それを怒りも街頭でデモ行進するでもなく、言われるままに屠場に追いやられる家畜のようにおとなしく払い続ける国民の凄さよ。いろいろな国に住んだが、私は日本ほど生活に金がかかる国を知らない。

 警察に関しては、この運転免許証を始め、パチンコのプリペイドカードなどの利権がある。運転免許証の書き換えのたびに、交通安全協会への入会および継続を堂々と警察署の窓口で勧誘される。公私混同もここに極まれる。これだけああだこうだと取ってつけたような自分たちに有利な理屈をこねられると滑稽である。国民年金、国民健康保険、厚生年金などの積立金をあたかも管理する役所が自分の金のように勝手に使い込み、郵便保険の積立金は湯水のごとく浪費され、日本中にグリーンピアなる郵便保険厚生施設が乱立された。結局それらは経営がうまくいかず閉鎖された。役所ほど金を集めることが上手で、金を儲けることが下手な機関はない。本来預かり金である国民の積立金を使い込めば、横領である。横領を合法化してしまう。法律で運用すると決定して、それをやりたい放題に運用して、その目的は、国民の資産を殖やそうとしたとうそぶく。さんざんに賭博に呆けて、結果の責任は負わないという魂胆である。

 日本の国民はとにかくいまだにお上に盾つくことはできない。欲に身を任せるという人間の本性を素直に丸出しにして、公然と公務員を名乗る厚顔ぶりである。私だって巨額な金を10年20年先まで預かってくれと誰かに言われて手元に現金があれば、あれこれ理由をつけて着服したり流用するに違いない。そして2,3年すれば、ほぼ全額使い込んでしまうだろう。民間人がこれをすれば犯罪である。ところが日本ではお上がこれをすると犯罪にならない。ならないように自分たちで法律さえ変えてしまう。日本のお上は、小賢しい金の集金法を次から次へとよく思いつく。菅直人さんが“思いつきの首相”と言われるが、菅さんにしてみれば、官僚たちが日々勤しんでいることを参考にしただけなのかもしれない。

 憲法の原理原則を素直に実践できる国になれないものだろうか。義務教育ならば、国がすべてを面倒みる。与えた免許は、死ぬまで書き換えなしで使える。旅券だって20歳過ぎたら同じものでいい。証明書代わりと言うなら、背番号をつけてもらっても結構である。こんなに身分証明書代わりをたくさん持たされても面倒だ。世の中、簡便で単純な仕組みにしたほうが住み易いと私は思うのだが。政治屋、役人の小賢しい思いつき徴収にもやがて終止符が打たれる。なぜなら、そのうち支払う側の金が底をつくか、できる人たちは海外に逃げ出す。いつの世でも税の徴収者は、納税者からどんなに税をしぼりとっても、納税者の財布は枯れることがないと何の疑いも持たない。自らが汗水流して肉体労働をしないと、自然にそう思えるようになるらしい。

 どんなに首相が替わっても、日本の役所も官僚も磐石である。役所を近い将来、貴族院、官僚を貴族と貧しい国民は、呼ばされるかもしれない。アフリカでそのような悪夢の国に住んだ気がする。


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水草水苔

2011年08月26日 | Weblog

 7月の台風6号の大雨の影響で家の前を流れる川から水草と水苔の緑色が消えた。多くの小石や砂が流された。川底は、すっかり剥き出しの岩の色である。どんな色かというと、原始を思わせる無生物な色である。灰白色というのか。まだ生命体が出現したばかりの地球の色に思える。ゴミも水生植物も砂も石ころも岩も流された。水と岩だけの無機質で生命を感じない世界である。水の力は今回の東日本大震災後に襲った大津波の被害をみればよくわかる。小さな川だからと侮れない。ましてやこの川は、2,3キロ下れば、海に流れ込む。大津波が来たら、この川を一気に黒い壁のような津波が駆け上って来るのだろう。

家の前の川に向かって扇状に山並みが迫る。急な山斜面を短い距離で下り降りる落差の大きい川である。岩も多い。この川に生きる鳥類もたくさんいる。魚を食べる鳥、水草や水苔を食べる鳥、虫を食べる鳥。カモ、オシドリなどオスとメスの2羽で常に行動するつがいが多い。普段、この川底の大部分は、緑色におおわれている。流れに身を任せるように、ゆらゆらしている長い緑色の水草は、見ていて楽しい。カモは、日中、川底の緑に頭を入れ、水草や水苔をせっせと食べている。その量は相当なものであろう。ところが台風が彼らの生活を一変させた。川が元通りに水草や水苔でいっぱいになるには、まだ相当な時間が必要だ。この川に住む鳥は、災害に繰り返し遭っている。川の水位が上がれば、自分たちで高台に避難してじっと天候回復を待つ。大切な食料を流されれば、何か他のものを探す。普段カモが川から上がっているのを見ることはない。先日、川から5,6メートル上の道路に2羽のカモがよたよた歩き回って草を食べていた。川に食べるものがなくなったに違いない。鳥たちには、災害にあっても自分で自分を守って生きるしかない。その鳥たちの生きようとする姿勢を見て、今の日本の民主党の代表選における政争を見れば、がく然とする。同じ繰り返しという言葉であっても、政争の繰り返しには真摯な生きる目的が欠けている。ただの政界というサル山の親分の身分取りの争いと言ったら、サルに失礼か。

 8月17日ころから、川底を覗き込むと、何やら水草のようなものが見えた。再び川底が水草水苔におおわれる日が近々来るだろうと私は喜んだ。そうなればそれが当たり前のように水鳥たちは、つがいや親子連れでのんびりえさをついばむに違いない。そう思って喜んだ矢先、翌18日から続く局地的豪雨で再び川から緑色が消えてきた。飄々と生きる鳥が東北の被災者のように思える。自然に翻弄されているのは、人間だけではない。生き残りをかけて、あらゆる生き物が闘っている。そうやって有史以来、数えられないくらいやり直しを続けてきた。このたった1ヶ月で2度も増水で川床から水草や水苔が消えた。それでも水鳥たちは、あきらめることなく懸命にエサを探している。ほとんど飛ぶところを見たことがなかったのに、飛んで移動することが多くなった。川の流れの真上をエサを求めて低く飛来する。すぐ目の前の川中にも多くの命が日々生存を懸けて戦っている。見ようとしなければ見えない。聞こうとしなければ聞けない。小さな生きるための闘いが繰り返されている。


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中国の新幹線

2011年08月24日 | Weblog

7月24日中国の新幹線が大事故を起こした。日本の新幹線が東京―新大阪間で開業したのが1964年の東京オリンピックの年だった。その頃私はカナダの学校に学んでいた。英語で新幹線のことをbullet train(弾丸列車)とカナダの学校の人々は呼んだ。日本にそんなに早く走行できる列車があることを多くの人々が信じなかった。当時まだメイド イン ジャパンは粗悪品の代名詞だった。多くの男子生徒から日本製の輸入車は、アメリカやカナダからのスクラップだけで作られていると私は公然とバカにされ笑われた。あれからすでに47年が過ぎた。

 今、日本人は47年前のアメリカやカナダ人と同じような気持を中国に対して抱いている。「中国が日本と同じ品質のモノをつくれるわけがない」と。追われる者は、傲慢になりがちである。一時的な繁栄を永遠のものと錯覚する。栄枯盛衰。1980年代のバブル期、日本は有頂天になっていた。日本マネーでアメリカが買収されてしまうとアメリカ人は危機感を持った。日本のバブルは、あっけなく破裂した。それから20年以上、日本は、世界市場で新興国の猛烈な追い上げにシェアで衰退の一途をたどっている。日本社会の成熟と共に、それは日本が築き上げて来た技術ノウハウが、世界で重要な貢献を果たした結果でもある。

 日本には「自身得度先渡他」(自分のことはさておいて他人をまず助ける仏教思想)の考え方が重んじられている。その考えが、国際社会において生き下手、商売下手の根源になっている気がしてならない。ノーベル化学賞学者根岸栄一さんと鈴木章さんは、受賞することになった「有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリング」で、あえて特許を申請せずに世界に公開した。その分野は驚異的発展を遂げた。金権主義が世界を支配する中で心洗われる事実である。しかし、世界はそんな日本を決して好意的に評価しない。評価しないどころか、日本の自身得度先渡他風潮を逆手にとって、手柄と利益を奪おうとなりふり構わず攻勢をかけてくる。だからこそ日本のこの精神文化を私は誇りに思う。

 今回の中国の新幹線は、日本の新幹線技術とドイツのATG技術が基本になっているという。新幹線車両製造会社の川崎重工は、中国に積極的に技術供与をした。安全運行システムを持つJR東海は、中国側の技術移転要請を拒否した。中国は、新幹線の車両は作れるようになったが、安全運行させるシステムを中国は自前の技術で開発した。その結果事故は起きた。すでに事故から1ヶ月が経った。事故の真相は明らかにならない。明らかにならないというより、おそらくこのような高度な交通運行システムの事故究明の経験もノウハウも未熟なのだろう。それはどの国も発展過程で通らなければならない道である。そこに長年の共産党一党独裁の弊害が加わって問題が複雑にされている。東京電力福島原子力発電所事故の収束も原因究明もいまだに終らぬ日本が口をはさむことはできない。

かつて長野県の椎茸生産者、きのこ生産者、りんご“ふじ”の生産者、いちご生産者から話を聞いた。中国からの見学者、実習生が大挙して押し寄せた。行政やNPOから頼まれて快く技術や生産のコツを惜しげもなく伝授した。その結果、後に長野の農産物は、中国からの農産物の輸出攻勢に白旗をあげた。特に椎茸業者は、値段の競争に勝てなかった。ここで忘れてはならないのは、どんなに真似ようと試みても、多くの条件を満たさなければ、ある程度の生産も品質の向上もみられない。追う側の生産に関わる資質、環境、インフラや国民性も重要である。いくら中国の技術水準を見下しても、宇宙有人衛星打ち上げ、航空母艦、深海探索艇、ステルス戦闘機と次から次へとあらゆる分野で世界の最先端に進出を狙ってくる。追う側、追われる側の熾烈な競争があること自体、社会の発展につながっていることは否めない。長野県の多くの生産者が廃業に追い込まれ、巨額な農協からの借金だけが残った。お人好しと笑っていられない。先進国の宿命なのだ。かつて日本が欧米を追いかけ、追い越そうとした。弱肉強食の世界と言ってしまえばそれまでである。


 日本の存在する立ち位置が見えてきた気がする。世界は意識も認識もしてくれないだろう。それでいいではないか。今、日本人に一番必要なのは、自身得度先渡他の心を忘れることなく、それ以上に自分たちが汗をかいて働き続けることではないだろうか。信念を持って生きる。次から次と日本のお家芸や長い年月かけて築いた技術やノウハウや特許が、他の国々に掠め取られて、追われ、追いつかれ、抜かれていく。それでも日本は、地道に進み続けて、更に新しい挑戦を続ければいい。日本は面積では小さな国である。しかし実績はあるし実力もある。どんな時代においても必ず真実を見抜いている賢者が世界中に数は少ないが存在する。どんな状況においても、自ら汗して工夫することをおろそかにせず、より良い結果を出すために、信念を頑固に胸に秘め、ただ一心不乱に働き続ける。まだまだ日本が世界に紹介しなければならないことは、あらゆる分野で山ほどある。日本の持つ技術ノウハウを世界に広め、世界発展に貢献する。これからの日本は食料の自給率を上げ、学校教育の改革で20年30年先を考え、モノづくりを続ければ、おのずと結果が出てくるであろう。よく成績優秀な生徒が突然頭角をあらわしてきたかつての成績が振るわなかった生徒に負けて、自暴自棄になったり極端に落ち込むことがある。中国、韓国などの新興国の躍進を目の仇にすることなく、ここは嫉妬やっかみに身を焦がすことなく、鎖国から世界進出したように再度あらためて世界進出したいものである。日本女子サッカーチームが、日本の進むべき道を明確に教えてくれた。チビと言われようが、何と言われようが、あきらめるな、日本。喰いついていけ、日本。


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齋藤亮一写真展

2011年08月22日 | Weblog

 私が出版した『サハリン 旅のはじまり』(清流出版)で写真を担当した写真家の齋藤亮一さんが写真展を開くと案内ハガキをくれた。8月27日(土)から9月6日(火)10:30a.m.~7:00p.m. 場所新宿区新宿3-26-11 新宿高野ビル4階 コニカミノルタプラザ ギャラリーC、とあった。ぜひ行ってみたい。どんな作品に出会えるのか楽しみだ。

 齋藤さんは、すでにたくさんの写真集を世に出している。私は特に写真集『バルカン』と『ノスタルジア』が好きだ。そこには東欧の普通の人々が生き生きと写されている。彼が撮る人物は、それぞれがメッセージを持っている。写真家は、カメラのファインダーを通るとただ被写体を見るだけの目ではなく、芸術と呼べる感性の目を持っているとしか思えない。サハリンへリンさんの写真を撮りに行ってもらった。リンさんの生き様を文章、写真、音、できれば映像で残すことは、私の責務だと考えたからである。私は、リンさんの年齢を考えて、これが最後の機会だと思った。それは、ある意味、無謀な依頼であった。それでも齋藤さんは、その撮影を引き受けてくれた。いまだに引き受けてもらえたことが信じられない。


 彼が撮影した写真は何千枚単位であった。『サハリン 旅のはじまり』に載せられた写真は、そのほんの一部である。撮影旅行は、春、秋、冬の3回だった。同行したかったが、当時の私の心臓の状態で、サハリン行きは不可能だった。たとえ私が行けたとしても、私は邪魔する以外何も出来なかったであろう。リンさんという写真に残さなければいけない被写体を私が望むように撮影するには、齋藤さんにお願いするしかないと私は決めた。そう決めた自分は、正しかった。3回の撮影旅行を終え、数ヵ月後齋藤さんからアルバムにされた写真が届いた。その写真のどれにも私の姿はなく、リンさんかサハリンの風景しか写っていなかった。しかしどの場所にも、かつて私はリンさんと一緒だった。齋藤さんとは綿密な打ち合わせを繰り返した。私の話を聞いて、それに答えるように私の思いと願いをリンさんの表情に焦点を合わせてくれた。齋藤さんは、いつもリンさんの隣に私を置いてリンさんの写真を撮ってくれたのである。私にとって齋藤さんが撮影してくれたサハリンの写真は宝である。


 写真家齋藤亮一の作品を見て、彼の感性に触れていただきたい。


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2011年08月18日 | Weblog

 陽が昇る前から蝉が鳴きだす。種類によって鳴く時間が違う。「ジージージー」(ジージーゼミ)「ミーンミンミ~ンミンミン」(ミンミンゼミ)「シャァア シャァア シャァー」(クマゼミ)「カナカナカナ カナカナカナ」(ヒグラシ)「ジィジィージリジリ ジィジィジリジリ」(アブラゼミ)「ジィーイ オシンツクツク ツクツクジィイ」(ツクツクボウシ)我が家のまわりは蝉に占領された。まさに蝉時雨のどしゃぶり状態である。陽がくれると蝉は鳴かない。せめても救いである。熱帯夜に蝉時雨と24時間、熱と音にまとわりつかれたら、この身がもたない。


今年ミンミンゼミがなかなか鳴かなかった。2週間前からやっとジージーゼミがポツンと間が抜けたよう鳴きだした。迫力がなかった。蝉時雨と云われるほどのわんわんと暑い外気をひっかき回すような力強さが聞けずさみしかった。その代わりに我が家にはセミぐらい空気を震わせつんざくように泣く赤子がひと月いた。「ウェアーウェアーアーアーアー」 泣く理由がわからず、新米ママもまわりもオロオロするばかりだった。赤子の泣きにまわりが必要以上に反応してしまうのは、脳の所為だ。人間だから話せる。話せるから相手の気持が理解できる、とどうしても思ってしまう。大人の寝不足が続いた。慣れとはおそろしい。3週間も経つとセミの鳴き声同様、容認してしまっている。お互いを言葉で理解できないと認めあう。反応が鈍くなった。「泣く子は育つ」などのコメントも堂々としてきた。赤子は7月30日の夜、父親が車で迎えに来て、家族みんなで東京の自宅に帰った。赤子がいなくなったら静かになるのかと思った日の夕方から、家の前の桜並木からミンミンゼミの輪唱が力強く聞こえてきた。世の中、何事にも順番というもがあるようだ。


 蝉がどんなに鳴いても私にその言わんとすることは理解できない。理解できないから聞き流せる。人間それもお互い理解できる言葉を話せると事情は違ってくる。何千何万という蝉に混じって数人の声が毎朝7時過ぎに窓から入ってくる。女性3人組の健康維持のために歩いている仲間のようである。よりにもよって、我が家のまん前が休憩場所になっている。おやつを持ってきていて、土手のコンクリートの欄干に仲良く座っておオシャベリである。普段は二重ガラスとサッシにさえぎられて、外の音はほとんど聞こえない。ところが今年は節電対策で窓という窓を24時間開け放している。自然の風が頼りだ。外の音、蝉の鳴き声、鳥のさえずり、人の話し声、犬の吠え声が聞こえてくる。蝉の音、犬の吠え声、鳥のさえずりも聞き流せる。それらの音が何を意味しているのか理解できないからだ。でも3人の女性のオシャベリは、耳障りである。時々彼女たちの話す音が言葉として理解できてしまうからだ。私は最近難聴ぎみである。その少し不便な耳が音を拾い、弱った脳はその音を認識して理解しようとする。3人が「ヒヒヒ、ハハハ、フェフェフェ」と笑ったりすると、私は無性に笑いのもとを知ろうと気になる。


 3人組は、たっぷりオシャベリして飲んで食べて20分ぐらい休憩していく。ゴミを平気で数メートル下の川の流れに投げ捨てて、元気よくまた歩き去る。蝉だけが今までどおりに鳴いている。人間は、わざわざ相手のことを知りたいがために自ら苦労を買って神経をとがらせる。蝉がこれだけの数で鳴いても苛立つことはない。共生できている。人間はヤッカイな動物である。(写真:我が家の網戸で鳴くミンミンゼミ)


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どうしていけないんですか

2011年08月16日 | Weblog

 暑い午後だった。自動車なら冷房を思い切り使えると、普段なら電車で行く町へ珍しく車で出かけた。買い物を終えて、駅から離れた駐車場に向かって、駅の近くの路地裏の狭い道路を歩いていた。2トン積みのトラックに違法駐輪していた自転車を60歳は過ぎている男性二人が汗びっしょりになって荷台に積み込んでいた。胸にシルバーセンターと刺繍が入っていた。汗が流れるように赤銅色の顔、腕をつたっていた。自転車を積み込むと、自転車があった場所に自転車を撤去した旨を知らせる印刷物を地面に貼り付けていた。不法駐輪されていた自転車は、きれいに片付けられた。そこに女子高生と思われる二人が、自転車を止めた。男性の一人が彼女たちに近づいた。「ここに自転車を止めるとああやってもって行かれるよ」とトラックに積み上げられた自転車を指差す。


 女子高生の一人が「どうしていけないんですか」と男性に尋ねた。「どうしてって、そういう規則だから」「どういう規則なんですか」「どういう規則って」男性は苦戦していた。黙る男性に向かって容赦なく淡々と女子高生は続ける。もう一人の女子高生は、ただ横に立っている。「さっき駅の交番の前の信号で赤信号を渡る人がいました。交番の前に警察官がいるのに、警察官は注意をしませんでした。歩行者は赤信号で渡ってはいけないのは、規則ですよね。規則が守られているかいないか、見張るのは警官の仕事ですよね。規則、規則って言っても、結局は運ではないのですか」小気味いいほど弁が立つ。この女子高生って弁論部かな、などと思いながら私は暑さを忘れてやりとりに聞き入った。トラックに乗り込んだもう一人の男性が手招きした。男性は「そこに止めたら、ああやって持っていかれて、取り戻すには、お金も時間もかかるから止めないほうがいいよ」と言ってトラックに向かって汗を首に巻いたタオルで拭きながら歩き去った。女子高生は平然と自転車を止めて駅のほうへ歩いて行った。


 私には物足りなかった。私もこういう話し合いなら是非参加したかった。そして「法律や規則を守るのは、国民の義務なんだよ。運なんかではない。守ろうという姿勢、生き方だよ」と伝えたかった。女子高生の「どうしていけないんですか」の質問に時代の変化を感じた。答えた男性は、現場の人間として当然な言動と行動だった。普通の日本人としての返答内容だろう。女子高生は、声の感じも冷静で、決して男性を責めてたてていなかった。落ち着いていて素直だった。顔と姿勢は、真面目さを表している。国会答弁に出てくる女性議員のような見え見えの目立ちたいという野心もなく、ただただ本当のことを知りたい気持ちをすべてに表していた。暑くて私は気分が滅入っていたが、こういう若者がいるのかと嬉しく思った。解らないことを解るまで解る人から説明をしてもらう。これは学習の基本でもある。長く日本の庶民は、国の舵取りを政治家や官僚に任せきっていた。お上のすることに下々の者が物申すことができなかった。「どうして」と解らない事を尋ね「それはこうこうしかじかだからこうなんだ」と解りやすく普通の言葉で聞ける環境になかった。

 今、日本に必要なのは、単純に解らないなら尋ね、解るまで説明を受けることができる社会を整えることである。いつのまにか日本の政治は、国民を狐に騙されたように、解らないことばかりの状態に放置してきた。政界は混迷を深め、迷走している。できるなら自転車の女子高生と菅首相夫妻や閣僚の面々との質疑応答を聞いてみたいと思った。外出のたびに出会ういろいろな日常の出来事から、私は良い勉強をさせてもらっている。


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なんとなくジメっとしてない

2011年08月12日 | Weblog

 朝、妻を駅まで車で送る。私は何事も素早くこなす。妻はモタモタ傾向である。毎朝私は玄関でドアを開けたまま、妻が出てくるのを待つ。時には、その時間が4,5分かかることもある。私はじっと待つ。玄関は空気がこもりやすいので、空気の入れ替えになると割り切って待っている。

 妻は私が靴を履く時、「ヨッコラショ」と腰をおろして靴ひもを結ぶために買った高さ30センチの台に座り、靴べらで足を靴に押し込んでいた。立ち上がる時、「なんかジメっとしてない」と床を指差し、スットンキョウな声を上げた。短い時間によくこれだけあれこれ騒ぎを起こせると、いつも感心させられる。

 玄関のたたきの壁面に扉があってその中に深夜電力を使う給湯器の電気式ボイラーが収まっている。そこから床に水がにじんだシミのように広がっている。嫌~な予感がした。腰掛け用の台をどける。小さい台だが、これがまた石のように重たい。天気予報で今日は高温注意報が出るだろうと言っていた。台を動かしただけで汗が噴出した。やっとボイラー収納庫の戸が開くようになった。開けた。深夜電力を使って力いっぱい熱湯を溜め込んだのか、もの凄い熱風が体全体にまとわり付いた。更に発汗が促された。熱いボイラーがそこにあっただけで、素人目に故障も異常も見つけられなかった。「電話番号しらべて点検と修理頼んでおく」と妻に告げた。駅から家に戻り、今日の計画を立て直した。結局、午後2時半に点検に来てくれることになった。

 時間正確に修理担当者がやってきた。20代後半の若者だった。30分くらい温水器をあちこち分解して調べてくれた。呼ばれたので書斎から出て行き、玄関で説明を受けた。暑い日に熱いボイラーの点検を狭い玄関脇の納戸の中で仕事をしていたせいで、若者は汗びっしょりになっていた。こんな日に制服もないだろうに。それこそ制服の色が変わり、染みた汗が塩になっていた。汗を拭き拭き説明してくれた。ボイラー上部の配管のパッキンが劣化してそこから水が漏れている。パッキンを換えれば、水漏れは止まる、の説明に安堵した。温水器の交換などということになれば、それこそ何十万円の出費となる。料金の説明をしてくれた。8631円の提示に即同意した。再び仕事にかかり、約90分で修理が終了した。若者は後片付けもきちんとしてくれた。こんな暑い日に彼のハツラツとした働きぶりに、ただ文句を言って暑さにかまけて、ぐだぐだ時間を無為に過す自分を反省した。なまけものの私は、一生懸命働く人をみると嬉しくなる。

それにしても家庭用の温水器でも水漏れがパッキンの劣化で起こる。原子力発電所となれば、仕組みが複雑で配管も入り組んでいる。遅遅として東京電力福島原子力発電所の事故が治まらない。現場で働く関係者の苦労が思われる。今日来てくれた修理の若者のように懸命に働いているのだろう。時間はかかるだろうが、ひとつひとつ原因を点検して突き詰め、ひとつひとつ改善修理してゆくしかない。原発を作るのも保全維持するのも気が遠くなるくらい、忍耐を必要とする。日本全体が作ることだけに熱をあげ、保守点検をおこたってきた気がする。温水器を修理してくれた若者からたくさんのことを教えてもらった。(写真:なんとなくジメっとした床と温水器)


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コゲクサイ

2011年08月10日 | Weblog

 パソコンに向かっていた。節電とやらで、我が家は窓全開である。焦げ臭いニオイが鼻についた。まず自分の書斎からかと鼻をクンクンさせた。書斎にはパソコン数台、プリンター、スキャナー、ファックス、テレビとタコ足配電で、電線が入り乱れている。痛い腰をかばって不自然な中腰であちこちニオイを嗅ぐ。窓の外でだれか火を燃しているのかとのぞく。だれもいない。煙も見えなかった。客間には長女と赤子が休んでいた。妻は東京で勤務中。私の心配が募った。

 はっと思い出した。書斎に入る前、私は台所にいた。ということは、もしや。思い出した。鍋に水を入れ、火にかけた。水が沸くまで、書きものをしようと書斎に入った。パソコンに向かえば、全ての用事を忘れてしまう。オール電化の調理台に鍋があった。臭っている。コゲクサイ。私はがっくりと肩を落とす。またやってしまった。鍋はチンチンになり塩が結晶化していた。娘と私のためのランチのためにグリーンアスパラを茹でるため塩を入れてあった。鍋が惜しいのではない。また一度にひとつの仕事をするのでなく、他と掛け持ちして失敗したことだ。どうしてひとつに集中できないのか。能力がないのに、他の事に手を出すのか。それにしても火事にならなかったのが不幸中の幸いであった。いったいこれまでにいくつの鍋を焦がしたことやら。

 原因は3つある。①IH調理器を過信している。一定の温度と時間に達すると自動停止される②ながら仕事。時間をモッタイナイと思って、他のところで他のことをしようとする③老化による物忘れ現象。対策は、じっとして動かないで、ひとつひとつの仕事を片付けていくことだ。火事にいたらなくてよかった。壁に注意喚起する『鍋の前から動くな,動くなら火を消せ』の貼り紙をして、気をつけたいと思う。(今回動転して写真を撮るどころではなかった。掲載写真は過去のゆで卵で焦がした鍋である)


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小林茂著『外邦図』

2011年08月08日 | Weblog

『外邦図』(小林茂著 中公新書 860円)を読んだ。著者の小林茂さんは、大阪大学の大学院教授である。副題が「――帝国日本のアジア地図」で帯に「戦争と植民地統治の『道具』」とあった。

 私は、もしや樺太のことも書かれているのではと目次を開いた。あった。第8章に樺太・朝鮮半島の測量が載っていた。樺太、いまのロシア領サハリンである。そこで私は林太煥と出遭った。リンさんは私の自然学校の先生だった。釣り、山菜取り、蟹とり、貝拾い、木の実とり、キノコとり、狩りとサハリンの原野を歩き回った。(参照:拙著『サハリン 旅のはじまり』清流出版)そのリンさんがリュックに大事に収めていたのが、旧日本軍が使っていた地図だった。リンさんは「ロシアの地図よりずっと正確です」と折り目がすでに破れ、紙で丁寧に裏打ちした古い地図を大切にしていた。まさに『外邦図』そのものだった。リンさんがその地図をどうやって手に入れたのか、尋ねたことはない。リンさんへの質問は、気を遣わなければならない。なぜならなにげない不用意な質問が、リンさんの心に残る深い傷に塩を塗りつける事態になりうるからである。私が想像するに、樺太の炭鉱に取り残されたリンさんは、生き延びるために日本人が急いで持つものも持たないで、命からがら日本本土に逃げた後、残された物の中から役立つものを探しまわったのだと思う。進軍してきたソ連軍の兵士たちが探した物とリンさんが欲しいと探した物は異なっていた。

 私と妻はサハリンに約1年7ヶ月暮らした。リンさんがよく言っていた。日本が樺太を放棄した後、樺太にソ連が新しく作ったものは長い間なかった。日本が残していった建物、インフラをそのまま使った。日本が建設した飛行場をソ連は使うと思ったら、強制移住させられたソ連人は、飛行場の舗装を剥いで、家を造る材料にしてしまったとリンさんは当時の驚きを語ってくれた。あちこちに造られたりっぱな製紙工場は、その後稼動することなく朽ち果てている。リンさんに連れられて、サハリンをあちこち訪ねた。リンさんの土地案内は、すべて旧日本名だった。私は「外邦図」が、リンさんの頭に入ってしまっていたのだと思う。もしかしたら彼独特の私への気遣いであったのかも知れない。おそらくロシアのような機密の多い国家は、どんなに精巧な地図を持っていても一般国民に公開していないのだろう。でなければ、リンさんがあれほど旧日本の地図を大切にするわけがない。リンさんは、地図を自分なりに頭の中で書き換えていた。それこそ「外邦図」の平和利用である。それが彼の釣り、狩猟、山菜、キノコなどの採集生活に他の人々の追随を許さないほど良い結果を出していた。

 私は国の教育水準を表すひとつの現象は、その国民の地図への関心の高さだと思う。いまでこそ車にナビが付いて、未知な行き先であっても、行き先を地名、番地、電話番号で検索、設定さえすれば、簡単に目的地に車のナビが案内してくれて到達できる。私の10代後半に暮らしたカナダの人々の車には、何冊ものドライブ用の地図帳があって驚いた。旅行している日本人かどうか見分ける方法は、メガネをかけていて地図ばかり見ているかいなかだそうだ。そういえばまさに私はその二つの条件を満たしている。かつて住んだネパールにもセネガルでも人々は地図に関心がなかった。関心がないというより地図に慣れ親しんでいなかった。雇っていた運転手に地図を示して行き先を言っても理解してもらえなかった。言葉でどこどこと言えば、問題なく到着できた。わからなくなると、運転手は車を停めて、人々に尋ねた。


 
哀しいことだが、小林茂教授が指摘するように、地図は戦争があるたびにその正確さを増す。ある国が他の国を侵略すると、統治のために正確な地図をまず作って、その国をできるだけ掌握して完全な指揮下に置こうと努める。重要な軍の機密事項でもある。日本でこれだけ普及している自動車のナビ設備は、多くの独裁国家などでは禁制品である。それを考えると、日本のように地図もナビもあけっぴろげに開放されていると、テロ攻撃などに利用される危険が大きい。核廃絶、戦争のない平和を目指す日本のジレンマである。それを自覚して、あえて危険に満ち溢れる世界にこれからも平和を訴えるのは、日本の義務だと思った。この一冊を書き上げるために、小林教授がどれほどの時間を資料集め、聞き取り調査をされたことか。もうすぐ66年目の『終戦記念日』がやってくる。こんな素晴らしい日本の歴史を地図から考察した本が出版された。日本は戦争に負けた。しかし確実にその苦しみから学びとった反省を未来に向けて形にしつつある。この本がそのことを力強く教えてくれた。


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サマープレゼント

2011年08月04日 | Weblog

 電話の声「○○○○さんですか?」私「はい、そうですが」怪しい電話かな、と内心思った。とうとう私にもオレオレ詐欺の順番が回ってきたか、と相手をやり込める算段を考え始めた。電話の声「おめでとうございます」私はほら来たぞと思った。よくある手らしい。何かに当たったと告げ、それにつきましては、手続きに○万円が必要ですので、お手数ですが振り込んでいただけるでしょうか、となるという。だいたい私のように根がおめでたい人間は、「おめでとうございます」にからきし弱い。すぐ有頂天になって我を忘れてしまう。図星だと思ったが、さにあらず。電話の女性の声は「○○○サマープレゼントキャンペーンでハワイ・オワフ島4泊6日の旅当選のお知らせです。おめでとうございます。ただいま抽選が終わり、電話でのお知らせです。後日正式なご当選証書をお送りいたします」と弾むような声でかなり興奮して様子で続けた。

 よく駅ビルで買い物をする。多くの店があり、便利だ。駅ビルでは、テナントと共催していろいろな売り出しをやる。先月、飲み続けている補助栄養剤が少なくなってきたので3ヶ月分まとめて買った。その時サマープレゼント応募用紙をもらった。5千円で応募用紙が一枚ということで3枚もらった。そこに「当たればいいな」という気持でなく「こんなのに当たるはずがない」という強い気持ちで5つある選択肢から一枚は「ハワイの旅」、もう一枚を「箱根のレストラン食事券」最後の一枚を「3千円買い物券」と選んで、出口の応募箱に入れてきた。その一枚が当たったのだ。3枚しか応募していないから、補助栄養剤を買ってもらった応募券で当たったことは明白である。

 妻にメールしようとした。しかし待てよと考えた。招待は二人ではない。当たったのは、一人である。詳細は、書類が届くまでわからない。ネットを使ってハワイ旅行4泊6日で幾らくらいか調べてみた。安いものは4万円くらいからある。どうせ夫婦や家族と行きたいと言い出す当選者のために。参加者負担の方法もあるだろうし、せいぜい7,8万円であろうと高を括って、妻と一緒にハワイへ行くことを前提に妻に報告メールを送信した。

電話から3日後封書便が届いた。あらためて当選証書の“ご当選おめでとうございます”の文字ひとつひとつが目に沁みた。それも束の間、同伴参加者お一人につき295,000円の数字を見つけた。すでに私たち夫婦の頭では4,5万円から高くて7,8万円という数字が入ってしまっていた。桁が違う。私は当選をあきらめることにした。

その夜帰宅した妻に私の結論を話した。妻は怒って「あきらめることないじゃない。行ってきなさいよ。モッタイナイ。私が一緒に行くとしても、こんなに急では、私の休暇はとても取れないわ」と言う。「あなたが当たったんだから、行くべきよ。あなたがあきらめれば、儲かるのは主催者だけよ。それにしても同伴者の30万円は高いわね。ビジネスクラスかな」


 
そんなわけで一度はあきらめた当選だったが、私は一人で参加することにした。30日に説明会があって出席した。不参加にしてもそれだけの費用が賞金として授与されるわけではない。親戚なら代理参加可能と言われたが、一人で参加できる親戚がいない。知人ならたくさんいるのに。残念だ。私の代わりに繰り上げ当選者がでるわけでもない。ただただ当選辞退ということで終わりになることを確認できた。腑に落ちない“おめでとう”である。降って湧いたような“おめでとう”に振り回されて、いくつもの決断をせまられた。このところ他にも疲れることがたくさんあった。疲れをとりに休みにいくことに発想を転換した。グダグダ言うのをやめて、素直にこの当選に感謝しよう。もう時差の生じる旅行は、しないと決心してから2度目の旅になる。


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